水溜まりの向こう側




食べ終えたお皿を洗っていると、そろそろかもと思って覗き見た時計がもうすぐ8時を差そうとしていて急いで泡を洗い流した。手を拭きながらパソコンを付けると天気予報が昨夜から降り続いた雨も午後までには止むと知らせていた。

上着を羽織りテーブルの携帯電話を持って外に出ると、風が強くドアが押し返された。
風で渦巻く雲は真っ黒でこれからやってくる強風と大雨を予想させる。
台風は危険と分かっていながら、どうしてもワクワクしてしまう。子供のころは台風で学校が途中で終わってみんなで早めの帰宅する時が楽しくて仕方なかった。強い風に飛ばされそうになりながらカサを壊して帰って怒られたっけ。

アパートから5分ほど歩くと林があり、短い山道を抜けるとすぐに地面が砂に変わって足場が悪くなる。林に入ったところから低く激しい波の音も聞こえていた。空では風がごおごおと渦を巻き、海では波がざっぱんざっぱんと大地を揺るがしている。・・・そんな中ではほんの些細な携帯電話の呼び出し音を私は暗がりの中で聞きとりすぐに通話ボタンを押して耳にあてた。

『いま起きたところです』
「ちゃんと寝たの?」
『3時間ほどです。雨が降ってるので、目が覚めました』
「ちゃんと寝なきゃ駄目よ、雨の音くらいで起こされないで」
『寝過ぎると、背中が痛いんです』
「それは普段のあなたの姿勢が悪いからよ」
『そうですね』

寝起きでいつも以上にローテンションなエルの声が、機械越しにくぐもって届く。
読んだ本を一字一句逃さず脳に叩きこんでしまう聡明な彼なのに、起きたらまず「おはよう」という挨拶だけはいつまで経っても覚えない。いや、分かっていながら彼はそれを発さない。こちらが夜だと知っているから。

『どこにいるんですか?波の音が聞こえます』
「海岸よ」
『そちらはもう夜でしょう』
「そうよ」
『台風が近づいてるようですが荒れてるんじゃないですか?』
「よく知ってるわね」
『そちらの天気はいつでも画面に出てますから』
「あら、こっちの天気まで気にしてくれてるの?」
『私はあなたのすべてをいつでも気にしています』
「気にすることしかできないものね」

ふふと笑いながら言うと、ずいぶんな皮肉ですねとエルが間を空けて返した。
定型を崩したエルの声が幼さを帯びていて、おかしい。

『なぜ海にいるんですか』
「エルから電話がかかってきたときはいつも海にいるわ。知らなかった?」
『知りませんでした。それよりも危険ですから帰ってください』
「冷たいわね」
『これ以上心配ごとを増やさないでください』

起きぬけの頭を抱えているようなエルが想像ついて、声を上げて笑った。
エルの声を聞きながら、エルがいるほうを向いている時間が幸せなの。
海も夜も飛び越えた、この水平線の向こう側に、エルがいる。
見えなくても、触れられなくても、遠いどこかにいるあなたの方を向いていたいじゃない。

『すみません、もう出ます。すぐに家に戻ってくださいね』
「それはどうかな」
『・・・』
「はいはい、分かりました。安心して出かけてください名探偵」
『またあとで電話します』
「ヒマなの?名探偵」
『今日はずいぶん皮肉が多いですね、寂しいんですか?』
「嫌な人ね」
『お互いに』

私がエルに皮肉を吐くなんて、構ってほしいこと以外の何ものでもない。
それを私より理解しているエルが憎らしく、いとおしい。

そうか。私、今なかなか不安なんだ。
もうずいぶんと長いことエルと会っていない。電話は極力くれる彼だけど、それでは満たされない時が、定期的にやってくると知っている。私も彼も。

『抱いてほしいんですか?』
「表現が単純過ぎよ、もっと日本人に合う言い方を覚えたら?」
『私は抱きたいです』
「だからぁ・・・」
『抱きしめて眠りたいです』
「・・・」

やめて。そんなことを言うのは。
言葉だけじゃ、満たされなくなってしまう。

『もう少し落ち着いたらそちらに向かいます』
「落ち着く日なんてあなたに来るのかしら」
『来ないなら作ります。そちらで面白そうな事件を探すとか』
「こらこら、何しに来るのよ」

たとえばあなたが一目散にこの海を越えてきてしまうくらいの面白い事件やおいしいスイーツがこの国にあったなら、あなたは本当に飛んできてしまうんだろう。大好きなものに盲目的な子供だから、あなたは。

だけどね、エル。
もしあなたが「これが最後だから」と私の元へやってくるのなら、私はきっと来ないでほしいと願うわ。あなたが私を羨望してくれるなら、惜しんでくれるなら、電波しか届かないところだって、こんな海の向こう側だって構わないの。いつかあなたに最期の瞬間が来たとして、それでも私を脳裏に蘇らせて終わりに抗ってくれるなら、会いに来てくれなくていいの。

私で区切りをつけるつもりなら、あなたには不満足なままでも、遠いどこかにいてほしい。
声しか聞けなくたって、あなたのいる土地の天気を知ることしか出来なくたって、あなたがくれた花と同じ香りを身につけることしか出来なくたって、私はあなたを全身で感じてみせるの。

『ではまた後で』
「ほんとにかけてくる気?」
『寂しいんでしょう?』
「私が?あなたが?」
『私がです』

クスクス笑うと遠いどこかであなたも笑い、目覚めの声で「おやすみなさい」とつぶやいた。
毎朝、一番に私に声を聞かせ、私の声を聞く。
おはようを知らないあなたが私におやすみという。
遠いどこかであなたが笑う。
それがあなたの日課である限り、私たちの間にはだかるこの大海だって、ほんの水溜りだ。

そうでしょう、エル?




水溜まりの向こう側