そんなキスなら、覚えていられるかもしれない




初めてキスした時のこと。
遅咲きだったからもう立派に大人と呼ばれる年だった。見た目や中身は別として。相手は覚えてる。初めてちゃんとお付き合いと言うものをした人だから。でも、どんな風にそうなったかとか、味・・・とか?覚えてない。

「じゃあ初めてのセックスは?」
「・・・相手は覚えてるけど詳しくは覚えてない」
「日にちとか、初めての感想とか女の子は覚えてるもんじゃん」
「・・・大体の季節しか思い出せない」
「重症だな」

目の前の男は軽くハハッと笑ってコーラの瓶に口付けた。

「いい恋愛じゃなかったんだ」
「恋愛だった最中は、普通だったけど、終わりは最悪だった」
「どんな?」
「金持って逃げられた」
「はは、サイアク」
「うん」

その時絶望にさえ感じた出来事も、今となっては笑い話か。こうして時間を潰すいい道具となってくれたんだから、一丸に無駄だったとは言えないのかも。立ち直ったんだなぁ。偉い偉い、私。

「で?今は?」
「ん?」
「彼氏とか」
「いない」
「出会いがない?それとも付き合う気がない?」
「んー・・・、あれば考えるしなけりゃそれでもいい」
「やけになってる?」
「全然。別にその人のこと恨んでもないんだよね。騙されてたんだとしても、全然ムカついてない。別れようかなってずっと思ってたし、1年付き合った割りに好きだと一回も思わなかったし」
「じゃあなんで1年も付き合ってたわけ?好きでもない男と」
「なんでだろ。その年になって誰とも付き合ったことなかったからとにかく誰でも良かったのかも」
「バカだなー、世の中誰の手垢もついてない女がいいって男は山ほどいるんだぞ?」
「でもおかげで今は全然焦りとかないんだよ。すべては縁だなって思った。無理に急ぐこともなくなったし」
「ん、まぁそれもアリかもな」

うんうん。
日当たりのいい窓辺の席で、目の前の男と二人、年寄り臭く頷き合った。
見た感じカッコよくてモテそうで、話をするも聞くもうまいのに、意外と落ち着いてる人だなぁ。

「きっと好きじゃなかったから裏切られても騙されても何とも思わなかったのね。だって本当に好きだったらやっぱりショックなものじゃない?」
「まったく全然恨んでないの?」
「ないよ。とにかくお金だけ返してくれないかなってだけ」
「いくら盗られたの?」
「えーと・・・1万ドル弱?うわ、思い出したらムカついてきた。ヤダなぁ、どっかで死んでてくれないかな」
「さらっと怖いことゆーね」
「キラに殺されちゃえばいいのに」

調子ノリついでに口走ったら、目の前の男はふぅんとイマイチ鈍い反応をした。他の子みたく笑ってくれるかと思ったのに。

って、別にいいんだけどね。そりゃお金はかなりの打撃だけど、別れたことを後悔したことは一度もない。むしろ自由になってラクだし。こうして喫茶店に一人で来てのどかにお茶してられるようになったのは、自分が一人でもちゃんと生きていけるようにと努力したおかげだし。

「最初の男がそれじゃ、確かに初めてのキスもセックスも思い出したくないかもなぁ」
「思い出したくないんじゃなくて本当に思い出せないんだってば」
「良かったとも思えなかったの?」
「んー、なんか、初めてな感じもしなかったな。ドキドキすることもなく、味わった感じもなく」

なんだかすべてが、他人事のようで、まるでテレビの中のドラマでも見てるかのような。
冷めてるって言うか、白けてたっていうか、今話題のロマンス映画のほうがよっぽどドキドキするんじゃないか。

「やっぱり好きじゃない人とするもんじゃないね」
「アンタ自分好き?」
「はい?」
「自分、好き?」
「・・・適度に」
「なんだそりゃ」
「なによ、なにか関係あるの?それ」
「好きじゃなかったのは相手じゃなくて自分じゃないの?だから自分が何されても何とも思わないんじゃない?」
「・・・よく、わからないんですけど」
「俺もそーだったなぁ。俺親いなくて、たぶん捨てられたんだけど、はは。で、捨てられたのは自分が悪いんだって思って。こんな自分だから親も嫌になって捨てたんだ。捨てられて、ざまぁみろって、自分で思ってたよ」
「・・・」
「ま、ちっさい時は、だけど」
「今は?」
「今は別に。親も親なりに事情あったんじゃねーかって思えるようになったし、自分も認めちゃえばそんな嫌なやつでもなかったよ」
「なんか、他人事みたい」
「そう。それもある。自分に執着するのやめたんだ。好きでもあり嫌いでもあり、好きじゃないし嫌いじゃない、そんな感じ」
「・・・」

ああ、なんだか、分かるなぁ・・・
酷く、自分に興味がないよ。だから騙されても傷ついても、さほど興味ないのかもしれないなぁ。
だから、最初のキスすら覚えてないのかなぁ。

「今度は自分大事に生きてみなよ。そしたら自分が好きになる人も大事に思えるかもよ?」

目の前の男は、首に下げていたゴーグルを目にかけた。

「そしたら次のキスは輝いて見えるさ」

色味がかったレンズで目が見えない代わりに、ニカリと口で大きく笑ってみせる彼のその仕草は、
ひょっとして照れ隠しなのかもしれない。
自分の秘め事を人に話したことも、ちょっとクサイ台詞を述べたことも。

「んじゃ、健闘を祈る」
「もう行くの?」
「ああ、連れが来た」

そう言って目の前の席から立ち上がる彼はポケットからお金を机の上に落として、バイバーイと軽く出ていった。カラン、とドアの上のベルが鳴って、人の多い喫茶店からさらに人通りの多い道へと出て行き、道路の反対側にたたっと渡ると金髪の人と並んで消えていった。(デートかな)

ふと気がつけば喫茶店の中は音楽が流れていた。
そうだ、この店はいつも静か目のジャズが流れていて、この本に良く合っていたんだっけ。
そう思い出して、手の中の文庫本に目を落とした。

昼下がりの店内は人でいっぱいだったけど、一時期ほどではない。
数分前までは入ってきた人が座れないほど人が大勢いて、一人で堂々と窓辺の4人がけの席を陣取っていた私の前に、ゴーグルをつけた若い男が「一緒してもいい?」と座ってくるほどだったんだ。

彼とまず話したのは、この本についてだった。
それから軽く、いつも来てるの?とか普段は何してるの?とかいう話になって(そういえばあの人が何してる人か聞くの忘れた)サッカーの話になって、今話題の映画の話になって、そしたら恋愛話になって、恥ずかしくも自分の屈辱体験を語ってしまって。

どの話も、話の展開も、彼の受け答えも、良く覚えている。
それほどまでに彼はユーモア溢れる言葉を返してきたし、なかなか中身のある話をしてくれた。
特に最後の話とアドバイスには、不覚にも返事すら忘れてしまったよ。

どこの誰かも知れない行きずりの人。
きっともう会うことはないだろう。名前くらい聞いておけば、またどこかで会えたかもしれないけど。
また会いたいとは、ちょっと思う。
それくらいの衝撃は与えてくれた。

・・・ああ、あんな人とキスをしたなら、私はそれをまるで初めてのキスのように頭に焼き付けることが出来るのだろうか。好きだと言われることよりも、自分を好きになれと言われることのほうが、愛を感じるんじゃないだろうか。

「次のキスは、輝いて見えるさ」

まるでロマンス映画の中の台詞のように、彼の台詞を真似てみて、笑った。

次はそう、自分も相手も大事にしてみよう。
そんなキスなら、覚えていられるかもしれない。