インドアフィッシュ




大きな窓から大都会を見下げていると、神にでもなった気分になる。普段はこの街の隙間を縫う蟻のように見える人たちの中の一粒でしかない自分がそうなのだから、神にすらなれてしまいそうな貴方はどんなに誇らしげにこの光景を見下げているのだろうか。

「ねぇマット?」
「んー」

・・・なんてことはなく、彼はビコビコと手中のゲーム機に夢中だった。
現実世界の神よりも、バーチャル世界のヒーローのほうが彼の心を揺さぶるらしい。
街に立ち並ぶどのビルよりも天に近い建物の中の、一番上の一番広い部屋にいるにも関わらず、彼のすることといえば手の中の小さな機械に熱視線を送りその大きな手で包み指先で愛撫し片手間のように配線だらけのテレビ画面をチラリと見る、いつもの所作だ。
テレビに映っているのはこのデラックススイートルームとほぼ同じつくりの隣の部屋。でもこの部屋よりずっと物が溢れていてひとつひとつが綺麗で写っている人物もこぎれいな格好をしている。間違っても何日同じ服を着てるんだと思わず鼻を覆ってしまいたくなるような着古したシャツ一枚ではない。破けたジーンズでもない。

「ハラ減ったなぁ」
「下のレストラン行こうよ。フランス料理あったよ」
「フランスー?イギリスなら行くけど」

うそをつけ。行かないだろ絶対に。

「じゃあ何か頼もうよ」
「そんなことしたらメロが怒る。あるもんでいい」

5人は座れるんじゃないかという大きなソファで腕を伸ばし欠伸をするマットは、さっきまであんなに夢中だったゲーム機をこともなげにぽいと放り投げてキッチンのほうへ歩いていった。私がしようか?と声をかけたけど丁重に断られた。何でも自分のことは自分でする癖がついている。
見渡す限りの街並みを見下ろす窓から離れると、マットが座っていたあたりに転がっているゲーム機がまだ音をたてていた。覗き込むと、電源が付けっぱなしどころかシーンの途中でほったらかされている。

「マット、死んじゃうよ」
「やっていいよ」

私はゲームにはあまり興味がない。マットが無類のゲーム好きでなければきっと一般人以下の知識しかなかっただろう。それでもこういうゲームは1面をクリアしてから手を放すものではないか。はたまた死んでしまってから手を放すものではないのか。マットに捨てられたバーチャルヒーローは、戦えば負けるはずもない雑魚キャラ相手に今、命を落としてしまった。流れるミュージックがなんとももの悲しい。

「マットってヘンだよね。好きなのか好きじゃないのかわからない」
「好きだよ」
「何が?」
「何が?」

・・・わからない。いつまでたっても理解不能。昔から目に見えること意外でこういう人なんだと思ったことがない。ニアやメロみたく強く主張するものもあまりない。単調だといえば単調で、難解といえば難解で、掴み所がない。

「くらげみたい」
「くらげじゃないよ、サーモン」

キッチンの冷蔵庫から袋に入った冷凍のサーモンを開けながら、上等な起毛の絨毯の上を汚いジーパンと裸足で歩くマット。私がホテルの人だったらぜったいに嫌な客だ。

「マット、見てなくていいの?」
「んー、なんか動きあった?」
「んー、なさそう」
「だろ?つまんねーよな」
「いつも暗い汚いとこでばかり生きてるのかと思えば、急にこんな豪華な場所で仕事をして、相変わらず楽しそうなギリギリの人生送ってるね」
「そりゃあアッパークラスの人間相手にしてんだから、こんなお零れもたまにはあるさ」
「でも食べてるものはいつもと変わらないのね」
「急にいいもん食うとハラ壊しそうじゃん」
「それはデリケートなお腹だこと」

お金持ちになりたいわけでも、悪名高くなりたいわけでも、世界一になりたいわけでも、名探偵になりたいわけでもない。彼はただお腹がすけば食べ物が得られて、眠たくなれば横になれるスペースがあって、仲間に頼まれれば面倒事もちょっとは手伝って、いつも片手に楽しませてくれるバーチャルがあればいい。
そんな低い志でよくあの気高いメロの雑用なんてやっていられるものだ。マットがこうしてこそこそ標的の秘密を探ろうとのんびり監視をしている合間に、メロはどんな死に目に遭ってるかも知れないのに。

「メロは元気?今どこにいるの?」
「さては、お前どっかのスパイだな」
「そーよ。アンタたちなんて売っても所詮二束三文だろうけど」

ゴーグルの下でハッと笑うマットはサーモンの切り身を皿にも取らずに指でつまんで口に落とす。ソファの上に乗っかって、まるで誰かみたいな座り方で放り投げたゲームを手にとって「あー死んでる」と簡単に言う。自分が見放したクセに。

も食べる?」

そうマットは指でつまんだサーモンを隣の私に差し出す。とても綺麗とはいえない。子供がずっと握ってた飴玉をくれるようなものだ。

「成長しないのね」
「そーだな。俺は相変わらず生かされてるし飼われてるし、俺の道を決める人がいるなら俺はその道でいい。たまたま俺を必要としたヤツは意外と俺をよく判ってたからラクに生きてるだけだ。必要なものさえあれば、欲しいものはなくても生きていける」
「欲しいもの、ないの?」
「あったよ」

指先に吊られてたサーモンがゆらゆら揺れてマットの口の中に入っていった。まるで釣り針につけられた水中の餌に食らいついた魚のよう。ゆらゆらゆらゆら、光の中を泳ぐ魚。濁った酸素は息もしづらそうだけど、そんなことにさえ馴染んでマットは異変のない盗撮画面を片手間に眺める。

「ほらもう、汚い。手ちゃんと洗ったの?」

湿った指をボーダーのシャツで拭う。まるで子どものころのまま。
するとマットは、ティッシュを取ろうとした私の手を取り、私のほうへゴーグルの顔を近づけた。・・・口唇が重なった瞬間、思わず私は動きを止めてしまったけど・・・そうしてるともっと深くに口を押しつけるマットから、感触の悪いものが押し込まれた。

「ん!もうヤダ最低!」

マットを押し離すと、私の膝の上にサーモンの欠片がポトリと落ちた。
マットを人殴りして、ティッシュを取ってそれを取り払った。
さすがに口の中に押し込まれたものまでは・・・吐き出せなかったけど。

はすぐ外に行っちゃうから、ずっと捕まえられなかった」
「・・・家の中にいたら、マットに食べられそうだったからね」
「じゃあ今日は食べられに来たんだ?」

笑うマットはサーモンの袋をポイと手放す。食べることと寝ることと欲望にだけ忠実な、まるで単細胞。バーチャルな世界をこよなく愛する子供のまま、いくつになっても外に出てこない。そんなマットとふれあいたければ、私がマットの世界に行くしかない。

マットに捕まえられたくなかったのは、その後が怖かったからよ。
きっと貴方は散々愛し合ったって、その後私がいなくなっても私を探しに来ることはないんだわ。外を極端に嫌う貴方は、私がどこかへ行ってしまっても自分の陣地から出て外の世界に飛び込もうとしないの。私が永遠に貴方の元に戻らなくても、私の名さえ呼んではくれない。

「ひきこもりボウヤに興味ないわ」

ぺシッと手をはたくと、マットはまた袋からサーモンをつまんで口に落とした。

「俺外に出ると死んじゃうんだ」
「死んじゃうわけないじゃないバカ。家に篭ってるほうが死んじゃうわよ」
「本当に死んじゃうんだよ」

もぐもぐしながらマットは真剣な顔でそう繰り返す。
密閉された空間の中でだけ呼吸する魚。
外に出ると消えてしまうというなら、一生箱の中で泳いでいればいいんだわ。
飼われることを不幸だと思わない貴方はきっと、世界一の幸せ者だから。

「なぁ、食べられちゃえよ」
「ここじゃないところならね」
「ええー、うーん・・・」

この男・・・この超高層階から突き落してやろうか。





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