カラン、とドアについたベルが鳴るたびにそっちへ目を動かした。でも店に入ってくるのはまったく知らない顔で、何を焦ってるんだろうと目を戻す。やたら落ちつかず、傷の痛みは薬で和らいでいるのに、痛みを抑えるように腹を押さえつけていた。手の中のグラスを揺らすと中の氷が崩れて、あのベルに似たような音を立てる。
カラン・・
不意にまたドアに目を奪われる。でも今度は目を逸らす必要はなかった。店の中を仰いで、一番奥のカウンターに座っている自分に目を留めて笑ったのは、だったから。
穏やかに笑顔を浮かべていた。
何か大きな、覚悟の上のような。
「久しぶり」
「ああ。雨か?」
「うん、急に降ってきて。冷えてきたから雪になるかもね」
は髪に雫を乗せていて、水分を含んで色が変わったコートを脱ぐと隣に座った。元気にしてたの?ごはんちゃんと食べてる?やっぱりは子供を心配する母親のようなことを言ってメロを覗き込んだ。
「頭下がるよ、お前には」
「何よそれ」
こっちは、また泣き崩れられるんじゃないかってビクビクしてたというのに。二度も、を置き去りにしてしまった。泣かれるほうが殴られるより、腹を撃たれるよりずっと傷になる。それすら覚悟していたのに。
「強ぇな、お前は」
ぽつりと言うと、隣ではふと笑うけど、何も言い返さなかった。ああ、そうか。強いんじゃなくて、自分がそうさせているんだ。メロはそのの横顔から読み取って、言ったことを後悔した。
「悪い」
がずっと笑顔を浮かべているのは、決断を投げかけるためだ。
ポケットの中でチャラ、と音を立てる鎖。の十字架。
それを取り出してメロは、に差し出した。
「・・・捨てろよ、俺の物、全部」
の部屋に蔓延ったメロの思い出。戻ってきた匂い。
あれのせいでをずっと苦しませてきたんだ。これからも苦しませる以外の何でもない。
二度と会わない覚悟なら、忘れさせてやるのが一番だ。もう二度と囚われることのないよう、すべて消してやるべきだ。
何より自分自身がもう、気を取られてる訳にはいかない。
「ねぇメロ。私、メロに会えたこと後悔してないよ。メロと出会ったことも、また会えたことも」
「・・・」
メロの手から十字架を取るは、鎖の先を持ってメロの首に手を回した。
重い、重い、戒めの十字架。
死の意味も、殺しの意味も、十字架の意味も、すべてきちんと分かっているメロだからこそ重い、十字。
カチリと首の後ろで鎖はとまって、はそのまま、ほんの少しだけそのまま、メロに手を回したまま。そうしては少し息を呑み込んで、手を引いた。目の奥に押さえきれない波を漂わせて、それでも悪戯っぽく笑って、揺れる声で
「メロなんて苦しんじゃえ」
まつげを濡らして笑うは、すべてを押さえ込んで、ただ昔のままであるようにと。
真っ白な世界で花の色だけが鮮やかに輝いていたあの場所。その中で笑い声の絶えなかった自分たちがどれだけ幸せに過ごしていたことか。今思い返せば夢と見間違うほどの風景。ある日を境にずれて離れていく一方の時間でも、こうして笑っていればあの頃が戻ってくると信じていた。
それが精一杯の、心を保つ方法で
もう、一緒にいることは望まない。どうしたってメロは自分の道を途絶えさすことなんて出来ない。例えそれが子供じみた意地だとしても、それがメロだ。
ニアだって。Lだって。
外は雨だった。
空から降る雨はあの時と同じで、またかと思わせる。
世界はそんなくすんだ色で、すべてに無関心に見えた。
「じゃあね」
「ああ」
ポタポタと店のドアの屋根から雫が落ちてくる下で、は一歩を踏み出した。
メロはまだ動けなかった。
こんな雨の中で、去っていく姿を見送るのは自分がいい。
そう思って。
「ねぇメロ」
「ん」
雨にさらされながら振り返ったがかすんで見える。雨音がすべての音を吸い込みそうだった。きっと自分が聞くのは最後だろうの言葉は溶けそうで、耳を澄ますことに力を注いだ。
「お願い、これだけは約束して」
「・・・」
「絶対に死なないで。必ずどこかで生きていてね」
約束なんて言葉に適当に答えることも出来ず、かといって最後の言葉を拒絶も出来ず。刺さるほどに強いその目から目を離さないことが精一杯だった。
二人の間に落ち続ける雨が、少しずつ二人の世界を別々のものにする。
「さよなら、メロ」
白い息と共に、の最後の言葉がこの世に生み落とされた。
パシャン、と雨の中に踏み出し、は通りに止まっていたタクシーに駆けていき、車のドアが開いて乗り込もうとしたところで、また一度、メロに振り返った。
はよく振り返る。確認するように。心配するように。惜しむように。
再会した時だって、メロに連絡先を渡した後で何度も何度も振り返りながら去っていった。そのたびにメロは、全身の力をこめてポケットに手を突っ込むんだ。
追いかけてしまわないよう。
手を伸ばしてしまわないよう。
キスしてしまわないよう。
そうして冷たい雨の降る中、は車に乗り込んで視界の果てへと。
別の世界へと消えていった。
地面を叩く雨音がやたらと煩く反響し続ける。
そんな痛そうな雨の中に歩き出し、コートのフードを被るメロは雨の中へ。
フードの下から見上げた空から雨の雫が迫り来る。
刺すような冷たさが頬を叩いて、その一粒がパシャリと目に飛び込んできた。
「いて・・・」
痛みと異物感で目を伏せ、指で目を押さえた。
腹の傷が疼いてきた。痛み止めが切れたようだ。
なんだか心臓も痛い。いや、全身痛いかな。
もう、どこが痛いかなんてわかんねぇな。
クッと伏せた顔で嗤った。
つ、と、押さえた目から雫が流れて、鼻先から地面へと落ちた。
冷たい涙だった。きっと、目に入った雨の雫が出てきたんだろう。
ほら、降り続く雨と同じ。ポタリポタリと流れ来る。
「痛ぇな、クソ・・・」
雨が降っていたことを、幸せに思う。
きっと、雨の雫に違いない。
夜が更けると、やっぱり雨は雪へと変わり、車の窓を叩いていた透明は白に変わった。タクシーの中だというのに堪えきれず、はらりはらりと涙は毀れた。それでもやっぱり運転手に分かってしまったようで、車を降りる前に涙を拭いてお金を差し出したのに「大丈夫ですか?」と言われてしまった。
この世は意外とあたたかいものよね、メロ。
心の中でメロに問いかけるのはもう癖だ。いつでも側にいるようでいないメロを心の中に作るしかなかった。これはもう病気かもしれない。笑っちゃうよ。
水分を多く含んだ雪がボタボタと音を立てて落ちてくる。マンションの入り口の明かりに向かって歩いていくと、ニャァと小さな鳴き声が聞こえた。小さな猫だった。雨と泥で汚れた小さな身体はもう何色の猫だったか分からない。
は子猫の前でしゃがみこんで、カバンの中から取り出したものを子猫の前に差し出した。赤いパッケージのチョコレート。小さく取ったそのチョコレートの欠片に鼻を寄せる子猫は、ざらつく舌での指ごと舐めた。必死に舐めるその仕草はよっぽどお腹が空いていたんだろう。
「きみもひとりなの?」
首の下や尻尾の内側は綺麗な白が見えている。元はきっと綺麗な白猫なんだろう。
無心でチョコレートを食べきった子猫はの指を舐めてまた鳴いた。
あたしもなのよ。あの部屋にはもう誰も帰ってこないの。
思い出と残り香だけ詰まった部屋で、また一人ぼっちになってしまったよ。
でもきっと、何も捨てられやしない。
だって、再会できたことは、メロと過ごした時間は絶対に悔やめない。思い出に囚われても、残り香に包まれたまま泣き続けても、心が自然とそれらを放すときがくるまで。帰ってくる気がないなら思い出なんて残さないで、なんて、
「あんなの嘘だよね」
ねぇ、メロ。
あたしもう、メロが生きていればいいよ。生きていてさえくれれば。
約束なんて、そんな果てしないほどの安らぎでもあり、偽りでもあるそれを、
痛みごとこの胸に植えつけて生きていく。
「ねぇ、一緒に住もうか」
小猫を抱き上げて目を合わせると、手の中でまた小さく鳴いた。出来る限りそっと、あの甘い香りのする猫をそっと抱いて、また泣いた。
ねぇメロ、
メロ
大好きだったよ、メロ・・・