はつ恋




 あれは3ヶ月くらい前の、1年のうちでもっとも風が冷たい日だった。
 学校を出た瞬間刺すような寒さに体が拒否反応を示して、いつもなら歩いて帰る帰路をお金を払ってでも暖房のきいたバスに乗っちゃうくらい。

「そしたら同じバスに水戸くんたちが乗ってたの。あの時は同じ年だって思わなかったからさ、桜木くんなんてその時からあの赤い髪だったし、絶対怖い人たちだって思った」
「そりゃ怖いよ、同じバスなんてぜったい乗りたくない」
「そうそう、そんな感じ」

 運転手の真うしろの席に高宮くん、そのうしろに桜木くん。バーに大楠くん、つり革に野間くんが掴まり立っていて、何やら桜木くんをネタに他の3人がからかって大笑いしていて、正直あまり良い態度と言えない彼らを他の乗客たちは目を合わさないように俯きながら煙たがっていた。

 高校受験を控えた季節、学生の姿はまばらだけどバス停に着くごとに乗りこんでくる多くの人たちは、一度は空いている前の方に足を向けるんだけどすぐ足を止め彼らに背を向けてうしろに戻ってくるのだ。かく言う私もゲラゲラ笑い騒ぐ彼らは怖かったから乗降口近くに立ったまま他の乗客と同じように素知らぬ顔をしていた。

「で、その桜木くんのうしろの席に座ってたのが水戸くんだったの。盛り上がってる桜木くんたちの印象強くて、あんまりその時の水戸くんのことは覚えてないんだけどさ」

 ふたりで座れるシートにひとりずつ座っちゃって、他の人のことなんてお構いなしに大笑いしておしゃべりして、たまに怒って立ちあがる桜木くんと取っ組み合いまで始めちゃったりして、ホント迷惑な客って感じ。それを一番うしろで水戸くんは同じように笑いながら、でも大げさに振る舞うわけでもなくひっそり混ざってる感じで。

「そしたらバスがだんだん込んできて、おじいちゃんとおばあちゃんの夫婦が乗ってきたの。そのおじいちゃんたちは水戸くんたちの近くのつり革に掴まって立って」
「うんうん」
「そしたらね、水戸くんが、おじいちゃんの腕トントンて叩いて、座る?って」
「え、どういうこと?」
「席譲ろうとしたんだよ」
「うっそだぁ、水戸がぁ?」
「ホント、私もビックリしちゃって」

 だってあんな……お世辞にもそんな席を譲ったりしなさそうな風貌で、むしろみんな怖がって引いちゃうくらいのガラの悪さで。まるで言い方なんてなっちゃいない、立ちあがる素振りも見せないホントに代わる気あんのか?な言い方と態度で、……でも、水戸くんは言った。

 座る?って。

 衝撃だった。

「恥ずかしかったのかな……誰にも聞こえないくらいの声でね。結局そのおじいちゃんたちはすぐ降りるからって断って、水戸くんも断られたらすぐあっそうって引いちゃったんだけど。なんか……ビックリしちゃったなぁ」

 まるで星が降ってきたみたいに、世界がひっくり返った。
 地球が回るのをやめたみたいに、全部が止まった。
 その時私の目は、頭は、黒い学ランとリーゼントの頭にくぎ付けになった。

「フーン、それがの初恋かぁ」
「はつこい?」
「でしょ?」
「……あー……」

 はつこい……、はつ恋かぁ。

「そうかもしれない」

 確かに、私の頭はあの日からずっと。
 私の目はあの日からずっと。

「……あ、おはようっ、水戸くん」
「ん、あ、おはよう」

 カタン、と近くでイスを引く音がして、私はサッと反応して右隣を見た。
 登校してきた水戸くんが黒いカバンを机に置きながらイスに座ろうとして、突然襲ってくるみたいに声をかけた私にちょっと驚いた顔で挨拶を返す。今日も遅刻ギリギリ。チャイムが鳴って、前の席に座ってた友だちも自分のクラスに帰っていった。

さんてなんか、変わってんね」
「え、なんで?」
「や、フツーあんま女の子って俺らみたいなのに声かけてきたりしないからさ」
「なんでだろう」
「ハハ、俺らガラ悪いから」
「あ、でも桜木くんは……私もまだちょっと怖いかな」
「ふーん、俺はヘーキなのに?」

 驚いた。あの日からずっと頭から離れなかったあの人が、高校の入学式のたくさんいる新入生の中にいたんだから。あの大きな赤い頭のそばにいた、黒い学ラン。黒いリーゼント。みんなと一緒に笑ってる声。あの横顔。

「うん、平気」

 だって私は知ってしまってるから。
 水戸くんがどんな人なのか。どんなことが気になっちゃう人なのか。どんなことが出来ちゃう人なのか。
 うれしくて、胸が高鳴って、頬がゆるんじゃう。

「いや……そんな屈託なく言われてもね、テレちゃうからね」

 満面の笑みで見つめてしまう私から目を逸らして、水戸くんはポリポリうしろ髪を掻きながら着席する。照れてる顔も、しょうがないなって風に笑う顔も、桜木くんたちと仲良くしてるところも、今では全部全部輝いて見えてしょうがない。

さん」

 食べる?と水戸くんが私に手を差し出した。
 私より大きい、ちょっとごつごつした手。の先に、ブルーベリー味のガム。

「わぁい!」
「ハハ」

 また満面の笑みで飛び付く私に水戸くんが笑った。
 あの時の人が水戸君でよかったって思う。
 水戸くんを知れば知るほど、この人でよかったってすごく思う。
 水戸くんだから、私はあの時の出来事を、はつ恋と誇れるのだ。





はつ恋