天国ジャック




下に見えている地面がどんどん近づいてくると、遠くの海がどんどん景色に飲まれて見えなくなっていく。見えかけの海もいいけど、見えなくなっていく海もまたいいものだ。

「私ね、この角度の海が一番好き」
「そうですか」
「最近海行ってないねー、今年はいつもに増して冷夏だったし」
「最近も何も私は全く行ってませんよ」
「そうだっけ?」

遠くの海を見つめながら言うと、ニアは一度手を止め、すぐにまたオモチャの箱を開けた。
取り出した部品をひとつひとつバラバラにして、小さいフィギアを次々と組み立てていく。

「あーお腹空いた」
「もうお菓子ないですよ」
「お弁当持ってこれば良かった」
「お弁当ですか」

俯いて膝小僧に頬を寄せている顔の下でニアの声が揺れた。笑っているようだ。

「何がおかしいの?」
「いえ、べつに」
「なによ」
「なんでもないですよ」

ニアが笑うなんてなかなかレアなのに、いつもその理由は分からないことが多い。一体どんなものに関心を引き笑いに繋がるのか、そのポイントが全然分からないのだ。ニアが遊んでいるオモチャについていたお菓子を全部食べつくしてしまった私は、ただ純粋にもっとお腹にたまるものがほしい・・と思っただけなのだけど。

「見て、太陽が赤くなってきた。そろそろ日が暮れる時間なんだね」
「そうですね」

ニアはこっちも見ずに言う。ちゃんと見てから言ってほしいものだ。
カバンいっぱいに持ってきたニアのオモチャはもう全部箱が開けられていて、ニアの周りにどんどん完成品が並んでいくものだからこの狭い個室は移動すら困難なほどひしめいている。それらもある意味、遊園地みたいだ。ニアの中の子供心もひしひしとくすぐられているようだし。

「ニアは家にいても外にいても一緒ね」
「そんなことないですよ。ここじゃ簡単なものしか作れませんし」
「あーらじゃあ来なきゃよかったのに」
「じゃあやめましょうか?」
「・・・いいよっ」

やめる気なんて全くない癖に口先ばっかりよく動くものだ。
足元に広がっているフィギアの数々を足で蹴散らしてやると、ニアは一度私に目を寄こしてむっとした顔を見せた。自分では平気で壊すくせに人に壊されると怒る。こんな時ばっかりちゃんと私を見るニアの目なんて、ふいっと逸らしてやった。

そうしていると、気がつけば窓の向こうはもう地面が近くて、米粒のようだった人の姿が人間らしい形に見えた。まるで地球のように、ゆっくりと、しかし止まらないこのゴンドラは、何度目かの地面を連れてくる。
下のほうには人がアリのように集まっていて、その誰もが上を見上げていて、首が痛そうだ。その中に、ロジャーの姿が見えた。

「うわぁ、ロジャーが来てるよニア」
「そりゃ来るでしょうね」
「また怒られるねー」

その割には楽しそうですね、とオモチャで遊ぶニアの言葉にケタケタと笑った。
楽しいよ。だってあのロジャーの顔、すっごく困ってる。
我ながら子供っぽいとは思うけど、生まれつき自分を心配してくれる人間を見たことがないから、ああやっていちいち心配して怒ってる人を見るのが楽しくて仕方ない。
でも別に、ロジャーを困らせたくて私たち、観覧車に閉じこもってるわけじゃないよ。

「ニア、降りたい?」
「もうこれらには厭きました」
「そっか。私もお腹すいたしなぁ」

ニアが手の中のオモチャをバラバラと床に落とし、私のお腹はきゅるっと鳴く。
ゆっくり回るゴンドラが地面に着いて、降りるべき場所にたくさん人が集まっていた。
窓の隙間からロジャーの「いい加減降りてきなさい」という声が聞こえる。(困ってる困ってる)でもあまりに人がいっぱいいて、私たちの理解に苦しむ行動に目をつり上げていて、
この世の堅苦しい現実すべてを象徴しているようだったから、とてもこの、開かないようにした固定した棒と縄を解く気にはなれなかった。

「ニア、降りたい?」
「パズル持って来てくれないですかね」
「ごはん持ってきてくれないかなぁ・・・」

ドンドン、ドンドン、ガラスが割れそうなほど大人たちの手が窓を叩いている。
その音を他人事のように聞いて、向き合ってる私たちは二人して背中を窓に深くもたれさせた。私たちに出てきてほしい外の人たちが、まさか私たちの欲しい物を持ってきてくれるはずがないよね。そうしてそのまままた、ゴンドラは地面から離れて空へと旅立っていった。

「観覧車止めればいいのに、バカだね」
「他に客が乗ってますからね、次にまた降りてきたときは止められますよきっと」
「そっか、じゃああと1周だね」
「お腹空いたんじゃなかったんですか?」
「ニアこそ、つまらないなら出て行けばいいのに」
「つまらないなんて言ってませんよ」

私とニアだけを乗せた狭い世界はまた空に昇って、町並みの向こうに海が見え始める。
近づいてくる空は、1周前に見た色よりも薄暗く、朱に染まっていた。

「ねぇ、ニアって本当は高いところ苦手なんでしょ」
「・・・何故ですか」
「だって低いところにいると私を見てくれるけど、高いところにいると絶対に見てくれないもん」
「・・・」

くすくすと笑ってやると、ニアは不服そうに目を覗かせた。

「あー、お腹空いたなぁ」
「あと15分の我慢ですよ」
「あ、ホラ見て、この位置の海が一番好きなのよ」
「・・・」

また私も外も見なくなるニアに、ケラケラ笑い声を上げた。

お腹が空いた。
ニアは手持ち無沙汰で暇そう。
もう見飽きた景色。
またしばらく目を伏せなきゃいけないニア。

不自由だらけの狭い世界。

あと15分。





天国ジャック