フェアリートラシス




そこは、いつも仕事に向かう行き帰りに通り抜ける公園だった。
レンガで敷き詰められた舗道、その両脇に広がる黄色いチューリップ畑はその色鮮やかさに思わず目を瞑ってしまいそうなほどだ。太陽の色を吸収している、というのは、赤いチューリップよりこの黄色いチューリップのほうが相応しいと思う。太陽が昇ると共に現れる早起きなチューリップの世話をしているおじさんにおはようと声をかけるといつもと同じトーンと笑顔でおはようと返してくれる。チューリップという花は実は、明るいうちに花びらの先を開け、暗いうちはピタリと閉じているのだと、おじさんにそんな話を聞いて、私はそれからこの見慣れていたチューリップたちを毎日きちんと見るようになった。

その日も私は仕事帰りにその公園を通り抜けていた。いつもより遅くなってしまったその日、もう空は薄暗くて大地から光は引こうとしていた。レンガにヒールの音をたてて電灯がちらほらと灯っている中を足早に歩く。おなかが空いていたし、薄暗い公園は少し怖かったし、遅くなると連絡は入れたけどきっと家ではお母さんが心配しているだろうから。タイトなスカートで歩幅はそう大きくはならないけど、静かな夜の公園にカツカツと音を立てて歩いていた。

「見てニア、チューリップが閉じてる」
「そうですね」
「知らなかった、夜は閉じるのね」

ふと、そんな小さな会話が聞こえてきた。その声があまりに小さくて一瞬ビクリとしてしまったのだけど、よくよく聞くと二つの声があまりにかわいくて私の中の不安は薄まった。どこからだろうと周りを見渡してみるけど薄暗いせいもあって人は見えない。

「いーなぁチューリップ。ハウスの庭にもチューリップ植えて欲しいなぁ」
「あるじゃないですか」
「あれは赤いでしょ?黄色いほうが綺麗じゃない?ニアは赤と黄色とどっちがいいと思う?」
「どちらでも」

ぽそりぽそり、その小さな会話はまるで花の妖精がおしゃべりをしているのかと思うほどだささやかなものだった。だって実際に見渡してもどこにも人影すら見えないし、いつもの静かな公園なのだ。私はその声の出所を辿って耳を澄ましヒールの足音も消して探した。そんな風にフラフラとチューリップの並ぶ舗道を歩いていくと、ついに見つけたのだ。舗道から逸れて黄色いチューリップ畑の中に入り込んでしまっている二つの小さな頭を。

「ねぇ、1本持ってっちゃおうか。1本植えたら増えるかもしれないよ」
はすぐに枯らすじゃないですか、花なんて」
「今度はちゃんとやるから大丈夫よ。ねぇ、いいかなぁ」
「いいんじゃないですか?」

いや良くないよ良くないよ。そんなことしたら世話をしてるおじさんに怒られちゃうよ。近づくにつれはっきりと聞こえる会話に心の中で答えながら見えている二つの頭に近づいていった。傍の電灯に照らされている二つの頭は本当に花の妖精ではないかと思うほど小さくて、白かった。

「あなたたち、何してるの?」

私のかけた声に振り返ったひとつの頭が、肩下ほどのサラリとした髪の下からにクリッとした目で私を見上げた。その向かいに座っている白銀の髪の子も前髪の下から少し不信がった目で私に視線を送る。
二人ともまだほんの子供で、この辺では見かけない顔。こんな時間に二人きりで何をしてるのだろう。

「二人きりなの?」
「そうよ」
「どこから来たの?おうちは?」
「ウインチェスター」
「ウ、ウインチェスター?そんなところから二人できたの?お母さんか、お父さんは?」
「いないよ」
「いないって、もしかして迷子?」
「違うわ、来たくて来たんだもの」

いくらここがロンドンでも外れに近いとは言え、ウインチェスターから子供二人だけで来るには距離がありすぎる。それもこんな時間、こんな公園で二人きり、それはもう、立派な家出ではないだろうか。

「心配してるんじゃない?おうちの人」
「うん」
「じゃあおうち帰ろうよ、おうちに電話してあげるから」
「大丈夫、帰り道は分かるしお金も持ってるから」
「でももうこんな時間だし、危ないよ。ね?」
「・・・。どうする?ニア」
の好きにしてください」
「もう、ニアはそればっかり。せっかくうまく抜け出してきたのに、ニアは早く帰りたいのよね」
「はい、帰りたいです」
「じゃあ帰れば!」

プイと顔を逸らして怒ってしまう女の子。でもその女の子の様子を気にする様子もなく、正面で膝を抱えて座っている男の子は何も言い返さずに会話が終わった。かわいい子供なのに、どこか気まずい男女の空気になってしまった二人に私は「とにかくうちにおいで?」と仲を取り持つように笑いかけ、最初以来ちっとも私に目を合わさなくなった男の子の前で、女の子はプクリとむくれた顔のまま私を見上げた。

「ニア、帰りたい?」
ももう帰りたいんでしょう」
「・・・」
「帰りたくないならそれでもいいですけど」
「・・・ニアは帰っちゃう?」
「いいえ」
「・・・」

帰ろう、ニア。
すっくと立ち上がり、花びらや花粉が付いたワンピースのスカートをパタパタはたく女の子は、目の前の男の子の腕もぐいと引っ張って立たせた。そして黄色いチューリップの花畑の中から二人で出てきて、女の子は「ここに電話してください」と一枚の紙を差し出した。それにはワイミーズハウスという施設のような名前とウインチェスターの局番の電話番号が書かれていて、私はそれを受け取ると二人を連れて家へ戻っていった。


「急に子供連れてくるからビックリしたじゃないの」
「ごめん、だって二人きりだったのよ?心配じゃない」
「そりゃそうだけど。早く電話してあげなさい、心配してるよきっと」
「うん」

家に帰ると案の定お母さんは驚いて、先に帰ってきていたお父さんも何事かと顔を覗かせた。公園で拾ってしまった子供二人をソファに座らせてあの紙を見ながら電話をかけていると、お母さんが二人にスープを渡しているのが見えた。
かけた電話が繋がると男の人が出て、その人は本当に心配そうな声で何度もありがとうと言ってくださり、どちらかに電話を変わってくれというので二人にそう伝えると、嫌がった女の子の代わりに男の子が歩いてきて受話器を受け取った。
はい。も一緒です。何もありません。分かりました。
年の割りに流暢な言葉を使って話す男の子は、少し話したあとそのまま電話を切り、またソファに戻っていくと、さっきまではこの男の子よりずっとしっかりして見えた女の子の隣に足を抱えて座り込んで「1時間くらいでくるそうです」と教えた。

「ねぇ、どうしてこんなところまできたの?」

二人の正面に座ってそう話しかけたけど、男の子は答えどころか聞いている様子もなくテーブルの上に置いてあった紙とハサミで何かを作り出すし、その隣の女の子はさっきはあんなにしっかりしていたのに急にしゅんとして俯いてしまった。

「ねぇ」
「ん?」
「あの人たちは、あなたの本当のお父さんとお母さん?」
「え?ええ、そうよ?」
「ふぅん」

手にカップを持ったまま女の子はキッチンにいる私の両親を見つめて呟いた。
女の子の差し出した紙、電話がかかった先が本当に養護施設だったことを知って、私の中ではただの子供の家出ではないのかな、という思考がよぎった。二人とも見た目よりずっと大人びた喋り方をして、対応の仕方も考えもきちんとしていて、でもこんな風に二人寄り添ってソファに座っているところを見ていると、そんな質問をした自分が酷く考えなしに思えた。
不安そうな顔をしている女の子を横にして、されど男の子はチョキチョキ、紙を何かの形に切り続けている。その男の子の隣で女の子は、ますます俯いて今にも泣き出しそうな顔をしていた。



女の子の前に男の子は切っていた紙の束を差し出した。女の子はそれを受け取ると、何回も折りたたまれている紙の束を広げていく。女の子の手でその紙がすべて広がると、それは私が見ても驚くほど繊細にカットされたチューリップが何個も連なって現れた。
私はそれを見てただ純粋にすごい、と声を上げたのだけど、それを手にしてる女の子はとうとうポツリと涙を落として、紙のチューリップと一緒に隣の男の子にぎゅと抱きついた。それでも男の子はそれを全く構わない様子で、また別の紙をチョキチョキ、チョキチョキ、切り始めたのだった。

まだ幼さ残るこの二人の少年少女に、私は深い深い愛を見た気がした。

1時間ほど経って家のチャイムがなり、電話で話した初老の男性が二人を迎えに来た。その間ずっと紙を切り続けていた男の子の隣で女の子は眠り落ちてしまっていて、男性は女の子をおぶって私たち家族に丁寧にお礼を言うと、二人を連れて帰っていった。もしこの二人が怒られでもしたら、私は「どうか怒らないであげて欲しい」と言おうと思っていたのだけど、その男性はきっと私などよりずっとこの二人を知って理解しているのだろう、そんな様子は全くなかった。
最後まで何度もお礼を言って去っていく初老の男性と、その背中で肩をしっかり握って安らかに眠っている女の子と、結局最初以来私に一度も目を合わさなかった男の子は、暗い夜道に車で消えていった。

あの幼い二人に何があったのか、二人が何を思いこんな遠くまで来たのかは結局分からなかったけど、もしまたあの二人が現れることがあったなら、私はきっとまた二人を迎え入れるだろうと思った。

「わ・・・」

二人がいなくなった部屋は、いつもどおりに私と両親がいる部屋に戻ったのだけど、あの小さな妖精たちが座っていたソファの前のテーブルには、また繊細で立派な紙のタワーブリッジが聳え立っていた。





フェアリートラシス