海原に波があるように、人生に波があるように、感情に波があるように、不意に襲われる意味も分からぬ不安というものがある。
それが私は、人一倍強いらしい。
年に一度あるかないかくらいの、ごく稀なものだ。でも一度それに呑み込まれると、そうそう戻ってこれない。
「、食事を摂りなさい」
ロジャーの声がする。さっきまでは係りのお姉さんだったのに、手に負えないとみてわざわざ出てきたようだ。
「手を見せなさい。怪我をしたんだろう?」
「・・・」
「消毒するだけだから、ここを開けなさい」
何度も何度もノックをする音が耳に障る。両手を耳に押さえつけて、入ってくる音すべてを遮断した。ぎゅっと力をこめる右腕の側面がジンジンと熱を持って響く。もう出血はしていないけど、剥がれた皮と曝け出された肉が逆立って破けた血管まで見えていた。
これも、悪い癖だ。痛感を刺激して頭の中の闇を払おうとする。体が痛んでいるのを見ると、体内の中心の傷みは和らいだ気がして、赤い血を見ると不思議と落ち着く。埃の乗った床の上で血液が凝固して、板の隙間が赤黒く染みになる。
「・・・ここに食事置いておくから、落ち着いたら食べなさい」
何の応答もないとなると、みんな去っていく。ロジャーの靴の音も離れていった。
そんな部屋の隅の隅でまた、うずくまるように小さくなっていた。
きっかけはいつも、ほんの些細なことだった。何でもないことがこの年に数回訪れる波に当たってしまうと、小さな歯車が外れた大時計のように狂っていく。小さなことがイライラして、誰彼構わず当り散らして、すべてがどうでもよくなる。何を壊しても誰を傷つけても、良心の欠片も痛まない。ただじっと、時間が経つのをひたすら待つ。小さくうずくまって、闇が溶けて消えていくのをひたすら待つ。
窓の外の太陽が沈んで、ハウスの中がシンと静まって、また朝が来て、騒がしい声や足音が聞こえて、誰かが代わり代わりにノックして、声をかけてきて、次第に誰も近づかなくなって、また陽が没ちて。この狭い締め切った世界の中でどれだけそんな明暗を繰り返しただろう。今度の波は今迄で一番長かった。
そうして何度目かの朝を迎えた時、またドアがノックされて外から呼ぶロジャーの声が聞こえた。部屋の隅で座り込んだままウトウトと寝かけていた頭を覚まして、ゆっくり目を開ける。
「、気分はどうだ?」
彼も厭きない人だ。
今の私のような使えない人間、ここには不必要なものだろうに。
「また食べなかったのか。少しでいいから食べなさい」
体に悪いぞ
みんな心配してる
カリキュラムに遅れる
気に入らないことがあるなら言いなさい
そんなこと、どうでも良かった。ただ、ほっておいてほしい。気にしないでほしい。忘れても構わないから、この見苦しい存在を認識しないでほしい。自分が一番、自分に吐気がしてるんだ。
すっかり困ってしまったロジャーは再三、あの低い声で声をかける。言葉の端にため息が混じり、それでも返事すらこない部屋の前で、またコツと離れていく音がした。
「ニアも、いい加減食事をとりなさい」
ドア一枚隔てた別の世界で、そんな声が聞こえた。
驚くほどにまっすぐ耳に入ってきた。
「いいえ」
「もう5日だろう、体を壊したらどうする」
「大丈夫です」
「ニア」
「私のことは気にしないでください」
「まったく・・・」
コツコツ・・・
またロジャーの靴の音が遠ざかっていった。
何とか聞き取れるほどの小さな声だった。それもそのはず。この部屋からドアを開けて外に出るのは容易い事だけど、この部屋と外ではまるで別世界なほど遠いのだ。ただ外に出ることが、気が遠くなるほどの精神力と決心が必要なのだ。
でも、ニアの声は驚くほど近くから聞こえた。
不思議なほど自然に体は動いて、あまりに簡単にそのドアは開いた。
カチャ・・・
すぐ隣で開いたドアに気づいて、そこに座り込んでいたニアは静かに顔を上げた。しばらく言葉なく目を合わせた後で、ニアは小さく小さく息を吐く。
「すごいですね」
「・・・何が?」
「5日も飲まず食わずで閉じこもるなんてそうそう出来ないですよ」
「・・・」
ドアを開けた先の廊下には、ニアを囲むようにしてオモチャが広がっていた。この5日間組み立て続けたブロックの城。
「ずっといたの?」
「はい」
「何も食べないで?」
「はい」
「・・・」
どうして?
そう言いたかったのに、声が喉を通らなかった。代わりにパラパラと目から熱い涙がこぼれた。その涙を見上げてニアは立ち上がり、私に手を伸ばして、そっと腕を回した。
ポタポタと降る雫がニアの肩でシミとなって、堪えきれない声が喉から逃げ出す。搾り出すように、堪えるように、されど漏れる私の嗚咽を聞きながら、ニアはまたひとつ腕の力を強くした。そのニアの温度にまた、溶けるように心は流れ続けたのだ。
・・・結局、一人になんてなりきれなかった。物を壊しても世界は壊れないし、人を遠ざけても人のいない場所には行けない。
消えてなくなれ
全部壊れろ
それらはすべて、心を保つボーダーラインだった。
離れていくものなど要らなかった。
どんなに叫んでも、結局求めている。
そこにいてくれる人を。
ニアが作った真っ白な城の真ん中で、私を抱きとめるような、私にもたれるような、ニアが、そこにいた。
「ゴメンね、ニア。お腹空いたよね」
「・・・不思議ですね」
「ん・・・?」
「が部屋に篭ってる間は全然思わなかったのに、が出てきたら途端に空いてる感じがしてきました」
くるる、とお腹を鳴らすニアが小さくつぶやく。
するとその音に共鳴するように私のお腹もきゅるると鳴いた。
「・・・ごはん食べようか」
「そうですね」
抱き合った腕を緩めて少し離れると、ニアの弱った顔を見て自然と笑みが毀れた。
もうしない、自信はないけれど、次はせめて、3日にしよう。
私の波は、ニアにうつってしまうらしいから。