夜が終わる前に追い付け




 留学試験に受かり、アメリカコロラド州のデンバーに移り住んだのは半年前のこと。
 海外生活はおろか、ひとり暮らしさえ初めての私は最初外食ばかりしていたけど、お金が減ると同時に体脂肪は増え続け、鏡に映る自分に恐怖を覚え自炊しようと決意したのが二ヶ月ほど前のこと。

 そんな時に出会ったのが彼でした。

「……メシ、作ってくんない」
「は?」

 まるでプロポーズか? というようなセリフを、だだっぴろいスーパーの野菜売り場で言われたのはつい三週間前のこと。

 最初は見慣れた肌の色と黒髪に思わず振り向いて、日本人かな、でも大きいな、と覗き見していた。アジア人だろうけど、中国や韓国の顔ではない、やはり日本顔のその人は、買い物かごにトマトやキュウリやお肉をあまり考えずにポンポンと放りこんでいて、一度「それ古いです。こっちのほうが新鮮です」と英語で話しかけた。この国ではさして目立たないけど、たくさん入った買い物かごを楽に片手で持つがっしりした体つきのその人は、高い位置から目線だけを下げて私を一瞥し、「は?」と声を漏らしたことでその人が日本人であると確信出来た。

 最初は私と同じ留学生かなと思っていたけど、話を聞くとその人はなんとバスケットの選手だと言った。日本人でバスケットの本場であるアメリカでプレイしてるなんてすごい、と私は単純に感激したんだけど、その人の表情は一切の変化を見せず、悪いことを言ってしまっただろうか、そりゃ大変なことたくさんあるよな、と軽はずみな発言を猛烈に反省した。

 けれどそれは誤解で、その人はただあまり感情を表に出さない人なだけだった。
 そんな異国の地で出会った人、流川楓さんは、スーパーでよく会う私にある日言ったのだ。
 メシ作ってくんない、と。

「流川さん……いつも何を食べてるんですか」
「トマトとキュウリと肉」
「栄養偏りますよバスケット選手なのに。作れないなら食べに行ったらいいじゃないですか」
「なに言ってんのか分からん」

 ほぼ空っぽの冷蔵庫はただの電力の無駄に見えた。
 冷蔵庫だけでなく彼の部屋は引っ越しする前みたいにガランとしていて、ふとんと音楽プレーヤーとわずかな服があるだけで、その割にタオルや着替えやCDは散らかっていて、とてもひとりで生活をするには不向きな人だと一目でわかった。

「ごはん作るのはいいですけど、私もそんなに料理出来るわけじゃないですよ」
「俺より出来る」
「ちなみに今朝なに食べました?」
「たまごごはん」
「きのうの夜は」
「たまごごはん」

 そんな人だ。私は毎日夕方に彼の家を訪れ、夜ごはんと翌日の朝ごはんを作るアルバイトをすることになった。
 私も日本にいる時は彼と同じような料理レベルだった。そんなんじゃ嫁にやれないとよく母に言われたものだ。だから私もこのアルバイトを始めるにあたってちゃんと料理の勉強をした。そうでなくとも彼はプロのバスケットボール選手。栄養バランスは大事だろう。任されたからには栄養面での落ち度は私が許さない。

「流川さん、明日は何がいいですか?」
「・・・からあげ。と、この前のホウレンソウのやつ」
「ホウレンソウ・・・ああ、アレですね。了解しました」

 不思議と自分用に作っていた頃より人のために作るほうが腕は上がった。
 幸い彼の朝ごはんはいつも目玉焼きとごはんと納豆とみそ汁でよかったのでメニューに悩むのは夜だけで、その夜ごはんも彼はあれが食べたいこれが食べたいと欲望に忠実な人だったので困らなかった。

 私は大学が終わるとスーパーで買い物して、彼からあずかっている鍵で彼の家に入りごはんを作って家に帰った。それからまたスーパーで今度は自分ちの買い物をして自宅でごはんを作る。その自分用のごはんの適当さときたら。そんなことを彼に笑い話としてしたら、彼は「ここで食べればいいだろ」と言った。だから今では、ごはんを作って勉強をしながら彼の帰りを待ち、彼が帰れば一緒にごはんを食べて片づけをして帰る、という生活サイクルになっている。

「楓っていい名前ですね」
「どこが」
「言われません?」
「名前で呼ばれることがない」
「そうなんですか? 友だちとか、彼女とか」
「ない」
「……へぇ」

 意外。
 カボチャに箸を伸ばしながら零した私の言葉が、音楽がなり響く部屋で彼に届いたか分からないくらいに彼の顔は不変だった。そういう方向の想像がつかない彼にちょっと探り入れちゃおうと言ってみたんだけど、この人はまぁそう返すよなとしか思えない答えが返ってきた。見た目はめちゃくちゃカッコいいし、背の高いスポーツマンなんだからモテないことはないだろうけど、まぁーこの性格じゃ……イロコイは難しいだろうな。彼の私生活は数週間しか見ていないけど、彼の頭の中はどうやら寝る・食う・バスケの三色しかない。

「あ、でも、誰も呼ばない名前を彼女だけが呼ぶっていうのもロマンチックでいいですね」
「家族も名前で呼ぶ」
「それとはまた違いますよ、響きが。聞き慣れてないからドキッとしちゃいますよきっと」
「するか。ただの名前だ」
「しますします、ぜったいします」
「じゃあ言ってみろ」
「ん?」
「名前、呼んでみろ」
「……私が言ってどうするんですか」

 そうは言ってみたが、口をもぐもぐさせている彼は真正面から私を見て待っている。
 うわぁー、ジッと見られるとますますかっこいい。ドキッとしちゃう。
 ではなくて。

「えー、では。……楓、さん」
「……気持ちわりぃ」
「ええー!」
「さんってなんだ。気色わりー」
「ちょっと迷ったから付け加えたんですよ。ポイントはそこじゃないですから」
「どーでもいい。何とも思わん」
「いい名前つけても呼ばれないんじゃご両親もつけた甲斐がないってもんですよ。かわいそ」

 ふんと鼻息鳴らしながらごはんを口に放り込む。
 彼も変わらずもぐもぐ食べ続け、一時会話が途切れる。
 彼は無口だから私が黙ればすぐに場は静かになる。いつものこと。
 けれど私は次の瞬間箸をテーブルに置き、オデコを打つ勢いでガバッと頭を下げた。

「ごめんなさい!」
「は?」
「つけた甲斐がないとか言ってごめんなさい! ご両親のことを勝手言ってごめんなさい!」

 突然の私の謝罪は、彼にとっては奇行にしか見えなかったようで口の前で箸が止まった。
 頭を下げた位置から真正面の彼を覗き見て、彼はやっとカボチャに箸を立て口に入れた。

「あれ、今笑いました?」
「笑ってない」
「笑いましたよ、今ちょっとだけクスって」
「笑ってねー」
「流川さんもっと笑ったほうがいいですよ。女性ファン増えますよ。今よりもっとたくさん。ファンが増えたら出場機会増えるかも」
「スタメンは自分で獲る」
「それはそうですけど、ひとつの要因として? 同じ技量の人がもう一人いてどっち出そうか悩んだ時に、流川さん出しておけばファンが喜ぶってことがポイントになるかもしれないじゃないですか」
「テメーな」

 朝から晩までバスケのことを考えて激しい練習をしているのに、いまだ出場機会に恵まれない彼は私の想像なんて遥か及ばないくらい苦しい状況にあるんだろう。バスケの本場であるアメリカで日本人が活躍するということは恐ろしく大変なことなのだ。……と大学の友達から聞いて、私の中で彼の見方が変わった。もっと料理の勉強をしっかりしようと思った。

「流川さんもたまには息抜きしたほうがいいですよ。遊園地とか行ってみたらどうですか? ペプシセンターの線路挟んだ向こうにあるの知ってます?」
「知らん」
「知らないんですか? 観覧車見えるでしょう? ちょっと遠いけど川の向こう側には湖がありますよ。夕方の時間が一番綺麗なんですよね、湖面がキラキラしてて。せっかくアメリカ来たんだからちょっとは散歩もしないと」
「こめんてなんだ」
「湖面ですよ、湖の水面。流川さん、英語だけじゃなくてまず日本語も勉強しないと」
「うるせー」
「さぞかし学生時代はバスケひと筋だったんでしょうね」

 私の顔があまりに憐れんでいたのか、流川さんは長い腕でテーブルの向こう側の私をこともあろうに殴った。男の、しかも毎日嫌というほど身体を鍛えてる人間の力だ。そこそこの衝撃だった。これだからまともな学校生活もせずにやりたいことばっかりやってきた人間は、力の加減も知りゃしない!

「そうだ、流川さん、私もうすぐ試験ですから来られなくなります。その間はちゃんと自分でごはん作ってくださいね。それが無理ならそろそろ日常会話くらい覚えて食べに行ってください」
「……」
「そんな嫌そうな顔しないで。私教えましょうか?」

 彼は基本的に表情は変わらないけど、だんだんその中でも喜怒哀楽を掴めるようにはなってきた。英語が喋れなくてもジェスチャーで何とかなるという人もいるけど、この人は……無理だろう。バスケの上達だけ目指していればいいわけではない環境の変化に苦労しているんだろう、彼は小さく舌打ちをした。

「メシもエーゴも心配なくなったと思ったのに……」

 ボソリと彼が零す。
 独り言さえ滅多と言わない彼には珍しかったけど、それ以上に、その言葉は思わず私の頭に張り付いた。彼はその後ももぐもぐ食事を続けたけど、私の頭の中では彼の言葉が何度も反響し続けて、箸は進まなくなった。

 動揺するな。こんな彼のことだ。レストランや翻訳機と同義語でしかないはず。
 ただ便利だと思っただけ。そうに違いない。

「ごはん食べたら、英語の授業です! ひとりでごはん食べにいけるくらい覚えましょう!」
「……」
「嫌な顔しない!」

 そうしてその日は食事と片づけの後、彼に英語を教えることになった。
 中学生が覚えるレベルの日常会話さえ彼の頭にはハテナが浮かんでいた。

 本当に彼は今後もこの国でやっていく気でいるのか。その前に死んでしまうんじゃなかろうか。
 そのくらい彼はバスケ以外何も出来ない子だった。
 ああ心配だ。私が来ない間にこの人、お腹を空かせて倒れてしまうんじゃないか。
 お腹が空いたままハードな練習なんかしてスタメンが遠のいてしまったりしないだろうか。
 英語を口ずさみながら、そんな心配ばかりが頭と胸に充満した。

「おい」

 ほんの小さな音を聞き取ったのは、それから幾時間か経った後のこと。

「起きろ

 名前を呼ばれてビクリと頭を上げた。
 声がしたほうへ顔を上げると眩しい照明に目がくらんだ。

「行くぞ」
「……はい、え、どこに」

 眩しい部屋。テーブルに広がった日常英会話のテキストとノート。
 パチパチと瞬きして目を覚ますと見えてくる、彼の部屋。高い位置から見下ろす彼。

「あれ……? 私、寝てました?」
「いーから立て」
「ていうか、先に寝たの流川さんですよ。起こしてもぜんぜん起きないし、だから私、必要なのだけ書き出して……」
「いーから、行くぞ」
「え?」

 どこに? と見上げる私を、彼の力強い腕が引っ張り起こし玄関に向かっていった。
 ああ、追い出されるのか。人の家で寝てしまったんだ、仕方ない。
 そういえばさっき、流川さん私を呼んだ? 名前を呼んだの初めてじゃないだろうか。思わずビクっとした。
 無意識の鼓動を感じていたら、彼は玄関前の自転車を肩に担ぎ、そのままアパートの1階まで下りていった。

「どこ行くんですか、こんな時間に」
「乗れ」

 彼は自転車にまたがりうしろをあごで示す。
 あたりはまだ薄暗い。空も灰色でうっすら雲の形が分かる程度。
 鳥は鳴き始めているけど人の姿はひとりも見えない。そして寒い。
 けれども彼は頑なに乗れと言うので、私は彼の肩に掴まって自転車のうしろに乗った。

「うわわ、久しぶり過ぎて、怖い!」

 彼はぐんと自転車をこぎだす。力強い彼の足はスピードをさらに上げて振り落とされそうになる。けれども彼はそんなことにはやっぱり無関心に自転車をこいだ。

「どこ行くんですか!」
「こめん」
「えっ?」

 ぐんぐん風が迫ってくる。冷たさが耳を刺す。
 そのせいで小さな彼の言葉はさらに聞き取りにくくて、彼に耳を近付けた。

「夕陽も朝陽も一緒だろ」
「……」

 こめん。夕陽。
 そのふたつでようやく彼の行動の意味を理解した。
 自転車はぐんぐん、車も人もいない広い道路を軽やかに走っていく。風が強い。

「お、落ちる! もう少しゆっくり!」
「うるせー」

 オレンジ色した夕陽ではなく、青白い朝陽が射す湖面は私も見たことがないから、同じかどうかは分からない。
 けど、夕陽よりも朝陽のほうが彼には似合うと思った。
 去っていく夕陽より、これから始まる朝陽のほうが。





夜が終わる前に追い付け