星とワルツ




その日は、いつもより早めに練習が終わる日だった。
散らかってるボールをカゴに拾い集めてコートをモップがけする中、これから体育館を使う男子バレー部が代わりに入ってきて、バスケ部のみんなは着替えに部室へ帰っていく。その途中のこと。

「彩子、これから監督とミーティングするんだが少し残ってくれるか」
「え!」

みんながぞろぞろ体育館を出ていこうとする入口付近で、赤木さんと小暮さんがマネージャーの彩子を呼びとめてそんな話をしているのを聞いた。いつも赤木さんはもちろん、みんなの頼みはなんでも引き受けてくれる彩子が戸惑うのは珍しいこと。

「なんだ、用事でもあるのか」
「えーっと、いえっ、大丈夫です!」
「本当にいいのか?」
「はい、すぐ行きます!」

陽気に敬礼して承諾する彩子だけど、赤木さんたちがコートを出ていくとかぶっているキャップの下で彩子はアチャーという顔をした。

「アヤちゃん、どーしたの?」
「リョータ・・・」

そんな彩子にいち早く気づいて寄っていくのはもちろんリョータだけど、彩子はリョータの顔をしばらくジーッと見た後でため息をついた。

「ダメ、心配だわ」
「え?なにが?」
「うーん、他に誰か・・・」

リョータの質問にまったくとりつかず、彩子は周りをキョロキョロ見渡した。

「どうしたんスか彩子さん」
「桜木花道・・・、じゃ、余計に怖がらせちゃうか・・・。お、三井センパイ」
「あ?」
「・・・ダメだわ、こんな悪人顔で睨まれたら逃げちゃうわきっと」
「コラ、誰が悪人顔だ」
「となると・・・、あ、流川」
「は?」
「・・・ダメ、問題外。この男には任せられないわ。うーん・・・」

ひとりでブツブツつぶやきながら首を振る彩子の様子を、みんながなんだなんだと目を寄せる。彩子は腕を組んでしきりにあーでもないこーでもないと何かを考え込んでいた。

「・・・あ、ヤッちゃん!」
「え?」
「そーよヤッちゃんがいいわ、他にない!」
「なにが?」

そうして最後に、バチンと俺に目を留めた彩子はいつもの弾けんばかりの笑顔を咲かせ駆け寄ってきた。そばまで来ると俺の肩にぐいと腕を回すものだから俺は焦って、その向こうではリョータが理不尽に怒ってくる。

「ねぇヤッちゃん、ちょっと頼みがあるのよ、聞いてくれない?」
「え・・・なに?」
「実はねー、女の子をひとり、家まで送ってあげてほしいの」
「・・・え、俺がっ?」
「コラヤス!テメェ早くアヤちゃんから離れやがれ!」

腕を組んで顔を近づけてくる彩子は、何を言うかと思えばそんなことを頼んできた。
彩子は今日、後輩の女の子と一緒に帰る約束をして待たせているらしいのだ。
だけど今突然に赤木さんからミーティングを持ち出され、これ以上待たせるのも悪いから代わりに俺に家まで送っていってあげてほしいという。

「でもなんで・・・、事情話せばひとりで帰るんじゃないの?」
「それがちょっとワケありで、ひとりで帰らせられないのよ」
「ワケありって?」
「私の家の近所に住んでて昔っから知ってる子なんだけどさ、ちょっと前に家に帰る途中でチカンに襲われたのよその子」
「チ、チカン・・・?」
「そーなの、サイテーでしょ?それ以来その子、外を歩くのも怖がっちゃって、学校もずっと休んでたのよ。気の小さい子だからさ」
「それは、たいへんだね・・・」
「でしょー?ほんとサイッテーよね、私が一緒だったらブチのめしてやったのにさ」
「はは・・・マネージャーならホント、やりそう」
「おいヤス!アヤちゃんに近すぎんだよ!その手を離せっ!」
「リョータうるさい!」

ピシャリと言われ、リョータは口をつぐんで小さくなる。

「でね、最近になってようやく学校に行けるようにはなったんだけど、やっぱりひとりでは怖くて道を歩きたがらないのよ。まさかひとりで帰すわけにもいかないし、これ以上遅くなったら家の人も心配するだろうしさ」
「事情は分かったけど・・・、俺で大丈夫なのかな。男は、イヤなんじゃないかな」
「さすがヤッちゃん、思いやりがあるわー。そこは私がなんとか説明するからさ、引き受けてくれない?」
「うん・・・、俺はいいけど」
「ホントッ?ありがとー!今度お礼するから」
「いいよ、そんなの」

そんな具合に俺はバンバンと肩をたたかれ、彩子の頼みを引き受けた。
紹介するから着替えたら昇降口まで来てと言い置いて、彩子は先に体育館をかけ出ていく。
その後を、目の据わったリョータに絡まれながら俺は部室へ向かい、制服に着替える間ずっと「アヤちゃんとなに話してたんだ」とくり返し問い詰めてくるリョータからそれとなく逃げ、昇降口へ向かった。

カバンを握り昇降口へ急ぐと、すぐに彩子を見つけた。
彩子よりずっと背の低い女の子が一緒にいて、あの子かなと思った。
まだ1年生の、気崩しも乱れも知らないきちんとした制服姿の女の子。

「イヤ、イヤだよそんなの」
「ぜっったい大丈夫だから!あたしが保証するから!」
「ヤダよ、ムリだよ、彩ちゃんがいい、私待ってるよ」
「これ以上遅くなったらお母さんが心配するでしょ?今日だけだから、ね?」

ふたりに近付いていくけど、ふたりの会話としきりに首を振る女の子が鮮明になるにつれ、なんとなく足が止まって傍まで行けなくなった。やっぱり代役じゃ嫌みたいで、もうすでに泣いてる風に見える。俺は余計に歩み寄りづらくて、そう少し遠くから様子をうかがってると俺に気づいた彩子がパッと笑い、俺を手招いた。

「ほら、あの人」

彩子の手に招かれ俺はまた一歩ずつ歩き出し、彩子に示されるその女の子も俺に振り向いた。泣いてる風だった女の子はやっぱりその通りで、俺は少し息を詰まらせる。

「この人はね、私と同じバスケ部の安田くん。ヤッちゃんよ」
「どうも、はじめまして・・・」
「ほら、やさしそうな人でしょ?この人ならぜったい大丈夫だから。ちゃんと家まで送ってくれるから」
「・・・」
「ね、、暗くなる前に帰りたいでしょ?私もミーティング終わったらすぐ追いかけるからさ」

女の子は、最初に俺を一度見たきり、すぐに目を伏せてもう俺を見なくなった。
彩子はしきりに呼びかけ、大丈夫だと言い聞かせようとする。
それでもその子は彩子の服をつかんで離さず、とうとうたまった涙がまつ毛からぽとりと地面に落ちた。

「マネージャー、やっぱりイヤなんじゃないかな」
「うーん・・・」

彩子の傍を離れない、その子に彩子も困り果ててしまう。
すると彩子は、ポンと何かを思いついたように表情を明るくして、その子に何か、耳打ちをした。
すると女の子はふと顔を上げて、そっと俺を見た。
そして俺を見たまま濡れた瞳をほんの少しだけ細め、笑ってまた目を反らした。

「ね、ほらもう大丈夫。がんばろ、
「うん・・・」
「よし!じゃヤッちゃん、お願いね」
「あ、うん」

さっきまで泣いていた女の子が、一瞬で少しだけど笑顔になってしまった。
いったいどんな魔法の言葉を使えばそんなことができるのか謎だけど、ようやく代行に承諾してくれたその子と俺はやっと暮れ始めた空の下を歩き出すことが出来た。校門を過ぎるまで手を振り見送っていた彩子も、安心して急ぎミーティングへと走っていった。

「ええと・・・、俺、安田靖春ってゆーんだ。ヤスが2回続くなんて、めずらしいでしょ」

ようやく歩き出した俺たちだけど、やっぱり会話なんてなく、俺は少しおどけてよく人に笑われる自分の名前を言ってみたんだけど、ちゃんは笑うどころか、振り返った俺を少し身を引きながらジッと見上げた。

「あの、ちゃんていうんだよね。1年生だよね」
「・・・」
「うちのバスケ部にも今年はいい1年が入ってさ、桜木なんてあの頭だから有名人なんじゃない?」
「・・・」
「桜木って面白いヤツでさ、最初は赤木キャプテンと折り合い付かなくてたいへんだったけど・・・、あ、それは今でも同じか、はは」
「・・・」
「えーと、あと流川ってヤツがすごくてさ、女の子にはアイツのほうが人気なのかな」
「・・・同じクラス」
「え?あ、流川と?へぇ、そーなんだ」

ちゃんは俺の少しうしろをついて歩き、俺が何とか話を振り絞っても無言でうなづくだけで、たまーにポツリと小さな声で返事をくれた。足音もとても小さく、振り返って確かめないとちゃんとそこにいるかわからないくらいで、でも俺が振り返るとちゃんは決まって足を止めて身構える。常に俺と少し距離を取って、俺が歩けば歩きだす。

それからも、だんだん暮れていく道を俺とちゃんは、少ない口数で歩き続けた。
俺はうしろにちゃんがいるから何度も振り返るけど、ちゃんも何度もうしろを振り返る。どうやら、うしろが怖いらしい。

「あの、俺がうしろ歩こうか?」
「いいです、うしろのほうが・・・」
「あ、そう」

そんなにうしろが気になるなら俺が、と思ったんだけど、ちゃんは嫌がった。
俺も信用されてないのかなと気になるけど、ちゃんがそれがいいと言うならそれが一番いいんだろう。

「あれ、ヤス?お前先に帰ったんじゃなかったっけ?」
「リョータ」

ちゃんと小さな歩幅で歩いていくと、駅近くの商店前の自販機でリョータが三井さんや桜木と一緒に缶ジュースを飲んでいた。

「あれ?なんだよその子。まさか、彼女!?」
「なんだとっ、ヤスに!?」
「なにぃ!?」
「ち、違うよ」

リョータと桜木はうしろのちゃんに目を留めて、物珍しそうに近寄ってきた。
俺は慌てて否定するけど、俺のうしろに隠れるちゃんは完ぺきリョータたちを怖がっていて、彩子がリョータや他の人に頼まなかったワケがようやく分かった。

「なんだよヤス、そうならそうと早く言えよ!紹介しろ!」
「ヤスのクセにナマイキなっ!」
「だから違うってば、俺たち急ぐから・・・じゃあお先に!」
「こらヤス!」

待てぇ!と叫んでくるリョータたちから俺はちゃんを連れて走りだし、なんとか声の届かないところまで逃げ、ふぅと息つきながら電灯の下で足を止めた。

「ごめんね、大丈夫?」

俺より息が上がってるちゃんを覗き込みながら言った。
するとちゃんは、すぐそばにいる俺に気づき一歩離れ、大丈夫ですと答えた。

「・・・あ、じゃあ、行こうか」

俺たちは、ちゃんに家の方向を聞きながら、また歩き出す。
俺のうしろを静かなちゃんの足音がついてくる。
ちゃんがちゃんとついてきてるか心配だったから、俺は自分の足音もできるだけ小さくして、ちゃんの足音を聞きながら歩いた。

時々ちゃんの足音が詰まる。
きっと、何度もうしろを振り返りながら歩いているんだと思う。
少し暗がりのただまっすぐなだけの道を、ちゃんは人の何倍も気を張りつめながら、あちこちに視線を貼りめぐらせながら歩いている。

なんだか、とてもかわいそうに思った。
こんな小さく弱い女の子が、あらゆる周囲のものを警戒して歩かなきゃいけない。
ちゃんが直面したことがどんなものだったかは知らないけど、そのせいでこんなにもあたりを気にしながら、ひとりで歩けないほどに怯えながら生きているなんて。

やるせないというか、悔しいというか、悲しいというか。
そしてその原因を作ったやつと、俺も同じ男だということに、申し訳なくもあり・・・。

「・・・」

ふと、うしろでちゃんの声を聞いた気がして、パッと振り返った。

「え・・・、え?」

俺は振り返りうしろのちゃんを視界に入れて、足を止めた。
俺のうしろを静かに歩いていたちゃんが、泣いていた。

「なに、どうしたの?なにかあった?」
「・・・」
「ごめん、なにか怖かった?大丈夫?ごめんねっ」

俺が足を止めるとちゃんも足を止め、ぐと口を押さえて声を出さずに、でもとても不安そうな顔でポロポロポロポロ涙を落とし続けていた。それがなぜか分からず、俺は必死に同じ言葉をくり返し何とか涙を止めようとした。

「大丈夫?どこか痛いとか?違う?じゃあ、えっと、さっきのヤツらが怖かった?ごめんね、悪いヤツらじゃないから、あれでも・・・」

ちゃんは俺の言うことには首を振り、何とか涙を止めようとした。
胸を押さえながら心を落ち着けて、呼吸をくり返しながら小さくゴメンナサイとつぶやき、少しずつ涙をのんで泣きやもうとした。

ようやく落ち着き、もう大丈夫と言うちゃんに俺は心底ホッとして、また歩き出した。
歩き出したけど俺は心配で心配で、何度もちゃんに振り返りながら歩いた。
思いついたどうでもいいことを話しながら、そのたびちゃんに振り返った。

そうするとちゃんはもう、泣かなかった。
不安そうな顔も怖がるような態度も、だんだんなくなっていった。
もしかしたら、さっき俺が考え込んじゃって振り返りもせずに黙って歩いちゃったのが、ひとりにさせてしまったように感じて怖くなったのかな・・・。
そう思って、ちゃんが俺についてきていることと、俺に目を合わせることを確認しながら歩いた。そうするとやっぱりちゃんは泣かずにちゃんと俺についてきてくれたから、それがちゃんとの歩き方なんだと分かった。

俺は何度も振り返り歩いた。
少しずつ返す言葉が増えていくちゃんとの話を楽しく思いながら、歩いた。

「そういえばさ、学校出るとき、マネージャーになんて言われたの?」

俺は不意に思い出して、あの時彩子になにを耳打ちされたのかと聞いた。
するとちゃんは思いだしたのか、クスクス笑った。

「彩ちゃんの家の近くにケンっていう犬がいて、安田さんがケンにソックリだからケンだと思えば怖くないでしょって」
「犬と似てるって・・・ヒドイなぁ」

それでも、泣いてたちゃんが一瞬で笑ったくらいだから、よほど似てるんだろう・・・。
複雑だけど、それで笑ってくれるなら、それもいいのかな。

「あ、俺の名前、覚えてくれたんだね」
「ヤスがふたつの安田さん」
「はは、うん、そう」

何度も何度も振り返り話すうちに、だんだん振り返ることが少なくなっていった。
少しうしろを歩いていたちゃんが、だんだんそばを歩くようになった。
やっぱり時々うしろを振り返るけど、俺も一緒に振り返って確かめて、大丈夫だよと声をかけるとちゃんはふわりと笑って、俺もつられて笑った。

ちゃんは話してるうちにだんだん柔らかく笑うようになっていった。
家が近づいて安心してるのか、これがいつものちゃんなんだろうと思った。
早くちゃんが、どこでもこんな風に笑っていられるようになればいいな。
もうずいぶん陽は落ちてしまったけど、あまり暗さを感じなかった。
女の子と一緒に帰れと言われた時はどうなるかと思ったけど、最初よりはずいぶんと楽に歩けるようになったし、今になればあっという間だった気もする。ちゃんが、もうすぐ家ですと言うと、少し寂しくもなった。

「ほんとに、ありがとうございました」

ちゃんの家について、ちゃんは俺に深々と頭を下げた。
陽が沈むと同時に、ついに終わってしまった。

「ううん、俺ぜんぜん役に立ってないし」

そう言う俺にちゃんは、家についてホッとしたような安心した笑顔で首を振る。

「安田さんでよかった」
「え・・・」

家の外灯だけの明かりの中、俺はつい焦ってハハと笑った。
門の向こうで何度もありがとうと言うちゃんに、じゃあねと手を振って、帰っていく俺をちゃんは見えなくなるまで見送ってくれていたから、また俺は何度も振り返りながら道を歩いていった。

ちゃんと離れた後の道は、こんなに暗かったっけと思うほど陽が落ちていた。
丸い月と、こぼしたみたいな星がいくつも光っていて、もっと早く気付けばよかったなと思った。

胸にはなんだか、記念メダルみたいな、達成感。
それに少し水を差す、小さな小さな物哀しさ。
いろいろ入り混じって、振り返り見た笑顔と、交わした会話を思い返しながら。
妙に逸る心音と歩幅で、帰り道を歩いた。





星とワルツ

こんだけ長くてオチなんてない。