動く箱の中は、マフラーもコートも要らないくらいの温暖気候で、窓一枚向こう側の白い景色なんて遠い世界の話みたいだ。寒そうな外をぼぉっと見つめて、タタンタタン、揺れる振動に耳を寄せていた。
「う、寒っ」
ぷしゅ、と開いたドアの外は案の定身を縛るような寒さで、緩んでいたコートもマフラーも握り直す。無防備な脚なんて一気に鳥肌がたつ。帰宅ラッシュのこの時間、人波に流されるようにホームに出た。
乗り継ぐ電車が来るまで10分。寒さを凌げる小さな待合室は同じく電車を待つ人でいっぱいで、なんでもいいからあったかいとこがいい!と思っていたはずなのに、その気力を萎えさせた。
私はすっかり、人ごみを拒絶するようになってしまったのだ。
人ごみを嫌う君の、伝染病。
待合室を通り過ぎて、ホームの一番奥に並ぶ椅子たちの端っこに座る。
ひやりと冷たい椅子に、膝裏もひぃと悲鳴をあげるようだ。
ついこの間までまだ夏で、半袖で強い太陽の下を生きてたはずなのに、たった4ヶ月で季節はこんなにも一転するんだから、そう考えると時間なんてあっという間。
夏の終わりから、もう4ヶ月。
まだ4ヶ月。たった4ヶ月。
「?」
4ヶ月ぶりの、
「・・・」
その声で紡がれる、名前。
「・・・うわ、ひさしぶり」
「ひさしぶり」
きっと、思わず見つめてしまった時間は3秒くらいだっただろう。
しゃべり出すには長い時間。
「めずらしいね、なかなか会わないものだよね」
「そだね。あ、でも時々見かけるよ」
「俺も」
英士のほうが学校が遠いから、朝は英士のほうが早く来るだろうし、帰りだって英士のほうが遅いから、いつも同じ駅を使っててもなかなか会わないんだ。日常生活の時間帯が合わないって、思いのほか脅威だった。
「どうしたの、こんなとこ座って。いつも寒いの耐えられないって文句言ってたのに」
「あはは、寒いんだけどさ、あの待合室見てたら入る気失せちゃって」
「俺も。絶対あの中、嫌な熱気篭ってる」
「だよね。サッカーどう?寒いからたいへんでしょ」
「うん。でもまぁ、毎年のことだしね」
「だよね。当たり前か。がんばってる?」
うん。小さくそれだけ答えて英士は離れていった。
そんなのわざわざ聞かなくても、英士なら順調に決まってる。
がんばってる?なんて、今の私が聞くと、なんだか嫌味っぽい。
サッカーに英士を取られて、遠く離れてしまった学校に英士を取られて、うまくいかなくなったようなものだから。
ああ、違うか。
それでも英士は中学の頃から何も変わってなかったはず。
我慢できなくなったのは、変わってしまったのは、私のほうだった。
「はい」
少しして戻ってきた英士が私に缶を差し出した。
クリーム色した缶のミルクティーは、きっとあたたかいやつ。
受け取るとやっぱり、冷えた指先が痛いくらいあたたかかった。
わーい、なんてわざとらしく喜ぶと、英士は私の隣の冷たい椅子に座った。
うれしかった。私の分も買ってくれたことにじゃない。
それがミルクティーだったこと。私を名前で呼んだこと。私の隣に座ったこと。
夏の終わりから4ヶ月。日常生活の大半を過ごす学校が違ってしまうと、それまで毎日といっていいほど会えていた二人でも約束なしでは会えなくなってしまうもので、この駅でその涼しい横顔を見かけることはあっても、声なんて、かけれなくて。
私だったらこんな風に英士を見つけても、名前なんて呼べなかったかも。
ううん、絶対に呼べてなかった。
隣同士、座ったまま、目の前では何本も電車が到着して、発車して。
ホームはガタガタと騒がしい限りだけど、私たちはしんと静か。
4ヶ月ぶりに会話をするのだから聞きたいことも話したいこともあるけど、何を言うにも、何を聞くにも、口に出す勇気がいった。気軽には話せなかった。だってそれが、別れるっていうこと。別れたということ。
でも、なんだか、隣の英士は平然顔。
何を考えてるのかわからない。私が平気なフリして実はこんなにも居心地の悪さを感じてるのに、英士は何も感じてないようにも見える。
なんて英士なのだろう。思わず笑ってしまう。
「なに?」
「ん?」
「急に笑うから」
「いや、英士だなぁと思って」
「は?」
「いっつもその顔で、何考えてるのか全然わかんなかった」
だから私は英士にしょっちゅう今何考えてるのって聞いて、でも英士から返ってくる答えは、明日晴れるかなとか、今日は暑いなとか、意外と普通で、それが私はなんだか、うれしかったんだよね。
なんだ。私も、英士も、あまり違わないなって。
「は、いつも言動が突飛でよくわからなかった」
「とっぴ?」
「主語がなかったり、いきなりあれしたいこれしたいって言ったり、急に走り出したり。思い立ったらすぐ行動だったからね」
「あは、今もあんま変わってないかも」
「たった4ヶ月だしね」
「・・・」
たった。
英士にとっては、たった。
死ぬほど長く感じてた私には、まだ。
きっと英士は、今の私の心の中がおかしいくらい荒れ狂ってること、わかってない。体が火照るくらい熱いのはミルクティーのせいじゃないこと、知らない。今にも出そうな涙、必死に堪え誤魔化してること。
そうだ、聞いてよ。こないだ私ね、
普通のトーンで、喋って笑って、どうでもいい日常を並べ立てるのは、詰まりそうな息を必死で吐き出すためで、声がかけられなくなって悲しかったことも、話しかけられてうれしいことも、我慢して話すの。
私はへいき。私はふつうよって、見せてあげる。
夏の終わりのさよならに、今ならありがとうを添えられるよって。
「、電車乗らなくていいの?」
「え?」
怒涛に話す私の話の腰を折って、英士が駅のホームを風切って動き出す電車を指差して言う。たくさん話すことを考えて吐き出してるうちに、私は何本も乗るはずの電車をやり過ごしてしまってたようだ。気がつけば屋根の隙間から見える空は暗いし、ホームに明かりもついている。
「うそ、もうこんな時間。どーせ言うならもっと早く言ってよ」
「だって話が途切れないから」
「だって4ヶ月分たまってるんだもん」
の話は4ヶ月分以上あるよ。なんて、英士は笑う。
嫌でも目に付くその姿を見るたびホームの隅でうずくまって泣いてたことを、それでも期待して駅に来るたび見渡してしまうクセを、英士に恋して、思いがかなって、でも崩れてしまって、それでもこの恋が消えなかったことを全部ひた隠して話すのは、むずかしいことなのに。
そんな涼しい顔で笑うんだから
くやしくなっちゃう。
次の電車が走りこんできて、耳を突く音を立てて、私たちの前で止まる。
あたたかそうなその中に乗って、私たちは帰らなきゃいけない。
もう冷えきった空っぽの缶を持って立ち上がる英士の背中をまた、3秒見つめて、目を伏せた。
「?乗らないの?」
「うん、先行ってよ」
「なんで?」
「・・・」
明るく話して、がんばって笑うのはもう、疲れちゃった。
なんで、私たちが離れた時に、夏の終わりに、
この思いも消えてくれなかったんだろう。
どうして私はまだこんなにも、英士に焦がれて仕方ないのだろう。
もう季節は夏なんて忘れて、たった4ヶ月の間にこんなにも変わったというのに、私だけをそこに忘れて置いたままだ。
だって、無理だったんだもん。好きだって思えば思うほど、傍にいないのが悲しくて、英士の中の一番がサッカーなことくらいわかってたつもりでいたけど、そんな英士が好きだったんだけど、ずっとそばに感じられないのは、耐えられなかったんだもん。
だから、離れるしかなかった。
我侭言いたくなかったから、嫌われたくなかったから、
さよなら言うしか、ないじゃない。
ほんとうはそんなの、いやでいやで、
一緒にいた時だって、今だって、私のほうがずっとずっと英士が好きだったから
「ほんとに大好きだったの」
「・・・」
「ありがと、英士」
「・・・なにが?」
「わかんないけど、さよならだけじゃ寂しいから」
ドキドキうるさい心臓から吐き出された息は熱いけど、
毀れた本音は思いのほか穏やかで、
不思議なくらい、私、素直に英士を見つめられてる。
今日また、英士と話せて、よかった。
私はバカみたく、意味のないことを喋るばかりだったけど、さよならにやっと、ありがとうが添えられたんだ。
英士
英士、
「・・・」
あたたかい空気をこぼす電車から、人が降りて、乗って、ホームにベルが鳴り響く。
空はまた一段と暗くなって、街はどんどん光度を増して、冷えていく。
「・・・俺、思うんだけど、」
鳴り響くベルはうるさく、
英士の小さな声なんてかき消されそうなほど。
「今ならきっと、俺のほうがのこと好きだよ」
「・・・」
ぴたり、止んだベルで、英士の言葉は何にも邪魔されることはなく
冬の夜空のように澄んで、届いた。
英士は一歩、その足を私に踏み出して、冷え切った私の手をとって引っ張り、帰宅ラッシュの込み合った電車に乗り込んだ。
「えい、し・・・」
ぎゅうぎゅうと込み合う電車の中に、私たち二人分の隙間なんてなくて、
私の口は英士の肩に押し付けられて、うまくしゃべれなかった。
でも、もう二度と英士と手を繋ぐことなんてないと思ってたから。
こんな人ごみの中で抱き合うことなんて、一生ないと思うから。
誰にも気づかれないようにそっと、夏の終わりよりあたたかな涙が英士の肩に降り続けた。
私の背に回す英士の腕がぎゅときつくなったのは、満員電車のせいじゃないと、信じたい。
クリスマス企画2006