私はこの窓が好きだった。
立ち上がってやっと外が見える、そう大きくないからふとんは干せない、ワンルームの狭い部屋の一の窓にしては使い勝手はよくなかったのだけど、この窓の外には小学校があり、チャイムと子供たちの声で時計がなくてもある程度時間が分かる。学校前には落葉樹の並木道、校庭には桜の木が並んでいて季節まで分かる。何より床に引いた布団から昼は真っ青な空が、夜は綺麗な星空が見えるから、私は大好きだったのだ。
埃っぽい空気を逃がそうと窓を開け、外を見渡しながらふぅと息をついた。篭って聞こえていた学校のチャイムが窓を開けた途端はっきりとその鐘の音を強くして、グラウンドにこぼした豆のように散らばっていた子供たちが掃除機に吸い込まれていくように校舎へと入っていく。もうすぐ春休みとあって気候は日に日にあったかくなっていく。校庭の桜ももうすぐ咲きそうだ。
んーと背筋を伸ばし腕を大きく広げたら、後ろからピンポーンと今度は我が家のチャイムが鳴る音がして、はーいと声をかけるとドアは開いてまだ冬っぽいコートを着込んだ彼が顔を見せた。もう何度この部屋を訪れたか分からないのに、いつもご丁寧にチャイムを鳴らす、彼の好きなところ。
「おにぎり、たらこなかった。シーチキンにした」
「んー、いいよ」
「ガムテープ紙のでよかった?」
「うん、ありがと」
英士がドアを開けて閉めるまでの数秒の間に、ドアの外の手すりに見慣れたじゅうたんの色が見えた。薄紅にミルクをこぼしたようなベージュの模様が入ったじゅうたんは、この部屋に住むことを決めた4年前に購入したものだからそろそろ変え時なのだけど、気に入ってるから捨てがたい。
そこにじゅうたんがあるということは今この部屋の床はもちろんフローリングのまま。素足だと少々冷たいけど、靴下を履いて雑巾がけは出来ないから私はとても張り切った姿をしている。めくり挙げていた袖を下ろしながら部屋中を占領している段ボールを端へ押しやって、入ってくる英士の居場所を作った。
「もうあったかいよ、上着要らないくらい」
「ね。桜もう咲いてた?」
「咲いてはないけど、芽吹いてる程度?」
「ついこの間まで寒かったのにね」
私たちはおそらく今日、日本中の人が交わしてるだろうありきたりな会話をしながら床に座って、英士が買ってきてくれたオニギリやからあげをお花見気分で食べた。アパートの裏にあるコンビニにはこの4年間、どれだけお世話になったか分からない。菓子折りのひとつでももってお礼に行きたいほどだけど、最後のランチもそのコンビニを愛用させていただいたことをお礼と受け取ってもらいたい。
「あ、そっちたまねぎ入ってる」
「ん!あーほんとだー」
「だからふたつ買ってきたのに」
「うーやだー口の中からい。コーヒーひと口ちょうだい」
口の中にマヨネーズや塩コショウの味を吹き飛ばしてたまねぎの辛味が広がる。私は小さい頃からこの味が嫌いで、煮込んで柔らかくなったたまねぎは大丈夫だけど生のたまねぎはまったくダメで、英士のコーヒーを口に含んで味を誤魔化した。カフェインの力をもってしても喉の奥に染み付いた風味は消えてくれなくて、私はしばらく顔をしかめたままごはんを食べ続けたのだった。
「だいぶ片付いたね。こっちゴミ?」
「うん、でもまだ分けてないよ」
「このケースもう捨てるんでしょ?とりあえず捨てれるものだけ捨ててくるからね」
「んー」
手に3つ4つ荷物を持って英士がまた玄関を出て行く。この部屋に引っ越して来たときは私ひとりで荷物運びから整理整頓までをこなしてとても大変だった記憶があるだけに、男手があるというのはとても便利なもの。良かった良かった、大学卒業までに彼氏が出来て。
といっても今でこそ英士にこんな深い安心感を抱けるけど、きっと出会った頃の英士じゃこんな力仕事はとても頼めなかったと思う。男の子とはいえどう見ても力仕事に向いてなさそうだった。きっと私のほうが重いものも持てるなと思っていたくらい。
出会ってしばらくした頃、そんなことをぽろっと言ったら英士はとても不機嫌な顔をした。常日頃から体を鍛えてるプロのサッカー選手に向かって失礼極まりないと。とはいえ私はサッカーなんてルールも知らない、プロのスポーツ選手がどんなトレーニングをしているのかも知らないただの女の子だったので、高校時代の部活動の記憶から走りこみとか足腰の筋トレくらいしか思ってなかった。だって英士がストイックに体を鍛えてるとこなんて、未だに想像できない。
それだけに、英士が初めてこの部屋に泊まったときは、とてつもない衝撃を覚えた。どうやったらあの細っこく見える服の下にこんなしっかりとした筋肉が収まっているのか。どうやったらあんな華奢な腕で私ひとりを軽々しく持ち上げてしまうのか。自分が恥ずかしく思えてしまうほど英士はあまりにしっかりと男の人だったから、私が英士にただただ落ちていったのはごく当たり前のことだったと思う。
「さて」
一通りの荷物を段ボールに詰め終えて、惜しみながらじゅうたんもビニール袋に詰めて、引越し屋さんのトラックが来るのを待つだけとなった。この時期やっぱり引越しをする人が多いから夕方にしか来てもらえなかったのだ。でもそれも、有り難いことかもしれない。もしこれが朝一だったら、きっと今日英士には、会えてなかった。
「もう出れる?」
「うん」
「忘れてることない?」
「ないない」
「通帳解約した?」
「したした」
簡素なワンルームの部屋の真ん中、ひとつひとつを確認しながら英士が部屋を見渡す。英士はいつもそう、出かける前は必ず窓の戸締りとかガスの元栓とかカバンの中のサイフと携帯電話とかをすべてチェックしてから私より後に玄関を出ていた。そりゃ家に帰ってきたら玄関の鍵が開いてたとか弱火のガスコンロがついたままだったとか机の上にサイフがあるのに私がいないとかが頻繁に起こっていれば心配にもなるだろう。もっとしっかりしなと何度言われたことか分からない。(母親かアンタ)
「ふふ」
「なに」
「いや、思い出し笑い」
「なに思い出したの」
「英士にはいっぱい怒られたなーって」
「はひとり暮らしするには子供過ぎたからね」
「英士だって初ひとり暮らしのワリには何でもしっかり出来ちゃってたよね」
「しっかりせざるを得なかったんだと思うよ」
「おかげで少しはしっかり者になりました。これからはちゃんと生きていきます」
小さな宣誓のように笑って言ったら、英士はほんの少しだけ寂しそうな目を、笑って誤魔化した。
「忘れものはない?」
「ないない」
「もう思い残すこともない?」
「思い残すことかー。んー・・・」
それは、考えないようにしてたんだけどなぁ。
こんなあまりものみたいな時間は、どうしたって、悲しんじゃうじゃない。
「あ、そうだ」
ぽつりというと、部屋の中で移ろっていた英士の目が私に静かに向かって止まる。あ、そうだ、なんて思い出したみたいに言っちゃったけど、ほんとはずっと気にしてた。掃除をしてる間も、段ボールに服を詰めてる間も、オニギリを食べてる間も。
私はそっと、左手を上げて、薬指のそれを見下ろす。
「普通さ、こういうのって、みんなどうしてるんだろう」
「捨てちゃうんじゃない?」
「そうかなぁ。あ、友達は売ってたな」
「売ってもいいけどまったく値つかないと思うよ」
「ヤダヤダ、それだけは嫌!」
「はは」
ついているのはそんな値がつくような綺麗な石じゃないし、長年付け続けたシルバーは私に皮脂を吸い続けて鈍く曇っている。売るどころか、貰い手だってまさかいやしないだろう。
貰ったばかりのときは、とても綺麗に光り輝いてたんだよ。2年前のクリスマス、寒い寒い夜空の下、英士らしくイルミネーションもツリーもないような真っ暗で静かな場所で、星の光を吸い取ったような綺麗なピンクの石がついた指輪を、冷たい私の指に英士がはめた。
あの時は、これほどの幸せはないと思った。形あるものがこれほど嬉しいとは思っていなかった。
遠い大学を受験して初めての一人暮らしをして、大学に私生活にアルバイトと激動の毎日を送る中で出会った英士はまさに砂漠のオアシスのような人で、ああ、私はこの人が好きなんだと思ってからそれを口に出すまでに長い長い時間を費やして。
貴方が受け止めてくれた日から、貴方が好きだと何百回言ったか分からない。何万回思ったか分からない。ただただもう、おかしいくらいに好きとしか思えなくて、同じ年なのにとても高い場所にいる貴方に追いつきたくて背伸びして、でも貴方はいつも、私と同じ位置に立ってくれていて。
英士となら一生傍にいられると思った。
離れる日なんて絶対に来ないと信じていた。
貴方が好きで好きでしょうがなかったの
に、
ヤバイ、と泣きそうになって、指輪を見下ろしてる振りをしながら息を止めた。息を呑むことさえ出来ない。英士はとても敏感に私の気持ちを察知するから。
静かに、静かに、飲み込んで、
胸のつまりを下ろして、そっと息を吐いた。
「・・・こんなこと、言っていいか分からないけど」
「ん、なに?」
まだ英士からは見えないように俯いて、口でだけ笑った。
「がまだそれつけてたのが、うれしかった」
「・・・」
・・・ずるい。ずるい。
なんで、そんな、
「だって、英士はやっぱり、ずっと私の好きな人だもん」
それでも私は笑って英士を見上げた。ヘタクソだったかもしれないけれど。
だってこれは悲しい別れじゃない。傷つけて憎んだりしたまま別れるより、ずっといい。私たちの決断はもっとずっと高い場所にあった。別れることしか選べなかった程に幼くはあったけど。
貴方を見つけ、好きになった自分を私は褒めてあげたい。
貴方を好きなままでいる今を、私はとても誇りに思う。
開けたままの窓の外からトラックが駐車する音が聞こえた。引越しのトラックが来たようで、もう、余った時間も終わる。
「ありがとう英士。私はすごくしあわせでした」
「うん、俺も」
「がんばってね、サッカー。ずっと応援してる。試合も見にいく」
「うん」
さよならはどうしてもいえないけど
だいすきももう、いえないけど
「しあわせでいてね、英士」
たくさんの言葉たちを飲み込んで、詰まってしまわないようにちゃんと呼吸して、この春先の空のように青く高々と、薄紅色に笑っていよう。
「も」
もう春はすぐそこまできてる。
「」
「ん」
「・・・キス、していい?」
「・・・」
初めてだ。英士が、そんなこと言うの。
なんだかちょっと、得した気分になっちゃうよ。
「ん」
そうしてさよなら手前の私たちは、何度交わしたか分からないこの部屋の真ん中で、それはまるで最初のキスのように、最後のキスをした。
慣れた英士の温度が触れるともうどうしても堪え切れなかった糸はぽとりと切れて、締め付けた心がゆるりと解けてしまったけれど、この距離ならきっと、見つからないよね。
ずっと一緒と約束した薬指はあたたかなヴェールを脱いで、次の冬はきっと、凍えているだろう。それほどまでに貴方は寒く冷たい真冬でも、極上のぬくもりだった。雪に埋もれたクリスマスツリーのように、光り輝いていた。
それでも私は笑っているよ。
貴方を思い返して笑っているよ。
冷たい指にあたたかい息を吹きかけながら。
ありがとう
だいすき
がんばって
しあわせでいてね
ずっと、ずっと、想ってる。
クリスマス企画2007