乾いた空気に冷たい風は、ただ寒いだけ。朝焼けの蒼さだとか夜の星のきらめきだとか静かな灰色の街並みだとか、そんな情緒的なものなんて感じてる場合じゃなく、冬はただ単に寒い、そういう季節。
「さっみー」
「こんな中をあんな短いスカートで毎日通ってたんだから、若いって素晴らしいよね」
「ババクサ」
両脇に並ぶ街路樹はひとつ前の季節に全て葉を落とし、それを、少しでも太陽光を差し込ませ道や人を暖めるためだなんてご都合的な解釈をし尚且つそれを温かく受け入れていられるのは、この胸の中がそれ以上に温かいときだけだ。体が冷えればおのずと思考も温度が下がり自然と心も冷たくなっていく。冬の空を見上げ思うのは空虚。冬の木々を見上げ思うのは質素。
季節は巡るだとか。やまない雨はないだとか。明けない夜はないだとか。
人は簡単に言うけれど、明るいものばかりを求めるわけじゃない。たまには雨も降り続いてくれないと。晴天ばかりじゃいつ心を曇らせればいいのかわからなくなる。
赤い糸が切れたときとか。
「わ、見てすごい。これ卒業のときの記念樹じゃない?7年でこんなおっきくなんの?」
「俺参加しなかったからしらね」
「あー、後輩たちにボタンから制服から上着までひったくられて、寒くて植樹どころじゃなかったんだっけ。最後の最後までなーんか不運がついて回るよねーあんたって」
「るせぇなぁ」
冷たい指先で頭をがしがしかいて、三上は私を置いて歩いていった。その背中はあの頃よりずっと広く大きく見えて、私のからかいや嫌味に静かに受け答えてしまう今の三上は、過ぎ去る時間の中で確実に大人になっていた。あの頃ならきっともっと声を荒げて、バカくらい罵ったよね。
「ねぇ今でもさぁ、誰かと会ったりしてるの?」
「最近はぜんぜんだな。たまぁに近藤と連絡とるくらい。あ、年賀状なら渋沢から毎年届くけど」
「っあは、うちもー」
「ご苦労なヤツだよな」
「海外からでも送ってくるんだからいっそ尊敬するよ」
今じゃ世界的な地位を築いてしまった彼とも、この道では笑いあいふざけあっていたのだから、思えば私たちはとても貴重な思い出を持ってることになる。思い出を形に出来るなら一体いくらの値がつくことか。なのにあの頃は、形を残すこともおろそかにしてただ毎日を過ごすことで精一杯だったから、思い出らしい思い出なんて写真くらい。
「三上、まだ卒業アルバム持ってる?」
「あー、どっかにあるんじゃねーの」
「あんた写真とか嫌がっていつも逃げてたから全然写ってなかったよね。クラス写真くらいじゃない?」
「そーだっけ」
「そーだよ」
時々見つけて開いてみるその中に、あの頃の三上の姿は数える程度。やっと見つけても行事やクラス写真でのこいつは大体どれも似たような顔をしている。
それでも私は探したなぁ。集まるみんなの片隅にいた後頭部とか、ピースしてる子たちの後ろを通り過ぎてる横顔とか、見切れてしまってる左腕とか、目ざとく、虫眼鏡まで持ち出して。
7年も月日が経って、落ち着いて振り返ることが出来る今だからこそ思える。
私はこいつに恋してたんだなぁと。
「どーでもいーけどサムッ。もーいーだろどっか行こうぜ」
「あ、あそこ行こーよ。寮の裏のラーメン屋!」
「まだあんのかよ、あの時すでに人ガラッガラだったじゃねーか」
「あー、もうないかな」
「思い出は綺麗なまま取っとくもんだぞ、やめとけ」
「うん」
門から校舎までの並木道をまっすぐ歩いて、塗り替えられたらしい綺麗な壁にぽつんとある校章を見上げた。ほんと、毎日見てた頃はまったく何も思わないただの物ばかりなのに、どうして何の感慨も無いものにこうも懐かしさを抱くのだろう。
高校だけじゃない。それこそたった2年前まで通ってた大学にだってきっと思い出は溢れてくるだろうし、一緒に勉強したファミレスとかカラオケとかファーストフード店でさえ、もっと時間が経てば次々と懐かしくなっていくんだ。
「ねーせっかくだから中等部まで行こうよ」
「行ったってもう誰も知ってるやつなんかいねーだろ」
「寮母のおばちゃんくらいいるかも」
「無理だ。もうあの時すでにいい年だった。今頃棺おけの中でも不思議は無い」
「ひっどぉ!」
「7年も経ちゃ何が起きてもおかしくねーよ」
そりゃそうだ。7年も経てばよちよち歩きの赤ちゃんだってランドセルを背負うようになる。晴天の桜の下で涙ながら別れを惜しんだ私たちも、ちらほらと結婚ハガキが届くお年頃だ。
「おい、行くぞ」
「どこに?」
「どっか、メシ。腹へった」
でも7年経っても私たちこんな風に一緒に隣を歩けて、笑って過ごせてるのってすごいと思うんだ。女の子でさえ高校の頃の友達なんて今じゃなかなか会わないのに、たまに、ほんとたまにだけど、どちらともなくメールしてはごはん食べたり遊びに行ったり。ね、それって、間違っても嫌いじゃ出来ないことだよね。だからずるずる引き延ばされてしまったんだ。
「三上ー」
「ん」
振り向かない背中だけど見つめてた。見返されると見れないから、見られてないときだけ見つめてた。でもそれがもれてしまえば結局男女でしかない私たちは始まってもないのに結末を迎えなければいけなくなってしまうから、蓋をして、笑って、誤魔化して、笑って。
「三上は今彼女いないの」
「は?べつに、今はいないけど」
「うわ、なんで?生涯モテ期の三上亮が」
「なんだそれ。そんな上手い話あるか」
私たちは絶対にお互いの恋愛の話はしなかった。高校の時から一度も、ずっと。恋愛の話をすると互いが異性だと認めざるを得ないし、自分の恋愛話や価値観を、その対象である人の目の前でなんて出来なかったから。恋とか男女だとかナシにして軽くずっと付き合ってたくて、でもそれって、逃げでもあって。
うん、逃げてたんだ。この人の中に一歩、踏み込むことが出来なくて、改めて自分を見てもらうことが怖くて、だからいつも何気ないことばかり。ただごはんを食べたりみんなの中で一緒にいたりたまに遊んだり、心の中じゃ、まだ、と、もしかして、を繰り返してたクセに。
私があんたに何も言えないのと同じように、あんたも私に何も言えないの?
だったら、いいのに。
そんな距離での恋愛には、限界があるじゃない。
この世には時間というものがあるじゃない。
それは絶対に止まらないじゃない。
何も知らない初心な子供が恋を知っていくように。
「・・・お前は?」
何気ないように、さりげないように、振り向かない背中が言った。
あなたは一歩、踏み出したつもりなのかな。
だったらいいのに。
返答が来なくて振り返る三上のマフラーが舞う。その顔は平然としてて、普段どおりで、その顔もほんとは、心の奥じゃ、胸をならしてるの?
「三上」
「ん」
「・・さよならって言って」
「は?」
冷えた耳は音をも遠ざけて、
聞こえない振り。
「あたし、結婚するかも」
「・・・誰と」
「いま付き合ってる人」
バカみたい。自分でも目の前の人がこの世で一番好きだと判っていて、私には付き合ってる人がいて、その人も本当に好きなんだけど、私を安らげて楽しませて愛してくれる大事な人だと思っているけど、私はいつまでも頭の中から、追い出せない、まま
7年
「ね、さよならって言ってよ」
「・・・」
「おめでとうとかいらないからさ」
止めて欲しいわけでも、今更気づいて欲しいわけでも、ない。
私はただこの思いに区切りを付けたくて、終りにしたくて、結末を迎えたくて。
恋に始まりはないというけど、この思いは確実に生まれ、育ち、いつまでも消えずに居座って、苦しかったり悲しかったり幸せだったり、増えたり減ったりしながらそれでも居続けて。
あなたが愛したサッカーを愛した。
あなたが愛したコーヒーを愛した。
あなたが愛したこの道を愛した。
あなたを愛した。
「・・・いきなりこんなとこ行こうって言うからには、そんなことだろうとは思ったけどな」
「・・・」
「それもな」
三上はふいと私のポケットに入れた手を顎でさした。
私はそっとポケットから左手を出して、薬指に絡んだ冷たさを感じた。
それから三上は私にそっぽ向いたまま黙って、しばらく黙って。
私も必死に口を閉じて、何もでないように息を止めて。
風が強く吹いて、空気が冷めて、道が乾いて、木々が揺れて。
「・・・」
言って。私にあなたから、さよなら。
私はそれに泣いても、ちゃんと笑うから。
ざり、と三上は地面を踏んで、私に向く。まさらに落ちる前髪の下から覗く目から私は耐えられずに目を離して、ごくりと息を飲み込んだ。一歩、一歩、近づいてくる足音に堪らず目を閉じて、今まで無いほど傍に寄る三上に、今までの私たちでは居てはいけない位置の三上に、堪えきれずに息は溢れて、冷たい頬に一粒、落ちた。
三上の匂い。大好きだった。この空気が、大好きだった。
目も、肌の色も、鼻筋も、髪質も、ぜんぶ
厭きるほどに、飽き足りないほどに、愛おしく
「・・・」
そ、と私の冷たい指先に同じように熱を持たない指先が触れじわり温度が混ざる。三上の手に触れることなんて数える程度だった。意図的に触れられることなんて一度もなかった。三上の冷たい指は私の柔らかい指を囲む硬いリングに触れて、三上はもう片方の手で私の頬に手を当て、自分のほうへと向けられた目からまた涙は落ちて。手は震え。
三上は何も言わない。さよならもくれない。
だって私たち、ずっとさよならしなくていい位置にいた。なのに、
「ごめん」
ごめんね、
「たぶん、ずっとすきだった・・・」
まっすぐ向かえなくて。まっすぐ想えなくて。
でもすきで、すきで、すきで。触れてもいい位置にいけることを願ってた。
「取るぞ」
冷たい指で。冷めたリングを。
冷たい指から。冷えた地面へ。
ころん、
「三上、・・・」
「謝んなよ」
慣れない腕に寄せられて触れた三上の温度は、この季節に寄り添わずに温かく、乾いた空気は全てを無音にさせ、耳の後ろで僅かに動いた三上の口が小さな小さな声を生んだ。
ごめん
バツの悪そうな篭った声は、また一度強まる腕に免じて、聞こえない振りをした。
たぶん、ずっと好きだった、のは、
ふたり。
クリスマス企画2007作品