たとえば朝一番におはようと言ったりだとか、いつも笑顔でうなずくだとか、そっと腕に触れてみるだとか、悩みを打ち明けるとか、頼るだとか。そういうことがすんなりと出来ることは女の子としてかわいいんだろうと思うのだけど、じゃあそれが出来るのかっていうと、私には出来なかったんだ。
人に頼ることを覚えて何も出来ない人間にはなりたくなかった。泣くことを覚えて弱さを緩和したくもなかった。愛想を振りまいて安い女にもなりたくなかった。たとえそれでいくつかの幸せを逃したところで、私は私を誇ってみせると思っていた。今でも思っている。
「はぁ?一緒に住むってどこで。大学は?」
「私は大学絶対行きたいんだけど、でも卒業したら一緒に住みたいって。一緒に住まないんだったら別れるって」
「はあ?意味がわかんないんだけど。なんでいきなり一緒に住みたいになるの?そしてなんで出来ないなら別れるになるの?」
「わかんないよー。もうどーしたらいいの?別れたくないしさぁ」
「さっさと別れろ。ふっちまえそんなヤツ」
「えー・・・」
12月の体育館は下から冷気がこみ上げてくる。そんな冷たい床にべちゃりと座り込んで、ボールを抱きかかえてユリはうずくまるように小さくなった。前々からユリの彼氏は気に入らなかった。他校なんだけど、まず見た目からしてユリに合わなくて、でもユリはそいつの言うまま髪を染めたり化粧をしたり。部活をサボることもしばしば、それが監督にバレてメンバーから外されたこともあった。ユリがその彼氏と付き合ってかわいくなったのは認めるけど、それ以上に失ったものもあると私は思う。
「えーでも一緒に住んだらずっと一緒にいれるし、楽しいじゃん?」
「私はヤダなぁ、一緒に住むなんて絶対嫌なトコとか見ちゃうし」
部活前で、体育館に入ってくる部員たちはすぐ入り口前のゴール下にいる私とユリの周りに自然と集まって、私たちの会話に混ざってそれぞれに言いたいことを言い出す。もう相談なのか慰めなのか分からない。ユリは依然、ボールを抱きかかえてうな垂れたままだ。
「うぃーす」
「おまえらジャマ。入り口でたまるな」
「うっさいなぁ、向こうから入ればいいでしょー?」
入り口前でたむろう女子部員たちの後ろから越野と仙道がドアを開けて入ってきた。体育館の半面、奥側には男子のバスケ部員たちが集まり出していて、3年生が抜けて間もないけど、男子は少しも気が緩むことなく変わらず激しい練習をしてる。でもキャプテンになった仙道は、その責任も重さもさして感じてなさそうに、今までどおりあくびをしながら笑っていた。
「どーしたユリ、何泣いてんの」
「ユリは今彼氏と別れるか別れないかの瀬戸際なんだってー」
「なになに、どーゆーこと?」
みんなの中心でうな垂れるユリを見て越野が首を突っ込むと、みんな楽しそうにさっきまでの話題を始めから話し出した。こんなの、私だったら死んでも嫌だ。なんで自分の恋愛話を関係ないヤツにまで知られて平気なのか。ユリは恋に悩むかわいい女の子の声でどうしようーと嘆いて、越野は女子たちに「男の意見」を求められている。
私は今まで真剣に話を聞いていた自分がなんだかバカらしくなって、話から外れボールをゴールに投げた。手当たり次第に悩んでいる姿を曝け出して慰められたいだけなら私が聞いてやる必要なんかなかったんだ。そういう人の恋愛ネタに飛びつく人間なんていくらでもいる。女子部員然り。バカ越野然り。
そう、多少イラついてるせいか、ボールはあんな近くのゴールネットすら揺らさずに落ちて、はねて大きな音をたてた。ボールがゴールを掠めもせずに落ちると存外苛立ちは募るもの。わざとらしく苛立ちを含んだため息をついて腰に手を当てると、そのボールをとんと弾ませて、誰かがボールを手に取った。
「女子は練習いつまであんの?」
「今日が今年最後」
「お、いーなぁ。俺らも明日くらい休みになればな」
「クリスマス?でも男子は今年もギリまでやるんでしょ?」
「だろーね」
まだ練習の始まらない静かで寒い体育館にボールの音はよく響く。どんどんとゆっくりボールを弾ませて、仙道はひょいと片手で投げた。ジャージと上着に包まれた普遍的な腕の下にどんな力とボール慣れした筋肉が詰まっているのか、ボールは当たり前のように軽々しく輪をくぐってぱさりとネットを揺らした。それがあまりに静かで綺麗だったから、私はまた小さくイラッときたのだけど。
「なんかイラついてる?」
「べつに」
明らかに不機嫌な声で答える私も素直なのか素直じゃないのか。
でもボールと遊ぶ仙道が、怒っちゃボールは言うこと聞いてくれないよと歌うように言うから、私の頭の中あったものや胸の中に詰まっていたものは軽くさっと流れていって、かき消された。
ぽんと仙道から投げられたボールは、なんだか、仙道と遊んでもらってご機嫌なように見えた。そのボールの機嫌をそこねないように、ゆっくりボールをついて両手で投げると、ボールは仙道のそれのように綺麗ではないけど、ゴールをくぐってぼとりと落ちた。
私も単純だ。ボールがあの輪をくぐれば途端に機嫌は直ってしまうから。
・・・だから、仙道は好きなんだ。仙道は誰よりも綺麗にゴールを決めるから、私はそれを見るたびどんな重いものを抱えていたってすっと流されるように楽になる。いつも飄々と軽々しくバスケをする仙道に、多少の嫉妬はあれど、尊敬や憧れのほうがずっと多いんだ。同じ年のヤツ相手に悔しいけれど。
「ー、あたしどーしたらいー?」
また一度ゴールに向かって腕を上げたとき、後ろからユリが抱きついてきてボールは私の手から毀れていった。あんなたくさんの人に囲まれ(参考になるやらならないやらな)意見を貰ってもまだ足りないか。きっとユリはどれだけ意見を聞いたところで満足なんてしないんだろう。答えなんて一生出ない。私の気分を浄化する唯一の手段を邪魔されて、私はまたどうしようもなく心の中を淀ませるんだ。
「ねぇー」
「だから知らないって。好きなら一緒に住めば!嫌なら別れれば!」
「だからどっちも出来ないから」
「大体なんで2択なの?なんでそこに相手の意見しかないの。あんたも相手も立場は同じじゃん、対等じゃん。向こうが出した選択肢から選ばなきゃいけない理由がどこにあんの?人に人生決められるなんてバカみたい」
・・・少し、気分を隠しもせずに曝け出しすぎたかもしれない。私の声は高く緩やかにカーブした体育館の天井に当たって跳ね返ってきた。ユリは初めて私の声を聞いたかのように大きな目を私に向けて、言葉も無く見つめている。私はすぐにしまった、と思ったのだけど、私が次の言葉を発するより早くその空気を打ち破ったのは、仙道の大きな笑い声だった。
「さーすがちゃん、カッコいーなー」
仙道はそう言いながら、しつこく笑い続けた。
「俺もそー思うよユリちゃん。言いたいこといってやればいいじゃん、彼氏だろ?」
ユリは私を掴んだまま仙道を見て、大きくしてた目を少しずつ元に戻して、そうか、と呟いた。そっか、そうだよね、なんでそのふたつしか考えなかったんだろう。私も言いたいこと言えばいいんだ。と、今更ながら目が覚めたように私たちの言葉を飲み込んで理解した。
その後すぐ男子の練習が始まって、仙道と越野は急いで反対側へと走っていった。私たちも練習が始まって、体育館の中はボールの弾む音と走りこむ音、掛け声、バッシュのしなる音が響いて、寒かった温度を少しずつ上げていった。
男子の練習は傍で見ているとその熱気と意気込みに蹴倒されそうになる。インターハイを逃しただけに、監督の怒声も部員たちの汗の量も夏よりさらに増えた気がする。私たちだってそれなりの練習量はあるのにそれもまったく敵わないくらい。とても同じ競技だと思えないくらい。
日は暮れて、気温がぐっと下がる。女子は練習を終えて、いつも通り体育館を全面男子に譲らなくてはいけない。女子が片付け掃除をしている間、男子は少しの休憩に入って、それでようやく半分折り返すところ。まったく、敵わないなぁとため息ばかりが出る。
ユリは彼氏と会うんだと急いで着替え走り出ていった。他の子たちもだんだんと体育館を後にしていって、最後女子更衣室の鍵を閉めて、私も体育館を出ていく。一歩外に出た瞬間、全身が痺れるほど冷たい風が襲ってきた。空は真っ暗で何も見えなくて、口から白く息が毀れるばかりで寒さはコートの外から容赦なく染み込んでくる。
「ヤベーよ、寒くねーよ」
「はは、湯気出てるよ」
そんな話し声がして振り返ると、通り過ぎた体育館の壁から四角く中の光が漏れていて、低い位置にある窓が開いているのを見つけた。あの声は越野と仙道だとわかって、見えているシャツと腕でそれを確信にした。こんな冷たい冬の風も、彼らにとっては夏の扇風機のようになってしまうのか。
「ユリ別れるかなー、別れねーだろーなぁ」
「別れないだろーな。あれは悩んでることを快感に思ってるタイプだ」
「うわ、Mだなー」
「気持ちわかるだろ?」
「どーゆー意味だよ」
「M仲間」
「うっせ」
通り過ぎる間ふたりの会話が耳に入って、その会話があまりにバカっぽかったから思わず笑ってしまった。でも不意にとはいえ人の会話を聞くなんて最低だから、そのまま通り過ぎようとした。
「しかしはきっついよなー。てゆーか女王様?人に人生決められるなんてバカみたい!だぜ?」
「M心をくすぐられる?」
「だからMネタから離れろ」
軽口とはいえ、自分の名前が聞こえてきたら当たり前に聞いてしまう。
さっきのアレは自分でもちょっと恥ずかしかったんだ。さっさと忘れて欲しいのに。
「まぁは、言い方きついだけで言ってる事間違ってないからな。聞いててすっきりするよ」
「お、さてはお前もMだな。隠れMめ」
「はは、そーかも。のきつさはちょっとクセになる」
「うわヤベーよコイツ、すでに病んでる!」
「はっきりしてるしまっすぐだしシンプルだし、のそーゆーとこが好き」
「お前ほんと好きな、」
びたりと、凍りつくように足が止まったのは、寒さのせいじゃない。耳に入って頭で理解したのに、心が信じなくて、思わず通り過ぎたそこを振り返った。
だって、あの仙道だ。この学校で知らない人間はまずいない仙道だ。人あたりよくてやさしく笑うから人気だってある。先輩にだって後輩にだって他校にだってファンはいる。そんな、身近なスターと言ってもおかしくないような、あの仙道だ。
そういえば前に女子部でもめ事が起きたときも、馬鹿らしくて参加しなかった私を仙道はカッコいいといったことがあった。個人のいがみ合いが部全体を巻き込む騒動になって、でもそんなの私はくだらないと思ったから、こんな状態が続くならやめるとみんなに言ったんだ。だって私たちは遊びに来てるんじゃない。友達を作るためにバスケをしてるわけじゃない。どうして毎日あんなすごい練習をこなす男子を隣に見ていて、そんな小さな諍いでもめることが出来るんだと、自分たちがくだらなすぎて、情けなくてしょうがなかった。
それを仙道は、かっこいいといったんだ。
「でもは男なんていらねーみたいな、ひとりでも立派に生きていけそーなタイプじゃん」
「そーなんだよな。何か手伝おうかとか言っても毎回断られるし」
「だろ?女はやっぱちょっとくらいか弱いとこがあったほーがかわいーよ」
ぴゅうと吹き込む風も忘れて、立ち尽くしてしまっていた。
私が今まで目指して、確立してきたもの。
そりゃ自分が出来ないことは当たり前に人に頼るけど、自分が出来ることまで頼ったらそれはただの甘えじゃないか。弱くはなりたくない。甘えた人間にはなりたくない。誰がいなくてもちゃんと生きていける人でありたい。そのためには何でも自分で出来なきゃいけないし、自分に信じるものがなくちゃいけないはずだ。
・・・そんな人になりたくて、強くありたくて、そうあろうと、私はしていた。
誰かにはっきりしてるとか強いねとか頼りにしてるとか言われると、自分が目指したものに近づけた気がして喜んで、・・・でもそうしてふと振り返ってみると、じゃあ逆に、私がどうしても頼りたいとき、誰に、どう頼ればいいんだろうと、居場所を見失うことがあって。
強いとか、かっこいいとか、自分が目指してきたものなはずなのに、そう思われれば思われるほど、私はそうなければいけないんだと、身動きが取れなくなる。
居場所がなくなる。
人にそう思われているからこそ、私は、私をやめられない。
「前に女子部がもめてたときさ、あいつ孤立してでも混ざんなかったんだよ」
「ああ、あの時?」
「バスケやめるとまで言い出して。そうやって、友達なくしても、好きなことやめてでも、自分がなりたくない人間にはなりたくないんだよ、意地でも、あいつは」
「意地で突っ走って損するタイプだなー。まぁあの時はお前が女子全部に話つけに回ったから丸く収まったけど。ゴクローだったよなお前も」
「・・・」
・・・なんだ、いまの。
仙道が、全員に話して回った?何の話だ。
「の居場所だからさ、ここは。あいつゴールした時が一番かわいー顔するんだよ。あの顔が一番好きだな。だから俺練習でも試合でも死んでもシュート外さないし」
「っはは、そんなゴール秘話があったとは」
「のあの強がるとこがいーよな。でも強く出来てないとこがまたかわいい。普段突っ張ってるくせに、でもしっかり見えないとこでヘコんだりしてんだもん、ずるいよあれ」
「もーどんだけが好きなんだよお前」
「どんだけって、死ぬほど?」
・・・もう、私、どうしたらいい。
この、詰まって張り裂けそうな胸の奥を、冬の風にさらされても温度が上がり続ける体の中を、息も出来ないほど目にこみ上げてくるものを、どれだけの力で抑えればいい?
私よりずっと遠い先を見てるはずの人が、高い場所に居るはずの彼が、どうしてこんな小さなところでもがいてるだけの私のことまで目に入って、それで尚、救い出そうとする。
どうしてこの人は、私が目指すものを私より理解している。
「が何にもがんばんなくていい位置にいきたいなぁ」
私は真っ暗な体育館横の道でひとり、立ち尽くして必死で時間が経つのを堪えるように待っていた。早く、なんとかここから動き出さなくては。そう、なんとか息をして、なんとか涙を止めて、あの人に気づかれてしまわないうちに。
「じゃー恋する仙道君に、越野サンタからクリスマスプレゼントを」
「なに?」
「さっきユリから貰ったの携帯番号〜」
「うっそ」
なんとか、この携帯電話が音を鳴らさないうちに。
なんとか、この胸の音が届いてしまわないうちに。
強くも弱くも、偽りも真実も、夢も現実も全部抱きしめて
「もう好きすぎて一言目で言っちゃうかもしんない」
「すきだー!って?はは、いーじゃん言っちゃえば」
まっすぐあなたの前に立てる時まで、私はまだこの涙を零さずにいる。
クリスマス企画2007