星舟からのディスカバリー




 単純に見た目が好みだったとは何かが違う。
 欲に言う”ひとめぼれ”ともどこか違う気がする。
 確かにそれは瞬間ではあったが、打たれた球を打ち返す時のような直感とはまた違い、それはそう……確信と言うべき事象だった。まさに、球を打つよりも前に対戦相手とテーブルを挟んで相対した時点で一瞬にして見える勝利のビジョン。それにほど近い感覚だった。

「おいおい、また来たのかい風間」
「こんにちは田村さん。お邪魔します」

 卓球教室「タムラ」の戸を開けると、中で練習していた子どもたちは風間の姿を目にして球を打つことを忘れ入口まで駆け寄り集まった。しかしタムラの主人であるおばばは短い子どもたちの集中力を卓球台へ押し戻し、くわえていたタバコを灰皿に押しつけ消した。

「お前さんも暇じゃねぇだろ。早いとこ代表復帰しねぇと後がないってのに」
「ええ。でも練習は終えてきましたし、帰ってもまだやりますから」
「練習の合間にちょっと来るような距離でもねぇだろ」
「その距離を超えてでも来る価値はあると思っていますよ」

 イスから立ち上がり腰をトントン後ろ手で叩くおばばは、もっと言いたい口をすぼめて並ぶ卓球台の方へと歩いた。そうじゃない、持ち方はこうだ。こっちに飛んできたらこう打つんだ。と拙く打つ子どもたちの手を取りながら指導しひとりひとりを見て回る。

「せっかく来たんならついでにガキどもに指導してっとくれよ。スマイルのヤツが来なくなっちまったからね」
「教育実習でしたね、月本の先生姿も見てみたいものだ」

 ついこの間のことのように感じるインターハイはもう5年も前のことで、あの頃お互い必死にこの小さな白球を打ち合い頂上を目指していた男たちは、今ではそれぞれ道を歩きそれぞれに新たな肩書を背負って生きている。ひとりは本場ドイツへと渡り一部リーグで活躍する卓球選手となり、ひとりは子どもたちに卓球を教えながら教師を目指して勉学に励み、ひとりは今秋結婚を決め……。

 しかし当の自分はと言えば、日々のほとんどを卓球に捧げながらも世界選手権の代表メンバーから外れてしまう境地に立たされている。勝てば持ち上げ負ければ引退かと叩かれていた卓球雑誌にすらほんの一行「風間、代表外れる」と小さく乗るだけとなってしまった始末。

 焦りや口惜しさは消えることはない。だけどこのままで終わってたまるかという誇りも十分に持っている。必ずこの右腕一本で返り咲き、願わくばもう一度星野と。あの時、周りの人も音も世界も消え失せ、自分と相手とテーブルと白球だけが存在していた夢のような世界に、もう一度。そのためなら毎日のすべての時間を卓球に消費し、卓球のことだけを考え、球を打つことが生活の一部であるように生きていくことは苦ではないと、この闘いが終わる日まではそれがずっと続くのだと子どものころから覚悟してきた。

 プロになり、勝つことが宿命であったことはより現実になって目の前に立ちはだかる。
 称賛の苦痛。背負うものの重圧。孤立と苦悩……。

「こんにちはー」
「!」
「やれやれ、来ちまったかい」

 ただそれだけだった。毎日がただただ、卓球のことばかり。
 だから、これは、奇跡にほど近いのだと風間は思う。

「やぁ、こんにちはさん」
「あ……風間さん、こんにちは」

 明るくタムラに入ってきた女が場内に足を踏み入れるなり入口に立っていた大きな男に声をかけられ一瞬にして表情を止めたことを、おばばは見逃さなかった。明るく入ってきたからには止まったといえどその表情は笑顔。ただその笑顔はまさにピキッと凍りついたかのような、不自然に模られた笑顔。

「ほら遥、姉ちゃんが来たよ」
「まだ待ってて姉ちゃん!次の1ゲームで終わるから!」
「はい、どうぞ」

 一番奥の卓球台で、まだテーブルからやっと顔が出るくらいの背丈しかない子どもたちの中からひとりの男の子がラケットを持つ手を伸ばし自分の居場所をアピールしている。そのラケットに手を振り返すは、再び始まった奥のテーブルの卓球を見ながら、チラリと隣の男に目線を投げかけた。

「学校のテストは終わったんですか?」
「はい、結果はまだですけど、出来る限りのことは出来たかと……」
「良い答えだ。きっといい結果が出ますよ」
「はぁ……ありがとうございます」

 拙い子供たちの卓球を背景にニコリと高い位置から注がれる風間の笑みに、も同じような笑みを返すもそのぎこちなさは遠くから見るおばばの目にも明らか。まさかあの卓球の権化のような風間が、まさか極々たまにしか訪れないこのタムラで、まさかまさかこんな満面の笑みを浮かべるほどの恋に落ちてしまうとは。どれだけ長い時間を生きてこようと、人生の突拍子のなさにはいくつになっても驚かされるものだとおばばはまたヤレヤレとこぼし腰を叩いた。

さん、考えてくださいましたか」
「えっ?ええと……?」
「先日、私と交際していただきたいと申し込んだ件です」
「はぁ……、でもそれは、言っていただいた時にお断りしたと、思うんですけど……」
「ええ聞きました。だけど自分はその理由については不十分と感じたので再度重ねて申し込みました」
「あ、ハイ、そうでした……」

 カコンカコンと軽い球が四角いテーブルの上を右往左往する。
 その音は雨音のように乱れながらもかわいらしいリズムを奏でている。
 その音に混ざって聞こえない程度の音量しかないの声と、選手宣誓のように胸を張って発される風間の声はまるで電話の会話ようにどこか一方的。

 ごく普通の大学生のにとって風間の口調や応対、声の音量までがこれまでに出会ったことのない異色さを放っているように見え、最初はただ面白いと感じた。そうでなくともプロのスポーツ選手であり、卓球を習い始めたばかりの幼い弟の憧れの対象でもある風間は自身も興味を持つ人物ではあったのだ。けど、は風間に初めて会った時の感動を今では思い出せないでいる。それよりも先行して思い返してしまう出来事があったから。

 あの日もは大学の帰りに、弟が週に2回通っている卓球教室の迎えにタムラを訪れた。それはもう半年以上も続いていることであり、卓球に夢中になる弟も、初めて見る卓球場という空間もその競技もただ面白いと感じ、何も苦痛ではなかった。タムラにはいつも、子どもたちにおばばと呼ばれる卓球場の女主人と、スマイルと呼ばれるコーチらしき男がいた。そして半月ほど前、いつもと同じように迎えに訪れたタムラにいたのがこの風間だった。

 子どもたちが奪い合うように教えを乞うその人は、普段プロの卓球など見ないには知らない人も同然だったけど、日本を代表するほどのプロの卓球選手と聞き単純に出会えたことを喜んだ。子どもたちに手を引っ張られながらひとりひとりにラケットの持ち方、球の打ち方を教えていたその人は、スポーツ選手らしい体格、ひとつの競技を極めようとする風格、卓球というスポーツの楽しさを伝えようとする優しさ、そのどれもが洗練されたもののようで美しくすら感じた。

 けどその印象も、今ではどこへやら。
 あの時、ラケットを振る子どもたちからふとこちらに気づき目線を寄こした風間とバチリと目が合い、戸惑いながらも軽く会釈をした。けどを見つめる風間はほのかに携えていた笑みを少しずつ落としていって、ただただの瞳を見続けた。厳しくすら見えるその目線に見つめられ、は当然焦りを感じた。自分のうしろに何かいるのかと振り返ってまでみせた。けどそこには自分以外に何もない。風間はただただを見つめ、静かに子どもたちの中から歩き出しまっすぐの元へ歩み寄り。

『あなたは?』
『え?あ、遥の姉です、はじめまして……』
『名前を聞いてもよろしいですか』
『あ、です』
さん……』

 突然の風間の奇行に当然おばばもスマイルも、周囲の子どもたちも何ごとかとその二人に目をやった。も同じように風間を見上げていた。ただ風間だけが日没や月の満ち欠けのように極々当然に。

『あなたに交際を申し込みたい』
『……、……、え?』
『私は風間竜一、プロで卓球をやってます。よろしく』
『は?』

 ぽかんと目を見開いたのはだけでなく、タムラにいる全員。
 ただひとり風間だけが高揚した表情で、に手を差し出した。

「交際している彼とは、今でも?」
「それは、もちろん……」
「つまり自分はまださんの彼より勝るものがないということか」
「いやぁ……、勝るとか、劣るとかではなくてですね……、風間さんはとても凄い人だと思いますし、立派な人だとも思いますし……、けど、だからってすぐに私が彼と別れて……ということにはならないと思うのですけども……」
「そうですね。彼にも悪い」
「はい、ですから、」
「けどだからと言って自分も諦めがつかない。もちろん考えましたよ、あなたにも彼にも不躾な真似をしていることもちゃんと理解している。それでも自分はこのままあなたと離れていいと思わないのです」
「だから、どうして私が?風間さんならきっとモテるだろうし、もっと素敵な人が似合うと思いますし、私なんてただの学生ですし、風間さんにそこまで思ってもらう理由が分からないです」
「理由?」

 どこかみんなこちらの様子を気にしているような目を見せつつ、カコンカコンと音は続いているからには一応の練習は続いている。はさらに声を小さく、風間とも適度に距離を取り、その隣で風間は堂々とした立ち姿でまっすぐ球を打ち合う子どもたちのほうを向いている。

「理由を聞かれると自分も困ってしまう。申し訳ないが、熟考した結果でも何らかの経緯を経てのことでもなかった」
「……やっぱりからかってます?私のこと」
「まさか。ただあなたに初めて会った時に確信したんですよ」
「確信……?」

 聞き返すに振り返り、また高い位置から視線を注ぐ。
 その目はいつの眼とも違う。風間のすべてはいつでも卓球に続いているから。
 ただこの間だけ。勝敗もしがらみもない、卓球の世界から離脱する淡いきらめき。

「自分はこの人と結婚するだろうと感じた」
「……結婚!?」

 思わずが大きく発した声におばばはギョッと目を丸くし、もはやラケットを持つ手を誰も振っていない子どもたちは口々にが叫んだ言葉を囁き合った。結婚、結婚だって、風間選手が?、遥のお姉ちゃんと?。ピタリと止まった球を打つ音を「ほら練習練習」と風間は声をかけ再開させ、子どもたちはいそいそと声を出し球を打ちだした。

「あの、ほんとに私で遊んでますよね、冗談ですよね」
「自分は人を玩具にする人間でも冗談が言える人間でもないよ」
「だって、おかしいですよそんなの、どうしてそんなこと急に思えるんです?普通、そんな」
「おかしいですか。自分でも可笑しいと思います。自分がまさかこんなことを言うとは、自分の周りの誰もがあり得ないと言うだろう。けど今ではよく考えた結果です。あなたのことも、自分の今後のことも考えた。自分はプロの卓球選手で今は代表にも落ち乗っているとは言えないのが現状で、あなたにはすでに交際相手がいることを考えても現実的に今すぐにということは無理だろう。後々といえど、そうなれば自分だけじゃなくあなたも必ず私の世界に巻き込むことになる」
「あの、話がすでに、結婚の方向へ……」
「それでも自分はもうあなただと決めた」

 カッ

「あなたを幸せにできるかは今後の自分次第だが、自分が幸福になるだろうことは簡単に想像がつく」

 コッ……、カッ、コッ……

「試合前に自分は自分のいいイメージしか思い描かない。少しでも悪いイメージが蘇ればそれは試合中に現実となって襲ってくるからだ。弱い心はすぐに駄目になる。許されない敗北は死をも意味する」

 カッ、コッ……、カッ、

「だが仮に負のイメージに苛まれても、そこから脱することができる瞬間がある。それは、救いだ」
「救い……?」
「自分の中の救い。自分ではない、別の何かが囁くんだよ。私には今までそれがなかった」
「はぁ……」

 風間の言葉はにはよく理解できない。究極の世界を生きる人の精神を、理解はできても共有など出来るはずがない。

「自分にとってのそれが君であればと私は思う」
「……」

 ただ、物事を極めんとする人間の眼。勝負の世界に住む者の信念。
 それがそこにあることは、分かった。

「だから私は何度でも言おう。私を選んでくれ」
「……、えっと……、……」
「駄目か。ではまた日を改めて申し込みに来る。田村さん!お騒がせしました、帰ります」
「ああ、まったくだよ」
「すみませんでした、それでは!」
「……」

 それはまさに嵐が去るように。あたり一面吹き荒らして一掃し、呆気だけが残る。
 に「ではまた」と言い残しタムラを出ていく風間は、変わらず堂々とした立ち姿。

「風間さん!」

 2階の卓球上から階段を下り店先を出ようとしたところで、風間が振り返る。

「やっぱり私は、あなたに応えられません、彼とだってそんな、急に別れるなんて」

 日の暮れかけた空は雲が多く、茜も雲の影に隠れてしまう。
 じきに梅雨が来る、6月の空。

「最善の方法を取ってくれて構わないが、私もそこまで気が長くない。君が許すなら私が君を強引に奪おう」
「……そんなこと……」
「私は鬼にも蛇にもなろう。君次第だ」

 そんな頼りない空に比べ、大地のようにずっしりと重い存在を放つ人。
 どれだけの鍛錬と苦悩と重圧を飲み込めばこれほどまでの確固たる姿勢が備えつくのか。
 考えを及ばす暇もなく、風間はしっかりとした歩みで去っていった。

 風間にあそこまで言わせるたぁ、女冥利に尽きるねぇ。
 いつの間にか背にいたおばばがプカリとタバコを燻らせ、その前では意味も分からず泣きそうになった。






星舟からのディスカバリー




(未来を怖いと初めて思った)


クリスマス企画2011