春追い人




 何の予定もない休日くらい思いの限り寝てやろうと決め込んでいたんだけど、日頃の早起きが祟っていつも通り早くに目が覚めてしまった、土曜日の朝。

「おそろしくいい天気だ……」

 ベッドの隣の窓の、カーテンの隙間からやけに明るい日差しが射しこんでいて、ピラッとめくってみるとあまりの眩しさに目を閉じた。陽の光の白さと、その後覗いた空の青。少しだけ散らばっている霞んだ雲と網戸を伝ってる細かな虫は春を感じさせる、まさに小春日和。

 着替えて部屋を出て階段を下り、顔を洗ってリビングに入るとお母さんがキッチンで「めずらしい、もう起きたの」と振り向いた。「今日なんか予定あるの?」首を振りながらテーブルにうなだれ座ると、こんな清々しい休日に何の予定もない、いい年した娘に母の呆れ顔も止まらない。すみませんね、春になっても色気のない娘で。

「公園の桜もう咲いてたよ。見てきたら?」
「ほんと? 見たいなぁ。でもなー、土曜日の公園にひとりで桜ってのも……」
「腰が重いわねぇ。昔はひとりでも見に行ってたのに」
「もうそんな若くないんですよ、お宅の娘さんは」

 そりゃあ桜は大好きだから見に行きたい気持ちは多分にある。
 春といえばお花見。誰かが誘ってくれればふたつ返事で乗り出すくらいの意欲もある。
 だけど、学生時代ならポッと思いついた花見に付き合ってくれる友だちはいれど、この年になって急に声をかけられる子なんてなかなかいない。

「桜がいっぱい咲いてるけど誰もいないとこないかなぁ」
「なに贅沢言ってるの。そんなとこあったらお母さんが行ってるわよ」
「ですよねー……」

 テレビでは連日、今日の桜状況を伝えてくれている。
 見てください、桜が満開です。この土日が一番の見ごろで、今日も朝早くからお花見の人がこんなに! 今日お休みの方はお弁当を持ってでかけましょう。私も今日はお花見に行こうと思います。……かわいいお天気お姉さんの笑顔が一番眩しく咲いている。春爛漫だ。
 リビングのテーブルに置きっぱなしだった携帯電話でツイッターを開くと、当然のようにお花見ナウな人たちが大勢つぶやいていた。桜の名所と言われるところはおそらく桜以上に人が多いだろう。どこかに人のさほどいない隠れた桜の名所はないものか。

「あ……」

 桜、穴場、など打ち込んで検索してみると、学校に忍び込んでるというつぶやきを見つけた。
 なるほど、確かに学校には桜がたくさんあって、今は春休みだから人もいない。
 私も学生時代は学校ほど花見に適した場所はないと思っていた。
 そうそう、高校の入学式の日も、満開の桜に見とれてボーっと上を見ながら歩いていたら、桜の木の幹につまづいて豪快に転んでしまったことがあったな。

 あーあー、しゃーない子やな。

「……」

 空の青と花の薄紅の中に、風になびく金色がスッと頭に流れ込んできた。
 こけた恥ずかしさに囚われながら、舞い散る桜の花びらと一緒に上から降ってきた誰かが地面に手をつく私の前に降り立った。白いスニーカーと黒い裾をだんだん見上げると、ぐいと腕を引かれ私の体は浮き上がり、そうして間近で見たのは壮大な薄紅色をバックに目に刺さるほど眩しい、金色だった。

 大丈夫か? あーあ、ヒザ擦りむいてるな。
 声をかけられたけど、いろいろ入り乱れてた私の頭は何ひとつ処理出来ず。
 だって、その人は同じ学校の制服を着ているけど、ものすごいキンパツで。
 しかも桜の木から降ってきた。まさか、不良?
 一瞬のうちにいろんな思案が頭の中を占めて、次第にダラダラと汗をかいた。

 まぁ、すごい桜やもんな、そりゃ見とれもするわ。
 けどそれでこけたらアホやから、気ぃつけや。

 意外にも優しく慣れ親しんだしゃべり方と、その眩しいキンパツにも劣らない笑顔が、何も言い返せない私からあっという間に警戒心や恥ずかしさをかっさらっていった。
 何とも目立つその人は、後々の学校生活でひとつ上の先輩だとすぐに分かったのだけど、その最初の出来事がキッカケで私はずっと「桜の子」と呼ばれ続けた。

 シゲちゃんセンパイに。

「あーあ、シゲちゃんセンパイとだったら今すぐにでもお花見行くのになぁ」
「そんなのお母さんだってすぐ行くわよ」
「……なんでお母さんが行くのよ」

 高校一年生の春。一瞬にして頭に刻み込まれたあの眩しさを、私はいつまでも忘れられずにいる。お母さんにだって毎日嫌というほど話した。学校にすごいキンパツの人がいてね、でもその人すごくサッカーが上手で超人気者なの。プロのサッカー選手になるかもって言われてるんだよ、カッコいいでしょ? 飽きもせずに毎日毎日言い続けたせいで、今じゃお母さんもシゲちゃんセンパイのファンになっている。

「でもこの間の試合には出てなかったねぇ」
「そーだよ、シゲちゃんセンパイが出てたら勝ってたかもしれないのにさ」
「あれだけ動くスポーツだもん、やっぱり若い選手が選ばれるのよね」
「なに言ってんの、シゲちゃんセンパイのほうがうまいもん! シゲちゃんセンパイだってツイッターで”オレならあそこで一点決めてたわ”って言ってたし」
「そういうこと言っちゃうからあの子はすぐ叩かれちゃうのよねぇ」
「それがシゲちゃんセンパイなの! シュート外した人もシゲちゃんセンパイが日本にいたときのチームの後輩だし、激励のつもりで言ってるんだよ。凡人には分からない苦労がたーっくさんあるんだよ、ああいうすごい人にはさ!」

 高校生のときだって一方的に見つめるだけの日々だったけど、それはシゲちゃんセンパイが卒業しても、プロのサッカー選手になっても海外に行ってしまっても変わらず続いた。シゲちゃんセンパイがケガで日本代表から落選してしまった時も、海外で試合に出られない日々が続いていると報道されていた時も、私は変わらず一方的に見つめるだけ。届かない応援をするだけ。

 だってシゲちゃんセンパイは、向こう側の人なんだもん。
 新聞、雑誌、テレビ画面の向こう側。
 そんな人に一度でも笑って話しかけられて、桜の子なんて呼ばれてたことがあるだけで、私には卒業アルバムより色褪せない大事な思い出で、ただひとつの初恋だった。

「……桜が見たい」
「公園行って来ればいいじゃない」
「ヤダあそこ絶対カップル多いもん」
「いつまでもシゲちゃんシゲちゃん言ってないで、一緒に桜見に行く彼氏くらい作んなさいよ」

 出来たらとっくに作ってる!
 画面をスクロールしながら言う私に、お母さんはまた呆れ果てたため息をついた。
 そんなことを叫ぶ娘でごめんよ。私だってあったかい日に一緒に桜を見に行ってくれる人がいればどんなに楽しいかと思うけど、今年も例年通りのひとり身だからしょうがないじゃないか。

 けど、春だし、花の芽や虫たちと同じように私だって気持ちはにょきにょきと土の中から出て来てはいる。毎年あの薄紅を見ると、シゲちゃんセンパイを思い出してどうしようもなく恋をしたくなる。また誰かをものすごく好きになりたいと思うんだ。そのくらいには、心は動いてる。

「ただ、相手がいない……」
「なに?」
「なんでもないー……」

 キッチンから出てきて焼き立てのパンを出してくれたお母さんが私のリアルな呟きを拾う。
 パンを頬張りながらケータイで流れるみんなのつぶやきを見ていると、どっちかにしなさいとお母さんに怒られて、ケータイを手放そうとした。けど、直前でポンと新しいコメントが現れたものだから最後にポンとタッチした。

「……えっ?」

 現れたつぶやきはシゲちゃんセンパイだった。
 たしか同じ海外にいる藤代さんが描いたという、キンパツしか同じじゃないヘタクソな似顔絵アイコンの、シゲちゃんセンパイが、

 ―やっぱ桜は見下ろすに限る!

 というつぶやきに添えられた、桜と木の幹の地面が見えている写真。

? どこいくの、ごはんは?」

 私はすぐさま家を飛び出し、自転車にまたがり一目散に走り出した。
 まさか、シゲちゃんセンパイは今海外にいるはずで、これは他のところで取った写真かも、昔に撮った写真かも、しれないけど……、そんなことの何を考える間もなく私は自転車をこいだ。冷たい向かい風を頬に流しながら、苦しい花粉に耐えながら、部屋着もいいとこな何の飾り気も色気もない服で。
 何本も満開の桜の木を通り過ぎ、人通りの多いのどかな休日の道路を突風の如き速さで駆け抜ける。雲の少ない真っ青な空だけがついてくる。もう今では滅多に通らない道を、3年間駆け抜け続けたこの通学路を。

 すると、これまで心の中にありながら、だんだん薄くなっていたあらゆることが蘇ってきた。
 授業中になびくカーテン。粉となって舞うチョーク。教科書を文字の小ささ。トイレの薄暗さ。廊下の硬さ。音楽室のじゅうたん。階段の手すりの静電気。野球部がボールを打つ音。
 枯れてる季節でも見上げた桜の木。遠くでも見つけられた金色。高い肩の位置。大らかな関西弁。口先に付き出るキャンディの棒。制服の中に隠した同じチョーカー。ボロボロのスリッパ。派手なスニーカーの紐。机の隅に描いた名前。

 私のすべてだった。
 たった二年間。けどどの一瞬一瞬も、今も私の中でもっとも色づいていた。
 シゲちゃんセンパイ。シゲちゃんセンパイ。
 声すらかけられなかった。他の子を押しのけて会いにもいけなかった。泣きじゃくった卒業式。
 私のすべて、毎日がそればかりだった。金色を追いかけ続けた日々。

 学校の門前で自転車を止めて、入ろうとしたけどもちろん開いてなくて、うろうろと迷った挙句ゴメンナサイ! と門を乗り越え中に入った。
 門から昇降口までの一本道の両脇に桜が並ぶ。
 だんだん散っていこうとする桜の木が薄紅のじゅうたんを作っている。
 私はそれを一本一本、木に寄り添い桜を見上げ、あっちに行きこっちに行き。

 シゲちゃんセンパイ。シゲちゃんセンパイ。
 あの頃みたいに何度も呼んだ。

 けど、どの木にもシゲちゃんセンパイはいなかった。
 一本道を二度も往復して全部覗いてみたけど、誰も、何もなかった。

「……あたりまえか」

 家から自転車で爆走して学校に無断侵入して、桜の木を行ったり来たり走り回って。
 背中にものすごく汗を感じた。少し冷たい風に冷やされて寒気がした。指先まで冷たかった。
 ふぅと息をつくと次第に笑いが込み上げてきた。
 そりゃそーだよ、バカだなぁ。
 零しながら笑った。ヤダなぁもう。高校生じゃないんだから。ほんと、バカだなぁ私。

「すごい桜……」

 樹の先まで団子になって咲き誇る桜。
 やっぱり学校は最高の穴場スポット。こんなに満開なのに誰もいない。
 空が高い。青い青い春の空。薄紅の花弁が舞い散って、風に乗って髪にハラリ。

「……」

 ハラリ、ハラリ。薄紅の。
 ポツリ、ポツリ。透明の。

 ヤダな。笑ってるのに泣いてる。今さら、寂しいわけもないのに。
 思い出だから綺麗なのに。届かないから羨望してるのに。

「かえろ」

 並ぶ桜の木の真ん中でしばらく立ちつくし、舞い散る花弁の中で雫を拭い、フと笑ってまわれ右をした。
 火照った頬を冷たい手で冷やしながら、影に映ったボサボサの髪を手ぐしで梳いて、門の自転車まで歩いていった。
 あーひさびさに走った。ひさびさにこんなにドキドキした。
 この数十分の間抜けさにいよいよ本気で笑えてきて、ぶくくっと門に手をついた。

「あー、やっぱ桜の子やん」

「……」

 門に足をかけ乗り越えよう……とした時。風と共に吹き抜けた関西弁。
 門の向こう側を見ると、私の自転車にまたがりこっちを見ている……

「……シゲちゃ……」
「気付いてよかったー。ファンの子か思って逃げるとこやったわ」

 高く昇った太陽にも負けない、眩しい金色。

「オレのツイッター見たん?」
「……はっ、はい」
「あれでオレがここにおるーって気づくん君くらいやで。さすが、長年のファンは違うな」
「え、あ、ファン……?」
「ん? オレがツイッターやりだした時に、いの一番にフォローしてたやろ?」
「えッ? なんで、わたしだって……」
「だってここの桜のアイコンやねんもん。季節関係なく一年中。オレん中で桜といえば君だけやし。まぁもしかしてーってレベルやったけどな」
「……」

 だからって、ただ、それだけで私だと……?
 私がまだ、こんなに年月が経ってもまだ、シゲちゃんセンパイの記憶の中に?

「おっ? おいおい、待て待て、なんで泣くねん!」
「だ、だって、だって……ええー……」
「ちょ、アカンて、涙はアカンて!」
「うああー……」

 まるで子どもみたいに、飾り気も色気もないヘタクソな涙を止める術は何もなくて、いまだに何が起きているのかはっきり分かっていないけど、なんで今ここにシゲちゃんセンパイがいるのかも分からないけど、空に舞い散る薄紅と一緒にポロポロ、ポロポロ。

「あーあ、しゃーない子やな」

 高い空の青が一面に広がっていた。
 その下で飛び散る薄紅と、風になびく細い金。
 門の向こうからこちら側へ伸びた手が、はらはら舞い散る涙を、春風のように拭い去った。





春追い人

クリスマス企画2013