雨、上がる




あ、雨だ。つぶやくと、周りのみんながホントだーと窓の外を見上げた。
窓をポツポツと叩く雫。昔からなんでだか、最初の一滴を見つけるのは私だった。
なぜかそういうささいなものに気づくのが得意らしい、私。

「ヤダなー、カサ持ってないよ」
「私持ってるもんね」
「ウソ、なんで?」
「こないだ雨降ったとき持ってきて、帰りは晴れてたんだよね」
「それ持ってるんじゃなくて忘れてったんじゃん」
「そうともいう」

まだ学校内のほとんどの生徒が気づいていない雨。
そのうちみんなが気付いて騒ぎだし、部活組は休みになると喜び遊びに行く子は髪がまとまらないと文句を言うようになる。私も今日はおそらく部活が休みだろう、遊びに行こうかな。でも雨だしな。

、今日ヒマ?」
「たぶんヒマー」
「ゴーコン行く?藤大生だよー」
「おおー、イケメン?イケメン?」

女子校というと世間からは神聖だとか秘密の花園だとか言われるけど、中を開けば何のその、スカートだろうとお構いなしに足をおっぴらげたりブラジャーつけずに授業を受けたりもする。そのくせ外に出る時はきれいにメイクアップし髪をサラサラにして、私30センチしか足開けませんなんて顔でしゃなりしゃなりと歩く。まぁある意味、秘密多き花たちだ。

私どうして、女子校を選んだんだっけな。普通に共学に行くはずだったのに。
そうでなくても進路を決めるあの頃は、好きな人がいたら同じ学校に行きたいものじゃない。

・・・ああそうだ。女子校に行くことを決めたのは私じゃない。
アイツだ。アイツが男子校なんかに行くことにしたからだ。

「どーすんの、合コン」
「行く行くー、いい加減彼氏できなきゃ冬越えられないよー」
は理想高すぎんのよ、前のけっこーイケメンだったのにさぁ」
「そうかなぁ、フツーだったよ」

夏こそ彼氏が出来るかと思いきや、眩しいビーチに行こうと夜空に花咲く祭りに行こうといい男はちっとも現れなかった。高校生になればチョーイケメンのやさしくて明るくて包容力のある素敵な彼氏ができるはずだったのに。来年は受験だし、今のうちにいい人に巡り合わなければならないのだ。うかうかしていられない。

雨が目立ちだす放課後の教室は、案の定クラスのみんなが窓の外を見て騒ぎだしていた。
みんなキャッキャ楽しそうに、まつげにビッシリマスカラ塗って、髪をサラサラ梳いて。

「ねぇも見てよ!アレ!」
「え、なにを?」
「ホラあそこ!」

私も手鏡を覗いてまつ毛を上げようとすると、ビューラーを持った手をぐいと掴まれ窓際へ引っ張られた。みんな部活が休みになって喜んでるのかと思いきや、どうやら見ていたのは雨雲ではなく、校門だった。雨の中を急ぎ足で帰っていく生徒たちが振り向き見やる、門の傍らに立っている誰か。

あの制服どこのだろ。学ランなんてどこも一緒だしね。
誰待ちかなー、気になるー!
かん高い声でキャッキャ騒ぐ。
女子校の門前に学ラン姿で立つなんて、目立つに決まっている。
・・・なのに校門に立っている誰かは、恥ずかしがる様子もなくまっすぐ立っていた。

「・・・」

落ちてくる雨粒から逃げて走っていく女の子たちの中で、カサを持つ私はゆっくりゆっくり歩いた。
教室を出て廊下を歩き階段を下りてくつを履き替え、一歩、一歩、近づいてくる校門を覗き見て。

ただその校門のそばを通り過ぎる瞬間だけ、早足で歩いた。
カサを前めに深く下げ、ドキドキ低く深く鳴る胸の音を聞かないフリして。
ピシャリと水たまりがくつ下に飛び跳ねた。



そのまま気付かなかったことにして通り過ぎようとしたけど、胸の音以上に低く深い声が私の名を形どり足を止めさせられた。それはいつかの声より若干低く、でも変わらず抑揚のない乾いた音調、的確な発音。

カサを上げ振り向いて見た姿は、遠目でも分かってしまった、月本誠。

「わあ、月本君!ビックリしたぁ、何してんの?」
「気持ち悪いな」
「はっ?」
「”月本君”」
「・・・じゃあ、スマイル?」
「誠でいいじゃない」
「・・・。女子校に何の用?すごい目立ってるよ」
「だろうね。さっきから通り過ぎる人みんなに見られる」

それはそれは、不愉快だっただろうね。人の目に留まるの嫌いだもんね。
カサもささずにここまで来て待ちぼうけていた月本誠は、学ランも黒い髪も白い頬も雨に濡らして、黒ぶちのメガネをごしっとこすった。雨に濡れるなんてさらに不愉快極まりないだろうに。

「用があるのは女子校じゃなくて、にだけど」
「・・・何の用?」
「そんな仏頂面しないでよ」
「あんたにだけは仏頂面とか言われたくない」
「まぁそれもそうだけど」

雨がメガネに当たらないように少しうつむいて、月本誠は歩き出す。
しばらく歩いて、でも私がついてこないから足を止めて振り向いて、ジッと私を見る。
普段あまり人を入れないその視野に入るのも、1年半ぶり。
中学の卒業式以来。

「えーとー、片高だっけ、学校」
「うん」
「あ、あいつも一緒だよね、星野元気?」
「うん」
「ていうかアイツは元気に決まってんよね、相変わらず卓球バカ?」
「うん」
「だろーねー、あんたもまだやってんの?卓球」
「うん」
「へー、高校でまでやってるんだ。部活とかツライでしょ、男子は上下関係とかさ」
「うん」
「イジメられてない?パシリとかされてそー」
「うん」
「そのうんはどっちのうんよ」
「イジメられてない?ってほうにうん」
「・・・へー」

なんで私ばっかりしゃべってるんだろう。訪ねてきたのはこいつのほうなのに。
そんな違和感を抱きつつ、サラサラ降る雨の中を、学ランの背中について歩く。
しかし会話は続かない。ていうか用があるならそっちが話せばいいのに!

「インハイ、優勝した」
「え、インハイって、インターハイ?なにそれすごいじゃん!」
「俺じゃなくてペコが」
「ああ、星野がね。相変わらず星野大好きだね」
「べつに大好きってわけじゃ」
「でも君が唯一まともに話すの星野だけじゃん」
「まぁペコは、ペコだからね」
「はは、あいかわらず」

わっけわかんない。
1年半もの月日が流れても月本誠は月本誠に変わりない。
頑固なまでに彼らしい。その髪型もメガネも歩き方も猫背も。
ちょっと背が伸びたくらい。ちょっと声が低く、顔がシャープに、なったくらい。

あの頃のこの人は、今思えばまるで子供っぽかった。
クラスの誰とも慣れ合わず星野にしか気を許してない感じで、女子なんてこの世に存在してることすら知らないような。毎日時間どおりに学校に来て、授業受けて卓球して帰っていく、一片の乱れもない日常をくり返していたこの人。

「で、何か用なの?」
「うん」

どうして私はあんなに、この人が好きだったのかな。
この世の半分は男の子で、明るくて優しくてカッコいい人なんていっぱいいて。
そんな中でわざわざこんな、小さく密やかに呼吸をしているだけのような、雨の最初の一粒のような、この人を。

「思い出してさ、急に」
「なにを?」
を」
「1年半経った今?」
「忘れてたわけじゃないけど、そういえば会ってないなって」

そういえばだと・・・?
この人相手に”付き合ってる”なんて言葉はひどくそぐわないけど、私はそれなりに彼の中でひとつのスペースを与えられていたはずだ。この人はどう思ってたか知らないけど、私は確かにこの人のとても狭いテリトリーの内側にいた。そりゃああの星野には敵わないけど、隣で笑っていても嫌な顔されずにそばにいたはずで。

帰り道、突然降られたこんな雨の中。
どこかの軒下で、メガネをはずして拭いてたこの人と、キスしたこともあった。
それはまるで、間違ってただ触れただけのような、ものだったけど。
私にとってそれはとても特別なものだった。
彼にとってそれが何だったかは、知らないままに、私たちは会わなくなったけど。

「べつに、そのまま忘れても良かったんじゃないかな。今さらひさしぶりーなんてノリでもないでしょう」
「うん」
「それは、どっちにうん?」
「ひさしぶりーなんてノリじゃないってほうにうん」
「やっぱり君は足りないよね、いろいろ」
「うん。でも、どうしてるかなって思った」
「・・・今さらだね。何かあった?」
「うん」

私の中でこの人がどんな存在だったとしても、彼にとって私は進路を話しあうような、同じ高校を選ぶような仲ではなかったのだと。中学を卒業して高校生活が始まって何日経っても連絡はなく、私はただそれだけの存在だったのだと思い知らされるばかりだった。だからといって自分から会いにいくほどの勇気が、私にはなかったのだけど。

だけど、それも1年半も経てばもう良き思い出だ。
笑い話として合コンでしゃべっちゃうくらい、淡くほろ苦い初恋として。
そんなこともあったよねって、・・・それでいいじゃない。

「インハイ、ペコに負けたんだ」
「いつも星野には負けてたじゃん」
「うん。でも、今までとは違った」

ぽつぽつ雫がカサの表面を叩いて滑る。
目の前の人の黒い髪に乗って、メガネを濡らして、水たまりに落ちて。

「楽しかったなぁ」
「・・・」

笑わない人が、笑う。
雲の合間から差し込んだ光みたいな、神聖さすら感じる微笑。

・・・でもやっぱり私は、星野みたく理解できないよ。
分かってあげられる心の広さも平穏さもない。
いつの間にか、こんな穏やかな笑い方をするようになった、この人を。

「普通、これだけ時間経ってたら、忘れられてるよ」
「うん」
「普通、とっくに他に好きな人だってできてるしさ」
「うん」
「それどころか、付き合ってる人だっているかも」
「うん」
「そしたら、今さら会ったって何しに来たの?って話じゃん。1年半も、今さら」
「ごめん」
「・・・ごめんって・・・」

ああ、もう、どうして。
今さら達者にならないで。こんな日に、現れないでよ。
雨の音と、湿気と、落ちていく雫が、ぜんぶ、あの日と混ざるじゃない。
心まで、戻っていくじゃない。

・・・目の前に垂らしたカサの下から、水たまりを踏む白いスニーカーが見えた。
くいとカサを上げられ、記憶の中の目線より少し高いところから。濡れたメガネの奥から。



まるで帰り道に一緒に見たあの頃の夕日の色。
まるで一緒に食べたアイスの味。
この人が呼ぶ私の名前は、もう遠い昔の落し物。

・・・」

涙が出るほど懐かしい。

悔しいくらい待っていた。

いろいろ足りないこの人を。

いろいろ足りない、私は。





雨、上がる