それはすべてが織りなしていく




 その日は雨でも雪でも雷でもない、晴れとも曇りとも決められない七割晴天な日だった。
 誕生日でもなければクリスマスでも、お盆でもなければお正月でもない。
 日曜日でも祝日でも、大安でも仏滅でもない、本当に本当に何でもない日の朝のこと。

 いつもの平日通り六時に目覚まし時計が鳴り響き、寒さに震える体に上着を羽織り冷え切った部屋に暖房をつけ、冷たい水に発狂しながら顔を洗って、冷蔵庫からたまごとハムとキャベツを取り出し朝食の準備に取り掛かる。六時半に炊けるよう予約した炊飯器が蒸気を出し始め、きのうの残りの味噌汁をあたためフライパンに落とした目玉焼きが白く固まりだすと、キッチンの温度が多少上がったのか体の震えは治まった。

 炊飯器が「あと10分」と炊き上げ時間を予告し始めた頃、そういえばやつが起きてこないなと寝室を覗いたら、誠はとうに起きていたがベッドの上に座ったままボーっとして動きを見せなかった。

「おはよう」
「うん」

 めずらしく寝起きが悪いのか、あぐらをかいたヒザに頬杖ついている誠に声をかけると思ったよりもはっきりとした声が返ってきた。寝ぼけているようでも、まだ眠いわけでもなさそうな、寝ぐせのついたスウェット姿の誠。

「起きてる?」
「うん」
「顔洗いなよ」
「うん」
「今日お弁当の日じゃないよね」
「うん」
「寝ぐせついてるよ」
「うん」
「今日の気温三十度だって」
「うん」

 やっぱり寝ぼけてるのか? どこか一点だけを見つめている誠は頬杖ついたまま空返事をして、でも味噌汁の匂いが漂ってきたから私は急いでキッチンに戻った。煮つまってしまった味噌汁を一口含むとあまりの熱さにギャッと悲鳴を上げて、その勢いで手を滑らせスプーンが宙を舞い床でガシャーン! と大きな音をたてた。こんなことは日常茶飯事で、いつか下の階の人から苦情が来るんじゃないかとヒヤヒヤしている。

 ごはんが炊けると、味噌汁と相まってキッチンにいい匂いが立ち込めた。朝食の香りは温かく清々しく、何でもない日に毎日新鮮な彩りを与えてくれる。目玉焼きは多少焼き過ぎてしまったが、半熟嫌いな誠は許してくれるだろう。テーブルにごはんと味噌汁と目玉焼きが並び、カーテンを開けテレビをつけると部屋はより明るくなって一日を動きだした。

 ところで、誠はいまだに起きてこない。
 まことー、ごはーん! テーブルにつきながら声を張り上げてみたが、グラスにお茶を注いでも箸を持って目玉焼きに醤油をかけても誠は姿を現さない。テレビの左上に常時表示される時刻はいつもならとっくに朝食を食べ始めている時間。あと一時間もしないうちに誠はネクタイを締めて朝の込み合ったバスに乗り込まなければいけないというのに。そういえば今日は燃えるゴミの日だ。こんな忙しい朝にあいつはなにをぐずぐずしているのだ。

「誠ー?」

 仕方なく立ち上がり、再び寝室を覗くと誠はさっきとまったく変わらないポーズのまま。何とも悠長な姿に小さく苛立ちを感じたが、いつも通りの朝にいつも通りの行動を起こさないことに多少の不安も感じ、そばに寄ってベッドのへりに腰掛けてみた。

「どうしたの? 体だるいの?」
「ううん」
「早く着替えないと遅刻するよ。ごはんも、一時間目から体育なんでしょ?」
「うん」
「じゃー早く顔洗っておいでよ。寝ぐせも」

 ざかざかと手ぐしで後頭部の逆立った髪を梳いてやると、誠の真黒な髪の頭はグラグラ揺れる。それでも誠は何度目かも分からない「うん」を繰り返しながらあぐらに頬杖の姿勢を崩さない。

「……。ねぇ、体育ってやっぱり冬でも外でやるの? あの半ソデ半ズボンでさ」
「うん」
「マラソン大会とか嫌だったよねー。体育の時間でさえ走るの嫌なのに休み時間にまで走らされてさ」
「うん」
「でさ、なんでか音楽かけるのね。かかるのって絶対ランナーじゃない?」
「うん」
「あと運動会の時にはアレね。チャンチャーンチャカチャカチャンチャンチャカチャカってやつね。アレって今でもかかると走らなきゃって思っちゃうよね。やっぱり小学校時代のことって体に染みついちゃうのかな、状況反射っていうかさぁ」

 いつの間にか誠の相槌すら待たずにひとりで喋り出した私は、笑いながら誠の肩をドーンと押してしまい、固まってるみたいだった誠の頬杖はようやく解かれ、はっきりとした誠の目が私を捉えた。

「いや、だからそんなこと言ってる場合じゃなくて。早くしなよ、もう七時になっちゃうよ!」

 立ち上がり誠の腕を引っ張ってみたが、大の男の体はそうそう簡単には動かせない。見た目は細いけどこのスウェットの中にはそれ相応の成人男子の筋肉が詰まっているし、大学を卒業して小学校の先生になり一緒に住み始めてから若干肉付きがよくなったような気もする。そりゃあ坂道走り込んだり何万回とラケット振ったりしていたスポーツマン時代とは違ってきて当然だけど、毎日もりもりとごはんを与えすぎだろうか? いやいや、そんなことよりも今は早くこいつを寝室から引っ張り出して朝食を食べさせなければ。きっとごはんも味噌汁も目玉焼きも冷え切っているだろう。あたため直してなんか絶対にやらない。

「もーなんなの? 早くして!」

「なに!」
「今フッと思ったんだけどさ」
「だからなに!」

 腕を取られながら私を見上げる誠はやっぱり寝ぼけてなんかいない。ド近眼の誠が眼鏡なしでどこまでちゃんと見えているのかは分からないけど、そのまっすぐな目の焦点はきちんと私に向かい、合わさっている。

 でも言おうにも、なんて言おうか……。それで怒られても嫌だしさ。
 誠は珍しく頭を悩ませ口ごもる。顔は相変わらず能面みたいな無表情だけど、眼鏡をかけている時よりかは幾らか困っているような嫌がっているような。人の気持ちなんて大して考えず飄々と思ったままのことを言ってしまうのが彼なのに。ここまで言いづらそうにするからにはもしや別れ話か? だとしたらゴミ袋に詰めて燃えるゴミと一緒に出してやる。

「だからなにをよ。それを言わなきゃ何の話かサッパリ分かんないでしょ。ていうかそれって今じゃなきゃ駄目なわけ? この50分もタイムロスしてる朝のチョー忙しい時間に? 今?」
「だってフッと思ったからさ」
「あーもーだから、早く言ってってば!」
「でも言う方にだってこう、思い切りというか、勢いっていうかさ。って良く考えずに返事しそうだし。ヘンにひねくれてるし」
「あんたに言われたくないわ!」

 パシーン! と寝ぐせの髪をはたいてやると、そんなことで勢いづいたのか誠は私のほうを向いてまたまっすぐに私を見上げた。そのままジッと見上げ、私はその薄い口から出てくる言葉を腰に手を当てて待つんだけど、誠は何か言いそうに口を動かしながらも苦い顔をして一度目を逸らし、そうしてまたパッと決意を固めた顔で見上げてくるけど……言葉は出ずに口は閉じる、という、何とも人のイライラを最高潮に増長させる仕草を見せた。

 一体なにがこの毎日同じことを繰り返すロボットみたいな彼に誤作動を与えているのか。
 こんな雨でも雪でも、盆でも正月でも、大安でも仏滅でも何でもないいつも通りの朝に。

「あのね」
「うん」

「うん」

 それでも私は、誠に怒るなんてことは諦めている。
 この人はどうしようもなく、誠そのものなのだ。
 昔よりずっと口数が増え笑みが増え物腰柔らかくなろうとも、普通の人に比べればまるで未熟な人としての機能が、この朝の忙しい時間に、このいつも通りの何でもない一日の朝に、必死に動き何か大きなものを吐きだそうとしている。

 だったら私はたとえどんなに大きな何かを犠牲にしても、会社までの道のりを全力疾走しなければいけなくとも、それをきちんと聞く義務がある。
 この人を好きになった瞬間から。好きでい続ける限りの私の使命だ。
 そのたび私は思い知る。

「結婚する? って聞くから、ハイって言ってね」
「……」

 こんな人を好きになってしまった私が悪いのだと。

「結婚する?」
「……」
「……?」
「……」

 私が誠を見下ろしたまま口をつぐんでいると、形の良い誠の目は不安がって次第に苦くへこんでいく。怯えたフリして本当は拒否されるなんて微塵も思っていないくせに。

?」
「なんでそれを言うのが、今日なの?」
「は?」
「だってべつに、今日は誕生日でもクリスマスでも、大安でもないよ」
「ないよ?」
「今日なんて、これからごはん食べて歯みがいて仕事行かなきゃいけない、普通の日じゃん。そういうのってもっと……いい日に言うもんじゃないの?」
「いい日?」

 誠はなんのこっちゃと首を傾げる。ああもう、考えてないどころか分かってもいない。
 こんなまったく何気ない、何でもない日に。
 めでたくもラッキーデーでも記念日でもないこんな普通の平日に、こんな。

「今日もきのうと同じいい日だけど」
「……」

 やっぱりこの人は何か大事な部分をどこかに落としてきてしまっている。けど、息も出来ないくらいに人を黙らせる、何でもない日をいい日と言ってのける、そんな偉大な力は持っていて、こんな何でもない日までもを変えてしまった。

「で、ハイは?」

 ……悔しいのでとても素直にハイなんて言ってやらないけど、それ以外の言葉が私の中のどこにもないのは、分かっている。
 悔しいけど、私はこれから冷え切ったごはんと味噌汁と目玉焼きを温め直すのだ。
 この、きのうと同じ、素晴らしい一日の始まりに。





それはすべてが織りなしていく