また明日が言えなくても




彼の第一印象は、”ハイジ”。

『おーいハイジー』

大学に入ったばかりの桜舞う4月、私はその誰かの声を耳にして振り返った。
だって”ハイジ”だ。あだ名か?本名か?アルプスの少女か?
気になって呼び声に応える人を目で探したら、返事をしたのは男の人だった。

『なんですか、ニコチャンセンパイ』
『用はねぇ。面白いから呼んでみた。5人は振り返ったな』
『人の名前で遊ばないでくださいよ』

どうやらその名前は本名らしかった。
大柄の先輩らしき男の人に案の定オモチャにされている。
男の子がハイジだなんていろいろ苦労しただろうなぁ、なんてまるでひと事のように(ひと事だけど)同情した。

そんなことを思いながら談笑しているその人たちを見ていたら、ガハハと大らかに笑う人と向かい合っていたその”ハイジ”が、ふとこっちに振り返りバチッと目が合ってしまったのだ。

・・・今思えば、なぜあの時すぐに目を逸らさなかったのか。
他人と目が合ってしまったんだ、それも好奇心いっぱいの眼差しで見ていた人と。何を思う以前に反射的に逸らすのが普通だ。
私はその時その人と目が合って、心臓が飛び跳ねた。
それはドキリだかギクリだか定かではないけど、とにかく強く胸打たれた。
なのに私は目を逸らさず、・・・相手も逸らさず。
しばらく視線が重なって、そのまま流れる時間が私と彼の視線を外させた。

「・・・あの時、俺を見たのは”ハイジ”が気になったから?」
「そうでしょう。それ以外ないでしょう」
「俺に一目惚れしたのかと思っていたよ」
「うわ」
「うわ?」
「清瀬君てそんな自信家でしたっけ」
「いつも思うんだが、はどうして俺をハイジとは呼ばないんだ?」
「べつに、理由なんてないですけど」
「ふむ。じゃああの時どうして目を逸らさなかった?」
「・・・」

だから、それは私が一番疑問に思っていることで。
なぜすぐ目を離さなかったのか。あの瞬間サッと離していれば、疑問のひとつは消えたのに。

「じゃあ俺のことはいつからそういう目で?」
「そういう目って、嫌な表現だな・・・」
「じゃあ言い直そう。俺に必要以上に好意を持ったのは」
「必要以上?」
「これは失言だった。友だち以上の好意を抱き始めたのはいつ?」
「・・・。他の人に迷惑なので退室していただけませんか」
「俺の声が届く範囲には誰もいないから心配ないよ。でなきゃこんな話、堂々と図書館なんかでしないさ」
「言い直します。私に迷惑なので退室してください」
「自分がいつから、どのくらい、どれだけ想っているかを伝えるのは相手の心を掴むのに重要なことだ。それで心動かされる男は大勢いる」
「心動かされたいんですか」
「すまない、今は無理だ」
「ですよね」

清瀬ハイジは夏が来ようとしている季節にピッタリなさわやか笑顔で言った。

春のリプレイだ。
”すまない、今は無理だ。”
彼はまったく同じセリフで私を振っている。
当時の私はこの一言でとことんドン底に落ちた。

だって、1年生の春に目を合わせ、友だちを通じて知り合い、顔を合わせれば会話するほどに仲良くなり、好きなものの話や懐かしい話をしたり、二人で買い物や映画にだって行くくらいに仲良くなったのだ。
だったら思うじゃない、普通。私っていつこの人を好きになったんだろう。あの時、目を逸らさなかったのは、すでにもう彼に何かを感じていたからかな。目を逸らさなかったのは、彼も少しは何かを感じてくれたからかな。好きって、言ってくれないかな。とかとか。

まぁ、全部見事に粉砕されましたけども。

「この間の記録会、どうだったの?」
「そうだ、見に来るって言ってたのに来なかったじゃないか。そうか、好きな男が懸命にがんばってる姿なんかを見ると惚れ直してしまうからな」
「清瀬君・・・」
「ハイジで構わないよ」
「・・・清瀬君。好きって言った私にごめんって言ったのはあなたなの。私はあなたにフラれたの。だから私はあなたのことを忘れなきゃいけない。違う?」

読んでいるのかいないのか、分厚い本をずっと手にしていた清瀬君は私に目線を上げふと笑った。・・・何がおかしい。

「それで?」
「だから、そういう立場の人が告白した女にチクチクとそういうこと言うのって酷く無神経っていうか、残酷なことだと思うの。清瀬君はむしろ私を避けるべき人であって、今でもずっとそばにいるこの状況が私ぜんぜん分からない」
「好意を寄せてくれる人をなぜ避ける?」
「受け入れないのに拒絶もしない。多いよね最近そういうことをあやふやにする男子って。あーあ幻滅。清瀬君もそんな人だったこの事実に幻滅。ああ、そうやって幻滅させようって魂胆なのかな、なるほどなるほど」
「話が飛ぶなぁ。俺はそんなつもりはないよ」
「じゃあどういうつもりが?」

嫌味満面に鼻で笑って言い放ってやると、清瀬君はパタンと本を閉じ立ち上がった。
開き直ってなんでも言ってやろうスタンスで相対していても結局弱腰な私は、見下ろしていた清瀬君がぐんと私の目線の高さを超えて逆に見下ろされたことに一歩下がる。

「・・・」
「な、なによ・・・」

見つめ下ろしてくる清瀬君に、ドキドキだかビクビクだか、胸打っていた。
やわらかい優しさの中に凛々しさが同居しているような瞳。
4年前より幾分か大人びたものの、変わらない強さと真摯さ。
ドキドキだかビクビクだか、・・・4年前から落ちつくことを忘れてしまった、胸の奥。

「・・・」
「・・・」

一切の余白もないほど揺るがない彼の真っすぐな視線は、私の反論も意識も、指先ひとつ逃れる隙間もないほど。

遠い春の日に奪われたまま。



ずるい。

「もう一度言ってくれないか」
「え?」
「もう一度、俺が好きだと言ってくれ」
「・・・」

彼がずっと夢見ていたもの。
胸に秘めていたもの。目指していたもの。求めていたもの。待っていたもの。
全部、全部、やっと今。

「・・・好き・・・」

ほんのわずかに色が変わる。ゆらり揺れた黒い瞳。
突き刺すようでも痛みはない。夢を語る時と同じ色。
口端を上げ意を噛みしめ、その目は確かに喜び細まって、でも言い放つ。

「すまない、今は無理だ」
「・・・」

またフと笑みをこぼす彼の目は、意地悪そうに片眉を上げる。
こいつ・・・殴ったろか。

「聞いたよ、わりと何回も」
「それだけが俺に何回も想いをぶつけてくれているということだな」
「不本意に言わされてるんですけど」
「でもそこにウソはないだろう」
「もう二度と言わない」
「それは良くないな、俺の活力の妨げになる。引いてはアオタケの士気が下がる。箱根が遠のく」
「知らないよそんなの」

清瀬ハイジは意地が悪い。人よさそうな顔をしていて大変自己中だ。
目標に向かって走り続けていれば多少の壁にもぶち当たろう。
落ち込みもするだろうし虚しさを覚える時もある。覚束なさに打ちのめされる時も、孤独を感じる時もあるんだろう。

そのたびこの人は、振ったはずの女に張り付き言わせるのだ。
好きと言わせて、それを聞いて、心を潤わせるのだ。
ほんとに・・・足折ってやろうか。

「今度の記録会は来月末だからな」
「ごめんね、かけっこに興味がなくて」
「かけっこに興味がなくても俺にはあるだろう」
「本当に性格悪いな清瀬君は」
「そんなとこもまた魅力に感じてしまう。もう末期だな、
「・・・」

それは、確かかもしれない。
清瀬ハイジがこんな人だと分かっていて。自分のポテンシャルを保つために人の感情をもてあそび、そのくせ決してその強固な決心は揺るがず、好意を受け入れることもない最低な男だと分かっていて。

また言ってしまった私は、確実に末期。
報われない。

、箱根まであと半年だ」

机の上のカバンを担いで清瀬君は窓の外を見やる。
夏が近づいている。箱根の前に大事な大事な予選会も待っている。

「がんばって」

一緒に帰ってもくれない、手を繋いでもくれない、バイバイの後にまた明日とも付け加えられない相手に。

「ああ、がんばるよ」

私に、出来ること。





また明日が言えなくても