毒性アルカロイド




 青く澄み渡る空も、風が撫でる森も芝も花も、光を返す泉も滝も、あまりの美しさに息をのむばかりの景色だったのに、そこはまさしくも天国であったのに、目の前で地獄への道を導く赤い提灯は、それらすべてを焼き尽くす業火を背負っているよう。

「ほ、鬼灯……」

 何度目かも分からないその名を呼んでも鬼灯はザリザリと草履の音をたてるだけで返事をしない。勝手に天国へ来たことをそんなに怒っているのか。怒らない鬼灯が尚のこと怖く感じた。

「ねぇ、鬼灯、貴方が私を地獄に連れて来たって、どうして?」
「……」
「そのせいで補佐官の仕事まで辞めさせられるところだったって……、あの時の貴方、とても辛そうだった。天国で働いてたんでしょ? 貴方にはとても苦しかったんでしょ? どうして何も言ってくれなかったのよ」

 普遍的に響いていた草履の音が、地獄へ続く入口が見えてきた所でピタリと止まり、私もビクリと身をすくめた。

「貴方を連れてきたのは……なんてことありません。川辺にいた貴方がかわいらしかったので連れてきただけのことです」
「だ、だからそれがおかしいでしょ。犬猫じゃあるまいし……罰を受けてまで私を連れてくる理由がどこにあるのよ」
「どの道人の行く末は皆同じなのです。早かれ遅かれ」
「そんなことは、ここで長く生きている貴方だから言えることで、生きてる人間にはとても重要なことよ! 貴方は、それを自分勝手にもてあそんだんじゃない、酷いわ!」
「……貴方が生きていた時代は混乱の世でした。大きな地震災害に世界的な戦争、どの道生きていられたかも定かじゃありません」
「地震……、戦争……?」

 私が生きていた頃の現世は、外交が盛んになり西洋の物が多く流通する変化の頃合いでありながら、島国ながらに豊かになろうと活気ある人々の声が行き交う豊かな時代だったはず。

「私の家族は? お父さんは……」
「地獄に来ない者の行方など知る由もありませんが、どの道もう何十年も前のこと。たとえ震災や戦争で生き残っていても今となっては貴方の家族、知人はほぼ死んでいますから気にすることありません」

 大きな背中を向けたまま話す鬼灯の、心情はおろかその表情さえも見えない。きっといつものあの仮面のような無味飄々とした顔で話しているのだ。その口調は淡々として、すべてが過去の事と言わんばかりの。

「どうせ死ぬんだからいいだろうって? どうせ今はもうみんな死んでるからいいだろうって? 貴方、どこまで勝手なの!? 私が突然いなくなって家族がどれほど心配したか……悲しんだか! そんなことも貴方には取るに足らないことだって言うの!?」
「……そんな心配をするほど、貴方は家族に何を与えられていたのですか?」

 鬼灯の声が鼓膜に触れた瞬間……スッと周囲の景色が遠のいた。
 青葉が木の先から外れる些細な音が聞こえるほど神経に触れた。

 目の前の黒い幕が開かれるように、鬼灯がゆっくりと振り返り私を見下ろす。
 代わりに私を導く赤い提灯が消えた。

さん」

 ビクリ……、鬼灯の低い声が骨身に響き、私は鬼灯から一歩下がった。
 そしてそのまま私は地獄への門をくぐり暗く長いトンネルを走っていった。


 ……私は帝都東京の老舗呉服屋に一人娘として生を受け、父母は後継ぎ問題などで頭を悩ましてはおったようですが、袴で自転車にまたがり坂道を駆け下りるように明るく朗らかにうら若き青春時代を謳歌しておりました。芥川龍之介、北原白秋、荻原朔太郎などの文学に耽り、宝塚歌劇団に憧れを抱いて、かと思えば近所の剣術道場に通い剣術小町などと呼ばれ、父に無理をこねてスカートを買ってもらい、休日には家族でレストランに出かけたりもしました。

 私の目に映る世界は生命力に溢れ、煌めきに満ちていたのです。
 明るく楽しい日々。私はそんな世界で、夢や希望に溢れていたのです。

「……」

 そして私は気付いた。
 私は本当に夢を見ていたのだと。

 この連れてこられた地獄で、鬼、妖怪、閻魔などの異形の者に囲まれ、中でも特別恐ろしい鬼神なる男の部屋に閉じ込められ、怖くて恐ろしくて寂しくて……けれどもいつの間にか泣きじゃくっていた時が、充足した時間となり変わって、いつの間にか私は鬼灯のいる毎日が当たり前になった。

 そんな中で、本当は気付き始めていた。なかなか子に恵まれなかった両親にようやく授かった、長く続く老舗呉服屋の後継ぎとなる子が女児だった時の、親戚中の落胆。肩身の狭くなった母は私を厳しく厳しく育て、何とか期待に応えようと、喜んでもらおうと、一途に勉学と稼業の手伝いに勤しみ尽くした時の果てに、生まれた弟が私の狭い世界に詰め込まれたすべてを持っていったことに……、私は……


さん」


 おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……
 騒ぐ金魚草の群れの中で小さくなる私を見つけた、鬼灯。

「見くびらないでください、私はどこにいたって貴方を見つけますよ、さん」

 ざわめく金魚草の声の合間を縫うように届く鬼灯の声。
 ほら、と掻きわけ入ってきた鬼灯が蹲る私を引っ張り起こした。

「一度……一度だけね」
「はい」
「家出をしたことがあったの。試験の成績が悪くて、言えなくて、家に帰らなかったの。暗くなるまであの川辺にずっといたわ。電灯も無くて、川の水の音だけが聞こえてて、とても怖かった。そこはね、毎年夏の花火を見ていた場所なの。1年の中で唯一、家族で出かける場所だったのよ。……けど、誰も見つけてはくれなくて……」

 ぽろぽろ、ぽろぽろ。
 落ちる涙は足元の土に吸い込まれ、一層金魚草が大きく鳴いた。
 私もこんな風に泣けばよかったのかな。こんな風に叫べばよかったかな。
 けど、私は良い子でいなきゃいけなかったの。
 勉強もスポーツも良くできて、明るく気立てが良く、家の看板娘と言われるほどに器量の良い……

「私は見つけましたよ」

 固く大きな鬼の手が私の頭を撫で、睫毛にぶら下がる一滴が落ちた。
 それでも溢れ来る一粒一粒を、拾い上げる鬼灯。

「私は、貴方をずっと昔から知っています。初めて見たのはもう……何百年昔ですかね。貴方が現世に現れ、生を終え、しばらくするとまた現世に戻り、また全うする。その輪廻を私はいつも見ていました。何故か、貴方はいつの世も、小さく蹲って泣いてましたから」

 血の気など無い鬼灯の真黒な眼が私を見下ろしている。
 その目のどこにも冗談や嘘など含まれず、熱い私の頬を鬼灯の冷たい手が覆った。

「運命なんてものがあるのかは私にも分かりませんが……貴方はいつの世もこんな風に傷つき泣いていました。そして何故か……大人になるより先に、その生涯を終えていました。何百年も昔から、何度転生しても、貴方を見つけたと思ったらまた泣いていて、そして貴方は余りに早くいなくなるのです。……川辺で泣いてる貴方を見た時、またか……と思いました」

 また、貴方が泣いている。また、貴方が悲しんでいる。
 また……貴方は早々に現世から離れてしまうのか。

 居た堪れなかった。

「貴方を浚ったのは、本当に、私の我儘です。勝手な行いです。本当にその後の地震や戦争で貴方が死ぬと決まっていたわけではない。今度こそ生き延びた貴方の涙が晴れる時が来たかもしれない。なのに私は……貴方を奪ってしまいました。重罰を受けて当然の行いです」
「私を、助けようとしたの……?」
「助けになどなりません。そんなことをしても貴方をその輪廻から外すことができるわけがない。そもそも連れてきた先は地獄でしたしね。貴方はここに来ても泣いていたし、私は貴方を苦しめましたから」

 苦しめた……?
 貴方が、私を?

「けどそれもじきに終わります」
「え……?」
「貴方を地獄に留めておけるのは百年と決められていました。もうすぐ貴方は今の肉体を失くし、次にまた現世で転生する為の期間に入ります。貴方がここにいる時間は……私が貴方を閉じ込めておける時間は……もう何日も残ってません」

 白い顔にかかる黒い髪の奥で、目を伏せる鬼灯は睫毛の影を落とす。

「百年など……貴方には長い年月だったでしょうが、これまで何千年と時を過ごしてきた私にはほんの一時でした。毎日、朝を迎える度にあと何日かと数え、毎夜眠る貴方を見ながらまた数え……、そうして、貴方を手放さなければならない日が迫ってくると、私はまた、あの感情を思い出すんです。いつも泣いてる貴方を……連れ去りたいと駆られるあの激情を」

 く、と僅かに頬に刺さる爪の切っ先。
 射抜くような暗い瞳に私を閉じ込める。
 岩をも砕くその大きな手が私の頭など軽く収めてしまう。
 けれども私はその手を、その眼を、怖いとは感じなかった。

 この手は私を苦しめなどしなかった。
 それは怖かったり、我儘であったりはしたけれど、この鬼の手は一度たりとも……私に害をもたらしはしなかった。

「本当は、貴方は何も知らないままにここでの時間を終わらせたかった。けど本当は望んでもいました。もう少しも貴方を悲しませたくないと思いながら、それが貴方の中に残る術であるなら……痛みとしてでも残りたいと……、転生すれば全てを忘れるとしても、記憶の中には残れずとも、私はせめて……貴方の輪廻の中に存在したかった」
「鬼灯……」
「次に貴方が現世に現れるのはまた何100年先かもしれない。私にはその時間がとてつもなく永い……。たとえそれが同じ100年だとしても、私には気が遠くなるほど永い。これまで何度、そんな時間を過ごしてきたか……」

 私などには計りしれない永劫と見間違うほどの年月の中、ただ一度……我儘に手に入れた些細な100年。
 そんな爪先ほどの時間を、この人は私に尽くした。
 毎日毎日、窒息しそうな悲しみを腹に隠し、ただただ、私に尽くした。

「帰りますよさん。もう二度と、私の傍から離れないでください。もう一時も無駄にしたくないんです」

 震えていた。
 温度を持たない鬼の手が。血の通わない冷徹な目が。亡者をいたぶる鉄の心が。
 胸に抱く小さな頭を壊してしまわないように。
 必死に。

「はい……」

 それから鬼灯は、私を部屋へ連れ帰り、これまでと変わらぬ時を過ごした。
 共に目覚め、朝餉の食べ、忙しく働き、金魚草に水と餌を与え、難しい書物を読み、共に床に就き、また共に目覚め、亡者を折檻し、私に薬草を教え、仲間の鬼たちと笑い、共に夕餉を食べ、暑くも寒くもない部屋で眠った。
 煮え切らない硬い芋をゴリゴリと噛み砕き、まるで犬や猫でも愛でるように私を胸に抱き、育ちの悪い金魚草に頭を悩ませ、疲れ切った身体を私の膝で癒し、厳しい顔つきで閻魔大王の傍に仕え、もう二度とあと何日と数えることはせず、思いの丈を込めて抱き包み、眠った。

「だからヤダってばあ!」
「何を甘えたことを。この先現世は凶悪化の一途を辿るんですよ、殴る蹴るくらい出来なくてどうするんです」
「こっちが犯罪者になるじゃない!」

 あと何日。だからと言ってあの鬼は、これまでと何ら変わらぬ日々を私に与えたのでした。
 思えば百年前からそうでした。
 逃げる私を力ずくで閉じ込め、嫌がろうとも骨の髄までかわいがり、怒る私を愉快げに見つめ、まるで私に「良い子で無くてもよいのだ」と言わんばかりに。その赤い提灯は……こっちだ、こっちだと指し示すように、いつも私の目の前を揺れていたのでした。

 それが私の百年でございました。



 パタパタパタと時刻表が掲示を変え、次のオーストラリア行きの便の搭乗が始まったアナウンスがロビーに響き渡る。連休で賑わう空港のロビーは家族連れ、カップル、団体旅行者、ビジネスマンと老若男女溢れ、グランドスタッフが卒なく客を誘導する様は世界にも誇ると感心した。

「あれ!? パパ、は!?」
「え!?」

 多く行き交う空港ロビー。子どもが一度手を離れれば早々見つからない。
 たくさんの荷物を乗せたカートは小さな子どもには車にぶつかるかのよう。
 右へ左へ行き交う大人の足たちはその存在に気付かず襲いかかる。
 首がもたげるほど見上げながらキョロキョロと辺りを見渡す、今にも泣き出しそうな小さな女の子の手から零れ落ちるライオンのぬいぐるみ。

「ライオンとはまた強く出ましたね。金魚も愛らしいものですよ」

 ぬいぐるみを拾い、ぎゅっと口を噤んでいる女の子の小さな手にどうぞと渡す。

「はぐれたんですか? いけませんよ、お父さんお母さんから離れては」

 溢れんばかりの涙を溜めた大きな瞳がキャスケットの下の顔をジッと見上げてくる。
 顔というより、見つめているのは額の角か。

「珍しいですか? 大きくなるとあなたにも出てきますよ。すみません嘘です」
「……」
「ほらあそこです。今度はお父さんもお母さんも大慌てで探してますよ、お行きなさい」

 身体をくるりと反転させると、そのふたつの瞳に両親が映り小さな足が走り出す。

「……今度は良い人生を送りなさい」

 雑踏に溶け込む小さな声は必死に駆けていく背中には届かない。
 だろうと思っていたのに、その足は止まり、振り返る。
 てけてけと拙い足取りが戻ってきて、大きな手に小さな手がライオンを押しつけた。

「……くださるんですか?」

 受け取ると、パッと歯の抜けた顔が嬉しそうに笑った。

「あ! いた、いた!」
「すみません、うちの子です! ああ良かった!」

 駆け寄ってきた両親が小さな体を抱き上げダメでしょ! と強く抱き締める。
 頭を下げるお父さんにライオンを返すと、じたばたと暴れる小さな体がライオンを掴み取ってハイと再び差し出した。

「どうしたの、それ大好きなんでしょ?」

 お母さんの腕から零れ落ちそうな程身を乗り出し、ハイ、ハイと差し出す。

「すみません、受け取ってやってください」
「では代わりにこれをどうぞ。是非オーストラリアではコアラを買ってあげて下さい。お勧めはタスマニアデビルですが」
「は……?」
「では」

 小さな手に棒付きキャンディを握らせ、くいとキャスケットを下げ雑踏の中へと去っていった。

「なんでオーストラリアって分かったんだ?」
「なんでだろ……言った?」
「まさかぁ」

 お母さんにぎゅっと抱きつき、お父さんの大きな手に撫ぜられ笑う。
 安心した顔で、幸せそうに。
 小さな手が握っている未来永劫。

 地獄には縁がなさそうで、残念です。
 物哀しく笑みを落とし、鬼灯は地獄の帰路を渡った。