懐郷ライン




初夏と呼ぶにはまだ早い花曇りの空だけど、梅雨が明けた今、これからやってくるのは暑い夏以外にない。日に日に上がっていく気温、強みを増す日差し、目がくらむほどの眩しさ。想像するだけで気が滅入ってしまいそうな竹青荘の住人たちは、それでも清瀬に与えられたメニューを朝から晩まで手を抜くことなくこなしていた。

そんな、朝から走り込んだメンバーたちが昼メシのソウメンを涼しげに吸い込んでいた、とある日の休日。

「こんにちはー」

午前の練習後コンビニへ行ってしまったニコチャンとユキ以外のメンバーが集まる昼メシ時の竹青荘に響いた、涼しげな声。

「だれだ?勝田さんかな」
「いーや、今のは葉菜ちゃんの声じゃない。見てくる!」
「俺も!」

男所帯の竹青荘で女性の声は、たとえ2階一番奥の部屋にいたって全員敏感に聞きつけるだろう。台所のテーブルでソウメンを喉いっぱいにすすり始めたアオタケ住人たちは声がした玄関の方に顔を上げた。その中から一層目を輝かせた双子のジョータとジョージが我先にと箸を投げ玄関へかけ出ていった。

清瀬が口にした「勝田さんかな」の言葉で一瞬箸を口の前で止めた走は、突然聞こえてきた声が葉菜でないと即時には分からなかった。ジョータとジョージはちゃんと聞き分けていたのに。

「また商店街からの差し入れかな」
「ソウメンだとうれしいです。夏はこれが一番です」

神童が全員にメンツユを配りながら言うと、ムサが器用に箸でソウメンを取りながら答え、キングは「ムサも日本の夏が分かってきたな」とからかいながらお茶をビールのように喉へ流し込んだ。

玄関からジョータとジョージがウキウキを隠せない声色で「どちら様ですか?」と無邪気に応対している声が聞こえてくる。突然現れたソックリな双子に驚いてる風な会話が聞こえてくるも、その声はやっぱり女性で、みんなソウメンを取る手を再び動かしながらも双子が戻ってくるのを首を伸ばして待っていた。
だけど走にとっては、その声が葉菜でないのなら他に予想できる人もいないからさほど気にならなかった。神童からメンツユを受け取りソウメンに手を伸ばし、きっと王子さんも興味ないんだろうなと目の前の王子をなんとなく見た。

だけど、右手に箸、左手にマンガ雑誌を持っていつもの「マンガ見ながら食い」をしていた王子は、台所口に顔を向けながら手も口も動きを無くし、まばたきすら忘れてそっちを凝視していた。

「王子さん、どうしたんですか?」

走の言葉に誘導されて全員が王子に視線を集めた。
それでも王子は台所口から目を離さない。口も開かない。
そうしていると、バタバタと戻ってきたジョータとジョージが、ここを出ていったときよりさらに赤味の増した顔を覗かせて「王子さん!」と揃って叫んだ。

「王子さんにお客さん!」
「それもチョー美人!」
「おじゃましまーす」

興奮気味の双子がジャジャーンとマジックでも披露するかのように両手を左側に集め、その先からは双子の言葉通り、夏の日差しさえ引き立て役にしてしまうほど肌もシャツも白く光らせた見栄えのいい女性が顔を出した。その女性に、台所の面々は皆注目した。

「ああ、」
さん!」

瞬間、静寂が台所を包んだと思ったら、清瀬が小さく口を開き、その言葉の続きをかき消す勢いでキングが叫びながら立ち上がった。突然のキングの発狂に驚いた走は目を丸くしてキングを見上げ、ムサも大きな体で驚いたのか黒い手を胸に当てた。しかしキングはそんなの見えていない恍惚な表情で、台所口でにこり笑顔を見せた女性を見つめている。

「こんにちは、お久しぶり」
「うわー久しぶりッス!遊びに来てくれたんスかぁ!?」
「うん。ずいぶんにぎやかになったね、アオタケも」

興奮気味なキングを目の前に、まだ走は何ごとかぜんぜん飲みこめずにあちこち目線を散りばめていた。だけどキングと清瀬をはじめ、自分以外はこの人が誰なのか分かってるみたいだ。

「あの、神童さん・・・」
「うん?ああ、この人は柏崎さんといって」
「柏崎?」

走はその名字を聞いて正面の王子に目をやった。
ピタリと動きを止めていた王子はもう身動きを取り戻し、だけどお椀の中の白いメンを食べるでもなく箸で突き続けるという不思議な行動をしていた。

「王子のお姉さんだよ」
「王子さんの?」
「しかもうちのOBで、ミスコンで2年前と3年前の2冠を取った人なんだぞ!」
「そんな懐かしい話持ち出さないでよ恥ずかしいなぁ」

キングがクイズの回答ボタンを押した後のように誇らしげに言う前で、真っ青な夏空の下ではためく洗濯したての白いシーツのように気持ちよく笑うは、その事実を聞き目の前の王子とを見比べても、とても姉弟のようには見えない。いや、王子の存在に似合わぬ端正な顔を見ればこんなきれいなお姉さんがいても不思議ではないのだけど、どこかちぐはぐに見える。そのくらい、いつも背を丸くしてマンガだけを見つめている王子と薄いシャツからスラリと伸びる白くしなやかな手で柔らかい髪を耳にかけるは当てられている光度が違って見えた。

「あー?じゃねーの」
「・・・うっそニコチャン!?まだいんのっ?」
「まだどころか去年から学年も上がってませんよ、この人は」
「岩倉君も久しぶり。司法試験通ったの?」
「もちろん」
「あらおめでと。弁護士になったら合コンしよーね」

コンビニから帰宅してきたニコチャンとユキはすぐの存在を確認し台所はより騒がしくなった。まだ立ち上がったままのキングがに「ソーメン食べますかっ?」と隣に座らせようとムサをどかそうとして、神童がまた新たなお椀にメンツユを注ぎ始め、双子がキラキラした目でを見つめていて。・・・そんな中で走同様ずっと静かだった王子が突然席を立ち、ニコチャンとユキの間を割って台所を出ていってしまった。王子らしくもなくどしどし歩く足音が階段を上がっていって、2階の一室のドアが閉まる音と振動が竹青荘に響いた。

「どうしたんだ王子のヤツ」
「恥ずかしいんじゃないですか、突然身内が現れて」
「どうでもいいけどそのあだ名まだ続いてるの?似合わないからやめようよ」
「どうでもいいってアンタ・・・」
「あいつが王子ならは王女か?いやお前はどっちかって言うと女王様だな」

ケラケラ笑って、ニコチャンとユキは小さな机を出しソウメンとメンツユをテーブルから取った。
竹青荘での食事はいつも台所だけどテーブルの席は人数分ないのだ。だから早く来たものからテーブルにつき食事を始め、遅くなったものは小さな机を台所前の廊下に出し床に座ることになる。新参者の走はこれまでの学校生活で染み付いた上下関係から最初は食事中であっても先輩が来たら席を譲ろうとしたことがあったが、清瀬に「ここでは先輩も後輩もないから構わず座ってていい」と言われ、他の住人たちもありがちな先輩風を吹かせてくることもなく、今ではテーブルで食事をするのが当たり前となっていた。

「ウソ、箱根って、あの箱根駅伝?お正月の?」
「そうです。あの箱根です」
「笑ってやってよさん、ムボーだって」
「はは、ムボーね」
「あ、ホントに笑いやがった!」

王子がいなくなった席に誘われたは、いなくなった弟を気にする様子もなくそこに座りアオタケの面々と談笑し始めた。そうなると話題はもちろん、この春から目指し特訓を始めた箱根駅伝の話になり、王子の親族として清瀬から丁寧に説明を受けながら、王子の練習の様子や変化についても興味深げに聞いていた。

「で、こいつがうちのエースです。蔵原走」
「走るって書いてカケル。そのまんまでしょ」
「へぇ、いい名前ね」
「いえ・・・」

薄くなったメンツユを足していると突然そんな紹介をされ走は動揺しツユをこぼしかけた。目の前からにきれいで完ぺきな微笑みをかけられ、あまつ「いい名前ね」なんて大人な言葉をかけられる。これまで走は女子と言っても同年の子としか接したことはなかったし、走りの虫である走は会話どころか挨拶程度にも関わることはごくたまにだった。そんな走が、こんな女性オーラをひしひしと感じる人と相対することすらあまりないから、キングみたく興奮するどころかたじろぐ以外に反射反応はなかった。

「ふーん、駅伝かぁ。それであのケガなわけね」
「え?」
「茜よ。このあたりに擦り傷あったでしょ」
「そんなのあったっけ?」
「あ、もしかして、さっき坂で走り込みした時に最後倒れ込んだ時かも。気付かなかったな」

がきれいなネイルの指先であごの下あたりをちょんちょんと差したけど、誰も王子のそんなところに出来た傷に気づかなかった。
王子はこれまで部活動や趣味程度のスポーツも何もしていなかったし、それどころか普段マンガばかり読んで人並みの体力もなく、メンバーの中で一番軽い練習をしていても一番過酷なメニューをこなしているようなものだった。だから体にかかる負担もところどころに生じている不具合も細かなケガも人一倍多い。それでも春からずっと続けてきて、最近はあまり目につかなくなってきたところだったのに。清瀬は王子のことは誰より気にかけていたにも関わらず、小さな擦り傷とはいえ気づかなかったことに申し訳なさを感じた。

「すみませんさん」
「なんで謝るの、べつに無理強いしてるわけじゃないでしょ」
「無理はさせてると思います」
「いいんじゃない、無理なんてしたことないものあの子。無理してるならそれなりの理由があるんでしょ、あの子なりに」
「王子は本当にがんばってくれてます。この前の記録会では予選会出場に必要な記録を出したんです。箱根、楽しみにしててください」

そのままメンバーたちとはソウメンを囲んで和気あいあいと続けた。
この小さなボロ家じゃその騒々しさは2階のマンガで埋め尽くされた王子の部屋まで響いてくる。食事も半ばで部屋に戻ってきた王子はいつもこの上なく安住の地である自分の城で妙な居心地の悪さを感じ、たまらず足元のマンガを手にとってはパラパラめくり、だけど下から響いてくる笑い声にジャマされてポイと手を離した。

しばらくすると、下からの騒ぎ声があまり聞こえなくなった。
王子は気になって、耳を澄ましながら手と足を床についてドアへ近づいていく。
そっと開けたドアから外に顔を出し、下の階の音を聞こうとするけど誰かの話し声が聞こえるだけで姉の声はうまく見つけられない。床を踏みしめればすぐにしなってしまう廊下をソロっと歩く王子は、そのまま階段で下の様子を覗き見て、それでも判断しかねて足音を殺しながら1階へ降りていった。

「なにしてるんだ王子」

耳を澄ましながら階段を降り目の前の台所の様子を覗き見る王子を、台所で洗い物をしていた清瀬が気づき声をかけた。王子は清瀬に向かってシーっと指を立て、清瀬はそのあまりにかわいく見える仕草に思わず笑みをこぼした。

「あの・・・お姉ちゃんは?」
さんなら帰ったぞ」
「えっ?」
「冗談だ。今はニコチャン先輩の部屋にいる」

清瀬の意味のない冗談に思わず普段以上の声が出てしまった王子だけど、冗談だと笑う清瀬が言ったその後の言葉にはもっと複雑な気持ちにさせられた。その王子の表情を敏感に察知する清瀬は、いつもの安心させるような穏やかな声で「キングや双子たちと去年の箱根のビデオを見てるんだ」と説明した。

「王子、せっかくだからさんに箱根に出ることを言ったらどうだ」
「もうハイジさんが言ったんでしょ」
「自分で言いたいこともあるだろ。俺や他のヤツにはなかなか言えないこととか」
「ないよそんなの」

王子はまだどこか居心地悪そうに清瀬と向かい合い、台所のテーブルに置いていってしまっていたマンガ雑誌を見つけるとイスに座って、マンガを開いていつものスタイルに落ち着いた。

「王子、あごのケガ手当てしようか?」
「え?」
「ここ、擦りむいてるぞ」
「・・・ああ、気付かなかった。そういえば痛いや」
さんは気づいてたぞ」
「え?」
「さすがお姉さんだな、よく君のことを見ている」
「・・・近く通ったからたまたまでしょ」

普段は人との会話も片手間、その全神経はマンガに向いている王子が、マンガをパラリとめくりながらも清瀬との会話に微妙に表情をくるくる変える。それだけ王子にとって姉の存在は他とは一線を隔すものなのだと清瀬は感じていた。王子にとってのマンガと同じくらい。

「あの人、何しに来たって?」
「言ってたじゃないか。久々に遊びに来たって」
「遊びにって・・・、ニコチャン先輩と?キングさんと?」
「なにをふてくされてるんだ」
「べつに、ふてくされてなんか」

微妙な心の内をいい当てられて、王子は明らかに不機嫌な顔をする。
そんな顔、読書(マンガ)をジャマされた時くらいにしか見せない。王子はこの世のあらゆる雑ごとや重要なことにどうも無関心だ。目も頭も心もいつでも二次元の世界に飛んでいる。

わっと1階の奥の部屋から複数の笑い声が漏れてくる。
その方に王子と清瀬が目線をやると、ドアが開く音とともに笑い声がさらに鮮明に聞こえ奥からバタバタ走ってきた双子が顔を見せた。

「あ、王子さん!もーさんってサイッコー!美人だし面白いし!」
「いーなぁー、俺らもあんな姉ちゃんほしかったよぉー」
「俺はジョータたちみたいにソックリな双子が良かったな。面白そうだし」
「悪かったわね、おねーちゃんで」

何気についた悪態に返ってきた言葉に王子の背筋はギクリと逆立った。
振り返ると、冷蔵庫に駆け寄っていった双子たちのうしろに、もいた。

「ハイジ君、ちょっとだけ茜借りてもいいかな」
「僕はものじゃないんだけど」
「買い物行くからついてきて」
「ヤダよ、どうせ荷物持ちでしょ」

マンガを目の高さに立てて王子はに目も合わせない。
だけどそんな王子の隣で清瀬が「いいですよ」と許可した。

「ちょっとハイジさん」
「あ、ズッルー!俺も行く!」
「俺も行くー!」
「お前たちは駄目だ」
「なんで!?」
「あと30分で午後の練習を始めるからだ」
「じゃー王子さんは!?」
「王子は今から新しいシューズを買いに行くんだ。今のはもう削れてバランスのいい走りができないからな」
「そんなの俺だって!」
「俺だってー!」

シューズがすり減ってるなんて王子は自分で感じたことないけど、清瀬がそう言うからにはそうなんだろうか。それともの頼みを聞いてやっているんだろうか。

「行くわよ茜」
「嫌だってば」
「茜」
「・・・」

下の名前なんて、今じゃ家族くらいしか呼ばない。
最近は家にもあまり帰ってないから強めに呼ばれた名前がやけに脳に突き刺さって、マンガの上からじっとりと眉をしかめてを見るけど、何が何でも言うことを聞かせる強みを持つ姉に体はすごすごと言うことを聞いてしまう。幼いころから染み付いた弟の悲しき習性。マンガを手放し立ち上がる王子は、にっこり笑って歩き出すのうしろを渋々ついていった。

「ちょっと、そのまま行くの?恥ずかしいから着替えなさいよ」
「どの服もこんなものだよ」
「もーイヤ。服も靴も全部買ってあげるからもうちょっとマシなカッコして。美容院も行きなさい。せっかく顔はいいのに、もう」

玄関に座っている王子の髪を指先で整えるとされるがままの王子が、なんだか和やかなホームコメディのような。そんな王子をジョータとジョージはまだ羨ましがりながら、キングは悔しそうな顔で見送って、清瀬はいってらっしゃいと出ていく二人を送りだした。

「俺たちはトラックで練習してるから戻ったらすぐに来るんだぞ王子」
「そーだぞ、サボろーなんて思うなよ王子!」
「帰ったら行くけど・・・」
「けど?」

靴の紐を結んで王子は歩き出す。

ちゃんの買い物、長いからなぁ」

ボソッとボヤいて王子は玄関の引き戸をガラガラと閉めた。
王子の影が擦りガラスの向こうに消え、車が砂利道を出ていく音が聞こえる。清瀬とキングと双子はしばらくそこに立ちつくしていた。

ちゃんだって。王子さんかわいすぎ」
「なんか、あいつの子供の頃って、あのままだったんだろうなぁ。想像付きすぎて笑えねぇや」
「幸せ家族って感じ」
「うんうん。幸せ姉弟」
「さて、そろそろ行くぞ」

清瀬が腰に手を当て気を入れ直した頃、2階から下りてきた走と神童とムサが準備を整え玄関に集まってきた。1階の部屋の奥からはニコチャンとユキも練習着に着替えシューズを履いて玄関を開け、王子を抜いたアオタケメンバー9名は、初夏の日差しが増してきた午後の練習を開始した。





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