星は窓に届く




もしもし、ユキ?ちょっと来てほしいんだけど、いま時間ある?

高くも低くもないあいつの声で名前を呼ばれたのはいつぶりだっただろう。
少なくとも出会った当初は苗字で呼ばれていたか。その後は・・・覚えていないな。
そもそもあいつに「ユキ」と呼ばれていたかどうかもはっきりしない。

「コーヒーは後でお持ちしますか?」
「先で」
「かしこまりました」

メニューを引きとり店員がテーブルから離れていくと、俺は左腕の時計を確認した。
1時37分。ランチの時間は過ぎて幾分か空いた席が目立ち始めたものの、大学近くのファミレスとあってやはり寛政の生徒が多く、その騒がしさは通常のファミレスの比ではない。用があるというなら大学の食堂でも教室でもそのへんの廊下でもよさそうなところをわざわざこんな人気の多い騒々しい場所を指定してきたからには何かそれなりの理由があるんだろうと思案してみたけど、これと言っていい予想は湧かなかったから考えるのをやめた。

1分も時間が空けば片手に本を持つ俺にページをめくらせる暇もなく、コーヒーカップひとつをトレイに乗せた店員が「お待たせしました」と俺の真正面にカップを起き再び去っていくと、今度はポケットから携帯電話を取り出しメールや着信がないかを確認してみた。何の変化もない待ち受け画面。そして時間は1時42分。何かと忙しい俺をこんな騒々しい昼下がりのファミレスなんかに呼び出した本人は12分の遅刻だ。本来なら午後の授業に出て、終われば走ってアオタケに帰り夕食までの数時間全部を練習に費やさなくてはならないというのに。

そもそも彼女は連絡もなしに遅刻をするような人間ではなかったはずだ。
起こり得るあらゆる事象を踏まえて何ごとも予定の時間より数分早めに動くような、その上細い左手首につけた腕時計の時間は常に5分早くなっているような堅実なタイプだったはず。そんな人間がちょっと会わない間に13分も平気で遅刻をするような人間になってしまったとは。
俺が朝から晩まで、時には食事や睡眠を忘れかけてまで勉強に日々を費やしていた間に、彼女は世間一般の大学生同様、明るいキャンパスライフやアルバイトや適度な勉強、サークル活動なんかで華やかな青春を謳歌していたんだろう。そうして世に溢れた極々一般的な女子大生に成り果てたのだ。15分も平気で遅刻してくるほどに。

「お待たせいたしました、タンドリーチキンとピラフのランチプレートでございます」
「どうも」

料理を運んできた店員は俺がコーヒーカップを左へ少しずらした場所に皿を丁寧に置き注文がそろったことを確認し伝票を置いて去っていった。この無駄のない動き、丁寧な所作と言葉づかい、崩さない微かな笑み。これがプロというものだ。金をもらって働いているということだ。・・・そんな店員のような責任感を持って行動しろ、とまでは思わないが、彼女はまだ来ない。22分の遅刻だ。

「お待たせ」

本をカバンの上に置きスプーンを手に取ると、さっきまで店員が立っていた位置から高くも低くもない声がかけられた。遅刻したことを非に思っていない人間の定石の様なセリフ。メガネの奥で目線だけをその方へ向けると予想通り、が遅刻をモノともしない顔で立っていた。

「ごめんね、遅れちゃった」
「23分遅刻」
「この人、岩倉雪彦くん。法学部の4年生」

腕時計を指差しながら言う俺の言葉を華麗にスルーし、俺を見下ろし立っていたはさっさと俺から目を離しうしろを向いた。そのの数歩うしろにはまだどこかあどけなさの抜けない、けれどもきちんと大学生活を明るく楽しく過ごしている風な男が棒のように突っ立って俺をジッと見つめていた。

「この人が?」
「そう」

俺はスプーンを右手に持ったまま何も発言せずに目の前のふたりを静観していたが、その男が言ったことと俺に向けている敵意にも似た目でこの状況をなんとなく理解した。が電話で俺を「ユキ」と呼んでみせたのも、おそらくそばにこの男がいたからだろう。

「そっちの人に聞いてもいいですか」

男は一歩テーブルに近寄り俺を見下ろしてくる。

「ほんとにさんの彼氏なんですか」

疑いに満ちた目で見下ろされるのは気分のいいものじゃない。
弁護士になったらこんな他人のゴタゴタに巻き込まれる毎日になるのか。(いや、俺は聞く側になるはずで答える側じゃない)

「そのはずだけど」
「一緒にいるとこ見たことないっすけど」
「俺は何かと忙しいんでね」
「それって彼氏って言います?」
「四六時中一緒じゃないと不安になるほど付き合い浅くないんだよ」

持っていたスプーンで少し冷めたピラフをすくい口に運ぶ。
という普通の行動をして見せることで俺の発言の普遍性を強調する。
って、なんで俺はいきなり意味も分からず巻き込まれておいて的確に状況を判断しそれでいてベストな対処をこなしてしまってるんだ。(時々自分が怖い)

「じゃあ、こないだ俺がさんと映画行ったのはどー思ってるんですか」
「・・・」

そんなことはもちろん知りはしないが、この男に限らずが知らない男と二人で歩いてるところを見かけたことは何度かある。だからってそれに俺が何か言うことも、何かすることもない。俺にはそんな権利がない。

「いいんじゃないか?何の意味もないんだろう」

ぐっと悔しそうに口をつぐんで、男はファミレスを出ていった。
その男を黙って見送ったはふっと息を吐き俺の向かい側に座ったから、俺はまた一度スプーンを口に運んだ。

「言いすぎよ。せっかく荒立てずに分かってもらおうと思ったのに」
「言い寄る男はいても追っ払う男はいないのか」
「ただの後輩です」
「付き合えばいいじゃないか。見た目も中身もそう悪くない」
「後輩と付き合ってどうするの。こっちはもう卒業なのに、いま大学で彼氏なんて作ったってしょうがないじゃない」
「だったら気を持たせるようなことするなよ」
「なにが?映画よ、ただの。ていうかなんでごはん食べてるの。カッコつかないじゃない」
「ついただろ」

建前はどうあれ仕上がりは要望通りに成し遂げたんだから。
俺の前で窓の外を見ながらまた分かりやすく息を吐いたは、それきり黙って事情を話すことも礼を言うこともなかった。まったく、午後の授業をサボらせておいて無粋な態度だ。

けれどは席を立ちはしない。
俺も目の前の食事を食べ進み、騒がしい午後のファミレスでこのテーブルだけが静寂を尊んでいた。そもそもこうやって待ち合わせることも同じテーブルにつくこともいつ振りか分からないくらいだから俺たちに華やぐ会話があるはずもない。が俺の携帯番号をまだ持っていたことだって意外だったんだから。

ただあの時は逆だった。
2年ほど前、ひとつ下の女の子に妙に懐かれどう断ってもまるで伝わらず困り果てていた俺は同じ講義を取っていたに彼女役を頼んだ。しかしその女の子はなかなか信じてくれなかったために俺たちはずっと彼氏彼女を続けたのだった。
人間おかしなもので、仕方なくでも四六時中一緒にいれば気も許してしまう。
そもそもまるで好かない人間を自分の彼女だなどと触れまわること自体あり得ない。
ましては、どれだけ一緒にいてもまるで嫌気が差さない初めての女だったし。

「そういえば、卒業後はどうするんだ」
「就職決まってるよ」
「そうか」

嘘から出た誠、とでもいうのか。あの時は、俺たちが”彼氏彼女”である理由がなくなっても、俺たちの隙間がなくなっていくことを止める術は持ち合わせていなかった。

始まりがそんなあやふやなものだったのがいけなかった。
それから司法試験の勉強に時間の大半を費やすことになっていった俺が、必ず約束して会っていたわけでもないとの時間が減っていって、やがて会うどころか連絡を取ることも無くなっていったのは必然だった。あの頃の俺は家庭の事情も相まって勉強に没頭する他なかったから。

「岩倉くんは?」
「もちろん、決まってるよ」

の「岩倉くん」がしっくりくる。
やはりは俺のことを「ユキ」と呼んだことは一度もなかった。

就職先なんて3年の時点で決まっている。
司法試験に一発合格しておいて就職浪人なんてしてたまるか。
まぁハイジに付き合って箱根を目指し出したせいで浪人しそうなヤツもいるけど。(ニコチャン先輩なんて進級すらヤバい。)

「就職じゃなくて、彼女」
「・・・、いや」

やっと会話が始まったと思えばそっちの話か。
勉強の毎日も試験が終わった後も、が男と歩いてるところを何度か見たことがあった。はもう別の時間を歩いている。ちゃんと現在を過去にして歩いている。だから俺もいい加減彼女のひとりでも・・・などと思ってみたが、目に留まりはしても記憶にこびりつくような女は誰もいなかった。

前にアオタケで彼女云々という話になった時も、結局頭の中にいたのはだった。
そんなんでよく「いるに決まっているだろう」なんて言えたものだ。
食べ終えナイフとフォークを置きながら、思わず自嘲した。

「なに?」
「いや」

あっそ、と吐きだすは立ち上がりテーブルにあった伝票を取った。

「なんだよ、自分で払うよ」
「いいの。お礼とお祝い」
「お祝い?」

に祝われることなんて、司法試験か?
同じ法学部のが俺の合格を知っていても不思議じゃないし。

「どうせならデザートも食べてからにしてくれ」
「1等賞取ったらね」
「・・・」

じゃあねと歩いていくは俺に目もくれることもなくレジに向かっていった。
お祝いは、予選会のことだったのか。
箱根のこと、知ってたのか。

俺も、の頭のどこかに、こびりついていたのかな。

店を出て歩いていくの姿を、今はまだ追いかけることは出来ない。
今すぐ追いかけて捕まえて、あいつの足を止めさせるべきなんだけど。

「はは、まさか、立てないなんてな」

顔が熱い。頬が上がる。心臓の高鳴りを抑えられない。

あの時流れていってしまった星を、俺はまだ見ている。





星は窓に届く