初恋は、まだだった。








01.レモネードロップ











私の世界はそんなに何色もないと思っていたし、実際目に見えているのはモノクロに近いツートーンだった。楽しい時は楽しい、おかしい時はおかしい、幸せな時は幸せだけど、・・・だけど、最近どうも、イライラしていけない。廊下の果てで騒いでいる誰かの声にすら、イラッとしてしまうほど。


「えーしー!早くこーい!」


ついクセで自分の影を見ながら歩いていたけど、遠くから聞こえてきた声には聞き覚えがあって誰だか想像ついた。騒いでる人っていうのはだいたいいつも同じだし。それに若菜とは去年同じクラスだったし結構喋った。あ、若菜っていうのは今叫んでたヤツなんだけど。おなかに小さくイラっと刺した不快感も、まったくの他人よりは若菜のほうが許せる気になるもので、元気な人・・・なんて頭の奥で思いながら朝の騒がしい廊下をやっぱり自分の影を見ながら歩いていた。


「いっ・・・!」


・・・そしたら、真正面から額にゴンッと鈍い痛みが走った。頭を押さえて目を上げると、すぐ目の前で男の子が一人、きょとんとした顔で私に振り返っていた。目を合わせたままどちらとも動かずにいると、その人は「あ」と口を開ける。


「ごめんさん、ぶつけた?」
「・・・うん、ぶつかった」


その人が普通に私の名前を呼んだから、私は遅れながらその人が同じクラスの郭君だとゆっくり認識した。郭君は肩に金属バットを持っていて(廊下で金属バットなんて普通危ない人だよ)、それを肩から下ろすと私に向き合ってちゃんと謝る。というか、金属バットにぶつかったなんて・・・いまだにズキズキ痛いはずだ。


「これは痛いね、鉄だし」


そう言って郭君は、バットの先をなぜなぜと撫ぜる。
いやいや違うだろ、なでてほしいのは私のデコのほうだ。
そんなことを思っていると、郭君はまた私をしばらく見つめて、また「あ」と口を開いた。


「そっか、痛いのはさんだよね。ゴメン」


そう言って、郭君は笑いながら私の頭をなぜなぜと撫ぜた。
一瞬、頭の中がフリーズしてしばらくその状況が理解できなかった。硬直と言ってもいい。
すると、廊下の果てから若菜の大声がまた郭君を呼んで、それに振り返り答える郭君は最後に「ごめんね」と言い残し廊下を奥へと歩いていった。


「な、な・・・?」


私はまだ、立ち尽くしたままだった。







「撫ぜたの!よしよしってゆーかぐりぐりってくらいに撫ぜたの!」
「へぇ。で?」
「普通ぶつかったからって人の頭撫ぜる?しかも郭君だよ?そんなキャラだっけっ?」
「まぁーそうは見えないけど」
「でしょ?!」


郭君といったら、そんなフレンドリーなキャラじゃない。目立つグループにいるけど静かな人だし、選挙管理委員とかやってて真面目だし、頭もいいらしいし、一番仲いいのが学年一の大騒ぎ男・若菜だってのがかなり驚きなくらい真面目な優等生タイプの人だと思ってた。

私となんて、クラスメートといえばクラスメートだけど、話したこともない、本当にただのクラスメートだ。私の苗字を知っていることすら驚くくらい名ばかりのクラスメートなんだ。そんな距離の女の子の頭を、あんなさも当たり前にぐりぐりなぜるなんて・・・!


「なんなのよ、ビックリして頭痛いのもどっかいったよ」
「良かったじゃん」
「でも思い出したら痛くなってきた!あーイタイイタイ、もー何なのあの人ー!」
「あんたこそ最近おかしいよ」
「え?」
「ずっとカリカリしてる。なんかあった?」


・・・改めて人に言われると、私ってよっぽどイライラしてるんだなって思えてくる。
いくらいつも一緒にいるシノとはいえ、人から見てもわかるくらい不安定になってるなんて、重症な気がする。

だって、なんだか知らないうちにイライラしてくるんだもん。何があったわけじゃなくて、でも何もないってわけでもなくて、とにかくなんもかんもが窮屈に感じてきて、ブラジャーすらきつくて苦しくて、そんな毎日を過ごしてるうちに教科書を掴み損ねて落としてしまっただけでもイラっときて、ああ・・・あたしどうしちゃったんだろ、どっか欠陥でもあんのかしらって気になってきて・・・


「あ、良かった、こぶになってないね」
「・・・」


そんな私の頭に、またあの手が乗った。


「なっ、なっ、・・・」
「こらえーしー、痴漢するなー」
「人聞き悪いこと言わないで」


動悸激しく振り返る私の頭から手を離し、突然現れた郭君はさらっと窓側で笑ってる若菜たちのほうへ去っていった。そしてさらっと、騒がしい連中の中に似つかわしくなくひそりと混ざってる。

な、なんなの、あの人・・・!






「郭君ってカッコいーよね」


ゴン!・・・
と、鉄バットでぶつけたところを、また自動販売機でぶつけた。
買おうと指を差し出していたイチゴヨーグルト(糖分補充カルシウムたっぷり)が、よりによってサイダーに代わり、ガコンと取り出し口に落ちてくる。


「はい・・・?」
「郭くん。カッコよくない?さっき近くで見たらほんっとキレイだなーって思ってさぁ」
「び・・・」
「あーわかるー、中性的だよね。色白でまつ毛びしっと詰まってて、美少年って感じ」
「頭よくてさ、なのにサッカーとかうまいんだよね。よく若菜たちと昼休みにやってるし」
「若菜がうるさいから目立たないけど、何気にいい物件だよー」
「あ、ほら。外で遊んでる」


この暑い中、小学生みたいにひとつのボールをおっかけて遊んでる男子たちを見下ろすみんなと同じように、サイダーの缶を持って私も窓へ寄っていった。
そこでは本当に郭くんがサッカーをしていた。サッカーがうまいなんて知らないなぁ。教室で一人本とか読んでるからインテリなイメージしかなかったし、あの体つきとか色の白さはスポーツマンといった感じではまるでないし。


「何見つめてんの。なに、ホレたー?」
「は・・・?みんな見てるから見ただけじゃん」
「えー、めちゃ見てたよー」
「そんなんじゃないって。ほら、うち兄貴がサッカーしてたから見ちゃうんだよ」
、お兄さんいたの?いくつ?」


ああもう、ダメ。心底イライラする、こういうの。ただ見てただけなのに。
でも、そんなわけないじゃーん、なんてお茶目ぶって缶をブンブン振って誤魔化すの。こんなことで空気悪くして嫌な風に思われたくないもん。


「あ、それ!」
「え?」


シノが私を止めた時には、すでに遅し。
パキッと缶のプルを上げた途端、口からサイダーが噴き出し私の顔面めがけて大噴出。みんながキャーッと散り散りに離れていく間に私はみるみる炭酸まみれ。髪から顔から制服までベットベトになり・・・。


「誰よ、振ったの・・」
「アンタよ」
「・・・そうですね」


最悪だ・・・。


濡れた髪は時間が経つにつれ、炭酸の威力を大いに発揮してベトベトと頬や首に纏わりついた。手や顔は洗えば何とかなるけど、さすがに髪はもうどうともならない。
結構長い間伸ばしていて、真夏で暑苦しくても切らずにいたのは、このふわふわしか感じが好きだからだ。量は少ないけどクセッ毛だから自然と波打った感じになってるのが結構気に入ってたのに、今じゃ絡まって恨めしい限り。
サイダーが染み渡って絡み合う髪が固まっていく。さすがクセっ毛、絡まって絡まって取れやしない。どうしようもなくなった私は、外に出て校舎脇の一番近かった水道でジャブジャブ髪を洗った。

まさか学校で髪を洗う羽目になろうとは・・・。
いや、これも夏だからまだマシか。冬なら死ぬところだった。


「何してるの、さん」
「!」


ひょこ、と横から(しかも結構至近距離で)顔を出してきた郭君に、心底驚いて、思わず身を引いた。


「もしかして行水?暑いもんね今日」
「ま、まさか!」
「じゃどうしたの?」
「ジュースをかぶってしまって・・・、髪がベトベトで困ってしまって・・・」
「ああ、ハゲワシになったんだね」
「ハ、ハゲ・・・?」


ハゲで止めないで。
フと吹き出した口を隠しながら、郭くんは「ハゲワシは獲物を取った後、水浴びしないと血で羽が固まって飛べなくなるんだ」と私に教えた。

その後もしばらく郭くんはしつこく笑った。何がそんなにツボに入ってしまったのか・・・とにかく郭君のこんなに笑った顔は、見たことなかった。だって私って本当に、見事なまでにただに一クラスメイトだから、こうして普通に話していることすら、違和感だらけ。こんなまるで、友達みたいな。

こんな、人だったんだなぁ・・・。


「じゃあちゃんと水浴びしないと」
「え?」


こっちこっち。と郭君はグラウンドのほうを指差す。なに?と不安がる私を、それでも何の説明なしに、濡れた腕を引っ張ってグラウンドのほうへ歩きいていった。


「なになに、なんなの?」
「もうそこまで濡れたら一緒でしょ」


そのまま一緒にグラウンドまでくると、腕を引っ張られる私は郭君の後ろで、グラウンドの土に水を撒き散らしてるスプリンクラーを見た。太陽の熱を吸い込みジリジリと空気も揺るがす土の上に、散水するスプリンクラーはクルクルと円を描いて回ってて、そしてそこにはさっきまで郭君と一緒にサッカーをしてた若菜たちが水とじゃれるように遊んでいた。

郭君は私をそのスプリンクラーの中に放り出し、私は逃げる間もなく全身で水に浸ることになった。まだ午後の授業があるのに、制服ごとびしょ濡れ・・・。信じられない顔で郭君に振り返る、けど、郭君はまた笑ってた。

なんなんだろう、この人は。人のイメージをガツガツと壊していく。

そうスプリンクラーの水を浴びながら思うけど、青くて高い青空に放たれる水しぶきは強い太陽光に照らされてキラキラ光ってて、潤った土はこげ茶色に息吹を返して、落ちてくる水がポタポタと髪にしたたって、肌をたどって制服を張り付けた。

その私の隣で、空の水を見上げる郭君の目には、深い青が映っていた。透き通りそうな白い肌に気持ちよさげに雫が降りかかって、空の青も雲の白も水の透明も全部全部、郭くんをきらめかせているみたいで。

あまりに眩しくて、一瞬目を閉じた。

わかっていたはずの太陽をこんなにも眩しいと思ったのは、いつ振りだっただろう。
ここのところ私はいつも、影ばかり見ていたから。
こんなにキラキラした世界にいるのは、久しぶり。


さん」


いつの間にかみんなと同じように水しぶきにはしゃいでいると、飛び散る水を飛び越える郭君が、ひょいとそばにやってきた。


「楽しい?」
「たのしー、すっごいたのしいー!きもちいー!海に来たみたい!」


つい我を忘れて、両手まで挙げて喜ぶ私に、郭君はふっと笑う。


「じゃあ今度、本物の海見にくる?」


太陽を背負う郭くんが目の前にいた。
郭くんの影に入って、私はぽかんと郭くんを見上げた。


初恋はまだだった。

17の夏だった。















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