海へ行こう。遠くの何かを見に行こう。 本日限りの大セール!と真赤な行書体で書かれているのに、なんだろうこの野菜のバカ高さは。やっぱり学校の合間のバイトじゃろくな稼ぎにはならないし、人間生きてくだけでも湯水のようにお金はかかるから生活はちっともラクにならない。もういっそ学校なんてやめてしまえばもっと働けるんだろうけど。朝ごはん用のパンと牛乳と、寒いから今夜は鍋にしようと安い鶏肉と白菜を買った。中身は質素だろうけど、キムチ味で誤魔化してやれ。 「ただいまー。うう寒いぃー」 ガタガタ震えながら玄関のドアを閉める。家の中は外よりはマシだけど、そう暖かいわけでもなく、ふとんにくるまってる潤慶がおかえりと顔を出した。(ああ、あのふとんも一度天気のいい日に干したい・・・) くしゅん、 ふとんの中で潤慶がくしゃみを繰り返す。ろくに掃除をしないからこの部屋は埃っぽくて私もよくくしゃみをするけど、どうやら潤慶には風邪をひかせてしまったらしい。大した食事も出来ない上にこの寒さだから仕方ないとはいえ、申し訳なくて仕方ない。 「薬飲んだ?」 「飲んだ」 「あ、またお茶で飲んだでしょ。ダメって言ったじゃんお茶で薬飲んじゃ」 「だって水冷たいんだもん」 「お湯で飲めばいいのに。今夜はねー、鍋なの、あったまるよー。ちゃんとキムチの素も買ってきたよ」 やったー。ふとんの中から、喜びきれてないようなテンションで言ってくる潤慶の声はかれている。やっぱりもっと栄養のあるものを食べさせなければいけない。薬も安くないし、この冷たい部屋に暖房だって欲しい。最低限な生活をするのだって、お金はいるのだ。 「やっぱ学校やめようかなぁ」 コンロに火をつけながら呟くと、なにそれ、と潤慶はふとんから顔を出した。 「だってすごいビンボーなんだよ。学校やめて働けばもっと暮らしがユタカになるってもんよ」 「本気で言ってんの」 「んー。でも、兄貴にゴメンって感じなんだよね。兄貴、学校だけはしつこく卒業させようとしてたから。だけど、卒業しても大学行くわけじゃないしさ」 「・・・じゃあなんで家出たの?」 「だって、英士君は退学させられないよ」 ぷつぷつと鍋の底に気泡が出来て、表面に上がってきた空気が弾ける。覗いた冷蔵庫は空っぽに近くて、やっぱり寂しい鍋になりそうだ。 「やっぱり、ヨンサなの?」 煮え出す鍋の水滴のように小さい、潤慶の声を背で聞いた。 「え、違うよ」 「そうじゃん。ヨンサが一番なんじゃん。まだ頭ん中にヨンサがいるから」 「それとこれとは違うし、そういう意味じゃないから」 ユンの顔がだんだん血色を変えていく。ヤバイ、また飲み込まれてく。 「結局ちゃんはヨンサのこと諦めきれないままでさ、」 「だから違うってば」 「どう違うのさ」 「違うじゃんっ」 「うそつくなよ!ちゃんはまだ」 「あたしがすきなのはユンだよっ」 ガッ、と潤慶が枕もとの目覚まし時計を掴んで、飛んできた時計は後ろの火にかかった鍋にぶつかって、鍋が倒れて湯を一面に撒き散らした。蒸気が白くもやもやと視界を曇らせた。 「・・・」 大きな音、壊れた時計、倒れた鍋。熱い湯が弾けて飛んだけど、熱いとすら思う暇なんてなくて、白い闇がもやもや、私の周りを囲んだ。 ユンが苦しそうに頭を押さえつけて、深く床に視線を落としてる。 なんでだろう。 泣けてくる。 ピンポーン・・・ すぐそこの玄関でチャイムの音がしても私は動けず、でも何度も何度もなるチャイムの音に潤慶が苛々した様子で立ち上がる。気が高ぶってる潤慶はバタンと荒々しくドアを開ける。 「ビックリした。急に開けないでよ」 「・・・」 一粒涙がぽたり床に落ちていくのを見た。 英士君の声だった。 「ヨンサ・・・、何しにきたの」 「何しにって、ひどいね。様子見がてら寄って・・・」 やだ、こんなところ見られたらまた心配させちゃう。私はずっと目を逸らしたまま、涙を飲み込んだ。 でも私はもう、平気で笑えない・・・ 「・・・いや、違う」 「は?」 「様子見にじゃなくて、さんもらいにきた」 「は・・・」 潤慶を押しのけて中に入ってくる英士君は、まっすぐ私の前まで来るとぐいっと私を抱き上げて肩に担いだ。 最初、あの時、兄貴の家の窓から私を連れ去ったときみたいに。 「・・・にしてんだよ、やめろよっ!」 潤慶の声が一際慌てて、でも英士君はそのまま玄関へ歩いていく。止めようとする潤慶の腕が私を掴むけど、英士君がその手を振り払った。 「下りろよっ、下ろせよっ!」 「どいて」 「なに勝手なことしてんだよ、人は物じゃないんだろ!?」 「いや、物かもね」 ぐ、と、力強く英士君の腕が私の体を支える。 「欲しいって思ったんだから」 その腕は強くやさしく、彼の独特な空気と深い安心感が織り交ざって、私を支えた。 「やめろよ、返せよっ、ヨンサっ!!」 血相を変える潤慶の声が狭い部屋で響いて、荒々しいのに今にも崩れそうだった。部屋から出て行こうとする英士君と、止めたいのにそこから動けずにただ混乱するように叫ぶ潤慶は、まるで正反対で・・。 「英士君・・」 「いいから」 英士君は、私をこの空間から連れ出そうとする。 「ちゃんっ・・・!」 慣れてるはずの私を呼ぶ声に、心臓がビクリと打つ。 「ちゃん、行かないで、そばにいてよっ・・・」 混乱して、でも必死に、強く弱い声が嘆願する。 「俺、もっと愛するからっ・・・、もっと、ちゃんと愛するからっ・・・」 「・・・」 「そばにいて・・・・・・」 溶けゆくように、膝を崩して床にうつぶせる潤慶から力が抜けていく。 「さんが決めていいよ」 「え・・」 「さんが幸せなほうに行けばいいんだよ」 「・・・」 寒い寒い世界に、小さなぬくもりをくれた。 こんなときでも柔らかく、暖かく、私を包む英士君。 私の思いを汲み取って受け止めて、そっと前へ押し出してくれる。 体に脳に染み付いた習性を押し隠して、なんでも平気そうに笑う潤慶。 誰にもわからないと思ってた私の押さえつけてた記憶を、なんでもないと言った。 ちっとも上手くできない私と、一緒にいてくれた。 ふたりとも。 私を支えていた英士君の手から力が抜けて、トンと私は、床に足を下ろされた。そっと見上げると英士君は、柔らかく私を見下ろしていた。それは最初から何も変わらない顔。私の頭にバットをぶつけてゴメンといったときも、スプリンクラーを一緒に飛び越えたときも、海に行こうかと言ったときも、私の思いを聞いてくれたときも、いつもいつも、私をやさしく見下げてた。 「・・・」 狭い部屋で潤慶が小さく蹲ってぎゅっと体を押さえてる。必死に、堪えるように、痛いほど強く。 そんなに強く握っちゃ、痛いよ・・・ 潤慶を見つめる私を目の前にして英士君は、やさしく笑った。そして私の頭にぽんと手を置いて、わしゃわしゃ、頭を撫ぜた。 「がんばれ」 「・・・」 どうしてこの人は、こうも私を見透かすのだろう。 私は一歩、英士君の前から足を踏み出して、うずくまる潤慶の前まで。小さな潤慶を、ぎゅと抱きしめた。 もっと愛するから それは、呪いの言葉かもしれない。 でも今なら、お母さんの気持ちが少しわかる気がする。 殴られても、傷つけられても、逃げることの出来ない呪い。 好きなのに、大事なのに、愛してるのに、傷つけてしまう呪い。 「ちゃん・・・」 「うん」 やっぱり私も呪われているんだ。 その弱い声を、下手な言葉を、手繰り寄せる腕を、信じたい。 貴方が私を優しく愛することが出来るように。私が貴方を暖かく愛することが出来るように。 私はここにいるよ。 ユン・・・ ・・・ 窓から差す陽気に思わず欠伸が毀れる、暖かな日。 長い冬が過ぎた、春。 「ふあぁーねみー・・・、春だなぁー」 「結人、それ何回目?」 3年になっても変わらないクラスは新鮮味もなく、気だるい空気の漂う廊下。日向ぼっこだと廊下に座り込む若菜たちにひそりと混ざって、英士君は窓から桜を見下ろす。 そんなゆったりとした昼休みに、私はカバンを持って教室へ向かって歩いていた。その私に気づいて英士君がおはようと声をかける。 「・・・」 英士君はまっすぐ私を見て。私はまっすぐ見返せなくて。 「・・・ケンカ?」 「うん」 誰の目にもつく、私のおでこに貼られた大きな傷テープ。 「ヘビーだね」 「うん」 「愛されてる?」 「うん」 それはもう。近所のお兄さんと明るく挨拶するだけでヤキモチやいちゃうくらい。 「英士君、約束覚えてる?」 「約束?」 「遠くの海連れてってくれるって」 「・・・・・・・・・アッ」 ものの見事に忘れられてようと、約束は約束だ。気晴らしに、いつもと違うちょっと遠くの海へ出かけよう。わーっと叫んで、まだ冷たいだろう水の中をじゃぶじゃぶ駆け回って、すっきりするんだ。 あのどうしようもない従兄様も、今頃心底後悔してるだろうから連れてってあげよう。仕方ないから、何事もなかったかのようなすっきりした顔で誘ってあげる。 海へ行こう。 遠くの何かを見に行こう。 そこにはきっと、この灰色の憂鬱を吹き飛ばす、極彩色が待ってる。 |
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