この世にたった一度だけ訪れる、夜明けがある
長い長い闇を超えた、光の切っ先

それは出口か、はたまた入り口か
ただひとつ確かなのは、その光は避けては通れない、絶対的力を持っているということだけ











B A M B I N A


STARTING OVER













前も後ろも囲まれた冷たい鉄壁から、ひやりと冷気が伝ってくる。
そんな硬い箱ごと、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れていた。
もう5・6時間ほど前になろうか、潮の香りとともに海の音がしたのだ。
だからきっと今は、海の上なのだろう。

ついさっきまで気を失っていた。
海は、生まれて一度も、見たこと無かった。

耳に入ってくるのは轟々しい機械音で、一部の隙も無い四方は外の景色どころか光すら差し込ませていなかった。
たまに人の話し声が聞こえたけど、それはただの恐怖でしかない。
こんな暗闇で思い出すのは、一番鮮明で真新しい、瞼にこびりつく赤だけだ。










・・・突然外から人が駆け込んできて、やけに慌てた形相と口調で家の中にいた村長に何かを告げに来た。
それが話し終えるより早くにどこかで、銃声が響き渡った。
訳も判らず押し寄せる、足並みの揃った黒い波。
騒々しい足音と、抵抗しようとする熱気と、遠くまで響く銃声と、泣き叫ぶ子供の声、消え行く悲鳴・・・。

何が起きてるの・・・?

鍵のかかったドアをガチャガチャと回して戸を叩いていると、急にドアが開いて慌てふためいた女が顔を出した。
それは、母親だった。
どうしたのと問うより先に目に付いたのは、彼女の服についたおびただしい鮮血と、重く大きな猟銃。
上半身のほとんどを赤黒い血で染めて、あまりの生々しさに背筋にぞわりと寒気が走り、ゆっくり母の目を見上げた。


『逃げるのよっ』


怒鳴るように裏返った母の声と血走る目は、ビクリとの肩を揺るがせた。
強く腕を掴まれて部屋から引っぱり出され、裏口のドアを押し開けて裏山へ駆け込んで、・・・。
木の蔓に肌を掠めても木の根に足を取られても、母はを掴んで急ぎ走った。
何があったの、どうしたの?
仰々しい表情で前を走る母に何を言っても帰ってくる言葉はなかった。
それよりも一歩でも前へ、前へ、山の奥深くへ、足を進めた。

意味も判らず引っ張られているは、ターン・・・と、遠くで響いた銃声を聞いた。
またビクッと心臓を響かせて思わず目を閉じると、どんっと前の母とぶつかってしまった。
目を開け前を見ると母の結い束ねてある後ろ髪が目に入り、それはそのままぐらりと揺れて、地面に倒れていった。


『お・・・』


もともと血の滲んでいた母の服に、また新しい、色鮮やかな赤が滲んでいった。


『おか、おかあさん・・』


震える口から言葉が漏れ、は地面に膝を着いた。
その体に手を添えると、白い掌にべっとりと鮮血が移った。

いたぞ、こっちだ!

後ろから複数の声と足音が聞こえてきていた。
がさがさと草を掻き分けるような、今までよりもっと深い闇色した何かが襲ってくると判った。

・・・でも、振り返ることも出来なかった。
目の前に母が倒れている。
ゆさりゆさりとその細い体を揺すっても、重く揺れるばかりで薄い声ひとつあげてはくれなかった。

ガッと幾つかの手に両腕を掴まれて体が自然と母のいる地面から遠ざかる。
引きずるように連れて行かれても、の目は倒れている母から離れることは無かった。
誰も、倒れている母に目も留めない。近寄ろうともしない。
動かない母の体だけが草の中に取り残されていた。
両の掌にしっとりと感じていたぬるいものが、外気に触れると同時に乾いて、パラパラとこぼれていった。










それからこの狭い箱の中で、どのくらいの時間が経ったか判らない。
でもどれだけの時間が経とうとも、この暗い中で思い出すのは倒れていく母の匂いと、手にこびりついた赤だけだった。
自然と熱が目に集中し、今まで出なかった涙が毀れて頬に筋を作った。
手の甲に落ちた涙は冷たかった。

すると、突然外で唸っていた機械の音がけたたましいブザーによってかき消された。
この重厚な鉄の壁では外の音すら遠い場所のことのようなのだが、あまりの騒々しさはまたの胸をかき乱した。
鉄に銃弾が跳ね返るような振動が響く。小さな人の声も聞こえる。
また何かが外で起こり、自分に襲ってこようとしている。
は乾いた頬の筋をこすり、出来る限り後ろへ下がってその身を小さく壁に寄せた。
出口も無いこの箱の中でそれがどんなに無意味なことかは判っていたが、萎縮した心が自然とそうさせた。

しばらくして外はまた静けさが戻った。
何があったのか判らないが、もう何も騒がしい音はしていなかった。
元通り船の動く機械音が響いているだけ。そしてそのまままた、どれだけかの時間が流れた。


・・・また幾つかの時間が経った頃、響いていた機械音すら止まった。
船がどこかへ着いたようだ。
そしてガタン、と重く、この狭い四角い鉄の箱が開かれる音と共に、光が差し込んだ。
眩しくて目を細め、は目の前に手をかざしてそれでも光の先を見た。
ぎぎぎ・・・と重く扉が数人掛かりで開かれ、その光の前にひとつの、人影が見えた。


「・・・」


カツン、と、この鉄の箱の中に足を進める靴の音がして、それと同時にその人影が自分に近づいてくる。
はまた恐怖に駆られて、もう行き場の無い後ろに身を寄せた。
暗闇と光の合間で目をぎゅっと閉じていると、ガッと顎を掴まれて引き上げられる。


「目を開けろ」


・・・低い、抑揚の無い声がつい目の前で発された。
それに促されるようにそっと目を開けると、ぼやりとした視界の中に人の顔を捉える。
白い手袋をはめた手がカチカチ震える顎を支え、ほんの目前からその目は刺すようにの目を見下ろす。

その先にいたのは、男だった。
光を背に目がほんのりと赤く光り、その引き締まった表情は行儀のよさそうな、だけど大きな野心を持ったような顔立ち。
浅い呼吸を繰り返すは静かに息を呑んで、打ち付ける心臓の痛みに耐えつつその目の前の男を見つめた。


「・・・ふぅん?」


逆光でよく見えない男の口端が、愉快そうに上がった。
そうしての顎からその手は離れ、その男もまた体を翻し鉄のコンテナから出ていった。


「この女とそこの安息香だけ貰う。後は好きにしろ」
「え?全部?いいのかっ?」
「ああ」


コンテナの外で陽気に喜ぶ声が大きく沸く。
また別の人間がコンテナの中に足を踏み入れてくると、その手に持っていた麻の袋をの頭から被せた。
そうしてまた視界が消え、ぐんと体が浮き、担がれてどこかへ運ばれていく。

いわれのない恐怖にまた歯がカチカチと震え、涙がつと鼻先を辿って落ちていった。


何も見えない暗闇にじゃない。

何も見えない行く先に、拭いようのない恐怖を感じたのだ。
















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