心から溶けてゆく。 消えてゆく。 B A M B I N A 人は理解を超える絶望に当たったとき、ただただ、力を失う。 気力も、その手を握る力も出なくなる。 未来をかき消され、自分のすべてを否定され、屈辱を強いられて、それらすべてを受け入れなければならないのだから、だからもう、心を殺すしかないのだ。時間はとどまることを知らずに、今日一日を動き始めている。 窓の外はもう明るい日差しが滲んでいた。 昨日から出掛けていた主人がいつまでも帰ってこないものだから居残っている使用人たちも寝ずの番で、明け方になりようやく帰ってきたかと思えばまたあれやこれやと仕事を言いつける。暴れたくる子じゃなくて本当に良かった、と英士は眠たげに肩をこきりと鳴らし深い息を吐いた。 「あれ英士、まだいたの?」 「うん」 「きのうなんかあった?」 「新しい子がきた」 「へー、久しぶりだな。レイ以来だ」 使用人部屋に戻ってくると、朝の当番である圭介がはつらつとした顔でそこにいた。世間的にはようやく人々が起き出そうかとする時間だというのに、圭介は欠伸ひとつしない。朝はあまり頭の回転が良くなく、その上徹夜の英士にとってその笑顔と声のトーンは眩しすぎた。 「で、もう帰れんの?」 「離れの掃除しなきゃいけないんだ」 「離れの?あの離れ使うの?」 「うん」 「へー、使うんだ。てか掃除くらい誰かに頼めばいいのに。おっと俺はダメだぞ、朝飯とーばんだから」 「じゃあ誰か来たら離れに来るように言っといて」 「おー」 この屋敷で働く使用人は、2種類に分けられる。屋敷の中で働く者と、外で働く者。門番や庭師など屋敷内に入らずに働く人間は普通の庶民なのだが、英士を始めとする屋敷の中で働く使用人たちは皆使用人用の屋敷に住み、許可なく外に出ることも許されない。屋敷内で見聞きしたことを世間話程度にも漏らすことは許されず、徹底して屋敷と主人に仕えることが義務付けられていた。 それらすべてがこの屋敷の主人、西エリアを統括する大佐・三上亮の、潔癖で疑り深い性格を現すようだった。 「でもまたなんで離れなんだ?大間じゃなくて」 「さてね。よからぬとこから引っ張ってきたんじゃないの」 「よほどのお気に入りか。とすると、レイももう終わりかな。今回の子はどんな子なの?」 「べつに、普通の子。ああちょっと、変わった目の色してたかな。あれは俺も初めて見た」 「はーん、目つけたのはそこだな。でもひとしきり愛でたらさっさと厭きちゃうんだろうなー」 「だろうね」 やや重い身体を立たせ、英士は離れの鍵を持って部屋を出ていった。 が風呂から出る前に綺麗にしておかなくてはいけないのだから少々急がなくてはいけない。いくつもの部屋のドアが並ぶ赤じゅうたんを歩いていき、その突き当たりにあるドアを押し開けた。 そのドアの向こうは外になっていて、屋根のついた短い渡り廊下がまた少し離れて建っている小さな部屋に繋がっている。 そこが”離れ”。 この屋敷には主人の慰めものとなっている売られてきた女が数人いるが、それらは皆一様に広い大間に住まい屋敷内では自由に行動していた。 でもはこの離れに置き、その上英士だけを世話役に就けたところから何か訳ありなのだろうと推測されるが、どんな事情があろうときっと、そう驚きはしない。何をしてもおかしくないというのがあの男だ、とここの使用人たちは誰もが知っていた。 ゆるりと盛り上がる橋のようになっている渡り廊下からは美麗な中庭が見ることが出来る。この夏が過ぎようとしている季節、まだ原色に輝く花々が花壇にひしめいていた。 今年になって庭師が変わったおかげで、やけに花の種類が増えたのではないかと思う。前の庭師はどちらかといえば情景にこだわる庭師で、枯山水や植木の形など、アーティスティックな雰囲気が漂っていた。今の庭師はどうやら、香りにこだわる庭師のようだ。 少しずつ温度が変化するたびに多様な花が姿を見せ変えて、邪魔にならない程度に代わり代わり咲き誇る。香りや彩りで季節の移り変わりを知らせている。屋敷を囲む木々は少しずつ色を落とし、花も原色から淡色へと代わっていく。そんな庭が一番良く見えるのは、中庭の端にぽつんと建っている、この離れだった。 離れの部屋は広くないが、ここ数年使っていなかっただけにかなり埃が溜まっていた。一人で掃除するにはかなりの重労働だ。ドアを開けたまま部屋の奥の、鉄格子のはまった窓を上に開けると外の光が差し込んで埃がキラキラと光った。 「えーしっ、えーし!」 部屋の埃を外へと逃がし始めた矢先、荒々しい大きな足音と共に圭介が叫びながら離れに駆け込んでくる。徹夜の疲れで少々鈍い反応を返す英士はその大きな声に煙たがり、息を切らす圭介の言葉を聞いた。 「ヤバイよ、来て!」 「どうしたの」 「レイがナイフで手首切っちゃったんだって!」 「・・・」 また厄介なことを・・・。 重い思考は物事すべてを鬱陶しく感じさせた。 「傷深いの?」 「いや、今応急処置してるから命とかは大丈夫だと思うけど、でもこんなこと大佐に知れたらさ・・・」 「言わなきゃ医者も呼べないよ。早く黒川呼んで、大佐のとこには俺が行くから」 「わかった」 またバタバタと走っていく圭介の後に続いて離れを出る英士は三上の部屋に急いだ。一度浴場へを見に行ったほうがいいかと思ったが、あの状態だ、今は逃げる気力もないだろう。 手首を切ったというレイの傷がどの程度かは判らないけど、レイのことだからきっと本気ではないと思う。そうやって自分に目を向けたいだけ、三上の気を引きたいだけ。 まったく女という生き物はどうしてこうも、たった一人の男に異常なまでの依存を見せるのか。齢十七にしてはやけに浮世的なことを思った英士は、足早に主人の部屋に向かった。 ドアをノックして中に入ると、三上は英士がこの部屋から出たときの体制と同じまま、資料が積まれた机の上に頬杖ついてまだそれらに目を通していた。きのうからいつもどおりの軍事を行い仕事をこなし、そのままどこかへ夜通し出かけ帰ってきて尚これだ。さすがにその顔には疲れや眠気が垣間見れるが、部屋に入ってきた英士に目をよこす三上は低く何の気持ちも見られないいつもの音程で「なんだ」と問うてきた。 「レイが手首を切って、自殺を図ったそうです」 三上はそれを、資料に目を落としたまま聞いた。 「処置をしたので大事には至ってませんが、黒川を呼びました」 「ああ」 「・・・」 ああ。 それだけ。 「お前、あいつはどうした」 「・・・、さっきの子ですか。まだ風呂に入ってると思いますが」 「思います?お前はあいつの世話しろっつっただろ。何が思うだよ」 ぎしっと椅子に重く背もたれて、三上は手にしていた資料をバサッと机の上に放った。じわじわと光度が増す部屋の中で機嫌悪そうに目を瞑り、椅子から立ち上がって歩き出す。 「大佐、レイは」 「もー要らねぇ。処理しとけ」 「・・・出すんですか?」 「自分だけ死のうとしただけあいつにしちゃ利口だぜ。あれは離れから出すなよ、傷つけられちゃたまんねぇ」 また欠伸を噛み砕く、その眠たげな頭にはもうどこにも、レイの存在などない。 「ああ、黒川に夜も来いって言っとけ」 「夜?帰り早いんですか?式典があるのに」 「あんなもん俺に関係ねーよ」 窓から刺す新しい陽を煙たがるように、三上は寝室に入っていった。 「・・・」 “あれ” “要らない” “処理” まるで物だな。 英士は今更わざわざ思い返すまでも無いことを、改めて思った。 誰もいなくなったその部屋から出て、英士はのいる浴場に向かった。 廊下の先ではばたばたと慌てる足音が聞こえている。 角から慌てて走り出てきた圭介が、英士を見つけてまた駆け寄ってきた。 「英士、大佐なんて?キレてた?」 「べつに」 「え、ほんとに?」 「うん」 あー良かったー。 心底胸を撫で下ろす圭介はほっと力を抜いて安堵の息を吐きだした。 何もない。 罰も、救いも。 「レイは?」 「今黒川が来て傷は塞いだけど結構深かったみたいでさ、ずっと大佐のこと呼んでる」 「手当てしたら外に連れてって」 「え・・・」 外に連れて行くことは、この屋敷から開放されるということ。 この籠のような、鎖のような屋敷から解き放たれて自由の身になるということ。 外を夢見て空を見上げていた頃には手に入らなかったもの。 それを、根こそぎ羽をもがれた今、与えようという。 その怖さが、判るだろか。 その先のどこに、行く先がある。 それのどこを、自由と呼べる。 世界を狭く作られた人間に、この世は広すぎる。 明日がどっちの方向にあるかなんて判らないよう、作られてしまっていたのに。 |