高い青空に清々しい風が舞う。夏の名残を一掃してゆく。 強い風に追われるように、季節はまた姿を変えてゆく。 B A M B I N A クレマチスの花の形をあしらった紋章を持つ、帝国。広大な帝国を東西南北の4つの区分に分け、その中心に聳え立つ壮大な城がこの帝国の中心だった。 城では今日、厳かな式典と盛大なパーティーが行われていた。皇帝の第一子である皇太子の15回目の生誕記念日なのだ。 15歳といえばもう成人とされ、世継ぎの為に国事にも参加するようになる、大事な年。見た目こそまだ若く幼い王子が、高貴な勲章と地位と名声を背負い王になるべく動き出すのだ。城に集まった貴族・皇族・隣国の王。城下の何百もの民もそれを喜び祝う。式典が終わった今、すっかりお祭り気分の城内には延々と音楽が流れ、権威と豪華さを競うような服を纏った選ばれし者たちはおそらく夜までこの空気を楽しむのだろう。 抜けるような晴れ晴れとした水色の空なのに、何かに侵食されるような泥臭い色が混ざっているように見え、三上は咥えていた煙草の煙を口端から逃がすとペッとそれを下へ吐き捨てた。 三上が今いるのは城のバルコニー。下を見下ろせば城の前に豪勢な車で到着する貴族たちを出迎えたり城の警備をする人間が蟻のように見える。手すりに腕を突いてそれを見下ろす三上は、すぐ隣にかけている軍服の内ポケットからまた一本煙草を取り出し、金色のライターをキンと開けて火をつけた。 その三上の後ろから「あ、いた」と声を漏らして近づいてくる足音に、三上はゆっくりと振り返る。 「何してるんですかこんなところで煙草なんて吸って」 「煙草吸ってんだよ」 その姿を目に入れると、三上はまた外に顔を戻して煙を吸い込んだ。 近寄ってきてすぐ後ろで呆れるように小言を言う青年は、まっさらな軍服の胸に少佐の称号をつけた、笠井。 「軍服もちゃんと着てください。城の中で不謹慎ですよ」 「何しに来たのお前」 「大臣が探してらっしゃいました。下へ一緒に来てください」 「げ」 「げじゃありません。大体式典の途中からいなかったでしょう!そんな大佐がどこにいるんですか」 「うるせーな。渋沢に置いてかれたからって俺にあたんなよ」 「お、俺は大佐から留守を守るよう言われてるんです!別に置いてかれたわけじゃ・・」 「どーだかなぁ」 すぐ後ろでぎゃんぎゃんとまくし立てる笠井は、三上の部下ではない。 三上の仕切る西の隣、北エリアを仕切る渋沢の部下だ。その渋沢は1ヶ月ほど前から他国に遠征に行って留守にしている。その軍事についていくことの出来なかった笠井はそれでもしっかりと留守を守ろうと張り切るのだけど、三上にとってはただうるさいだけ。 お前がうちのヤツじゃなくて良かった、と三上が言えば、笠井だって「お互い様ですよ」といった目をよこす。いくら急かしてもゆっくりと煙草を吸い続ける三上に、笠井はまた苛々と眉間の皺を深くした。 「渋沢、いつ帰ってくるって?」 「判りません。でも長引きそうだといってたので、半年は戻らないかと思います」 「たかがちっせぇ国引き入れるだけでなんでそんなかかるんだよ」 「大佐は力で引き込むような真似はしないんです。あくまで話し合って互いの利益を考えて納得した上で・・」 「んなこと言ってっからいっつもそんなメンドくせー役押し付けられんだよ」 「貴方が嫌がったから渋沢大佐が行くことになったんでしょう!大佐は他にも多くの仕事を抱えてるっていうのに・・・、まぁ貴方じゃ話し合いなんて絶対に無理だと思いますけど!」 「無理だなぁ」 煙と一緒に無気力な言葉を空に放つ三上は、短くなった煙草をまた手すりの外に吐き出す。なんてことするんですか!と手すりから乗り出し落ちていく煙草を見る笠井の隣で、三上は軍服を掴み城の中へと戻っていった。その身勝手な行動と思考に、笠井は心底この人の部下じゃなくて良かったと口の中でかみ締めるのだった。 「大臣てどこの」 「国務大臣です」 「あーあ」 服を着て整えながら城の中へ戻っていくと、中の広いフロアには正装した貴族で溢れていた。 料理と音楽をお供に葉巻と香水の匂いが混ざり合う図は一種の地獄絵図のようで、その中に足を踏み入れるのかと思うとウンザリする気持ちを隠せないが、三上はテーブルの上のミントの葉を一枚プチリと千切り舌に乗せ、まっすぐその中へ混ざっていった。 近くを通った人々は、特に綺麗に着飾ったドレスの貴婦人たちは、お喋りの口を止め三上に目を集める。 濃紺の生糸で紡がれた鮮やかな軍服に大佐の腕章。三上の年でその出世は異例で、少なからず誰の口にもその名が挙がるほどの話題性を持っていた。それに加えすらりとした体格、シャープな顔つきと黒くまっすぐな髪、その下から覗く妖艶な目つきがまた貴婦人の間では噂を引き、通りすがりにチラリと目を流されるだけで女ならほうっとため息が毀れるほどの魅力を兼ね備えていた。 中にはもちろん、批判の声だって聞こえる。妬みからか「どこの大臣の娘をたぶらかしたんだか」というような声も聞こえてくる。そんな言葉にはまったく見向きもせずにまっすぐ歩いていく三上だけど、後ろの笠井は噂の方に目をやってはその言動を制止するような目つきを返す。笠井にとってこの前を歩く男は尊敬とは言いがたくても、その実績と体制にはそれなりの念を抱いているのだ。そんな噂は気持ちよくない。 「お久しぶりです」 「おお三上君、待ってたよ」 まっすぐ行き着いたテーブルにいた恰幅のいい男性に声をかけ、差し出された手に三上は同じく白い手袋の手を重ねる。 酒も混じり陽気に大きな笑い声を響かせる大臣の前で穏やかに受け答える三上を見て、後ろの笠井は訝しげな目をした。その代わり身の速さには目を疑う。品行方正に話す三上からどうやったら城の上から煙草を吐き捨てるような想像がつくか。 「今日は君に孫を紹介しようと思って連れてきたんだ」 この場の誰の話を聞こうとも必ずその奥、裏には私欲が入り混じっている。どんなに軽い世間話だとしてもそれは人の不幸か自慢かのどちらかで、そうでもない場合は大抵が繋がりの確保だ。 紹介された若い娘は、大臣の少し後ろで軽くしゃなりと身を落とした。長い巻髪がさらりと揺れシルクのドレスがふわりとなびく。ピンクのルージュに笑みを乗せて、じっと見つめ上げる目には思いを含んだ深さを感じる。三上は同じような含みのある目でほのかな笑みを返し、彼女のしなやかな手を取り軽く口付けた。 「君の事を大層気に入ってるようでな、どうだ、一曲踊ってやってくれんか」 「もちろん」 三上の差し出す手に白い手を乗せて、テーブルの間を抜けて広いフロアに出ていく。 曲に合わせて何組もが踊っている中にそっと混ざり、細い腰を引き寄せて力強くリードする三上の腕に娘は目を潤ませた。その姿は自然と周囲の目線を集めていた。 「・・・お久しぶりね」 「ええ」 「ダンスもお上手ですのね」 「嗜み程度に」 小さく交わされた言葉は二人以外誰の耳に届くこともなく、流れる曲にかき消された。 紹介され軽い挨拶を交わしたけれど、それが二人の出会いではなかった。重なる手も腰に沿う手も、寄り添った身体もその匂いも、高くから見つめられる目も、肌に口唇が触れたことも、初めてではなかった。 高い位置から降ってくるその視線から、目が離せない。絡みつくような空気が肌をチリチリと刺激する。ターンしてぐっと腰に沿う手に力が込められるたび、娘は心も身体も締め付けられる思いで更に目を潤ませた。 「最近来てくださらないから」 「今は仕事に時間を取られすぎていて」 「聞いたわ、お忙しいのよね」 「また近いうちに」 「ほんとう?」 ふと細まる三上の瞳に娘は体内に熱情が湧き上がるのを感じた。切れ長な深いその目が、たまらなく好きなのだ。絡みつく目線が瞳から体内に入り込んで骨も血も心も溶かす。今目の前に感じる三上の存在すべてが、ある日の夜を思い出させる。それだけでもう、立ってなど入られないほどの脱力感に襲われる。 今にも崩れそうな身体を三上はしっかりと支えながら、じわりとその腰周りに手を滑らせる。自然とその身体はピクリと反応を見せた。そんな、自分の手先ひとつで砕けてしまいそうな目の前の娘に、愚かな生き物だと三上は模った淡い笑みを与えながら思う。いつかの記憶と快楽にいまだ全神経を囚われて、こんなにも潤いを引きずっている。今この耳に囁きかければそれは呪文のように脳内と身体と精神を支配して、三上の言うことすべてを聞いてしまうだろう。 あの夜のように。 『・・・言い伝え?』 『ええ・・・、古い伝説で、お父様もみんな、災いの予言を案じてるから、今、それに夢中で・・・』 高ぶった気持ちは吐息となり、声となり、身体の奥から熱く毀れてくる。敏感な肌にひたりと指を添えれば全身が跳ねそうなほど反応を返し、どろりと性を煽る。きゅと力を入れてくる手を握り返し、突き出された胸の先をそっと食めばまた喉の奥から高い声が漏れた。 『その鍵が実際にあると?』 『東のほうの小さな国に、あるんじゃないかって、噂が、あっ・・』 『それに帝国までが?』 『貴族の間では、有名な話で・・・、でもそれが皇帝の耳に入・・って、・・・』 『・・・ふぅん』 髪に指を梳かせればその手に甘えるように頬を寄せてくる。閉じきらない口に舌を滑らせれば熱く返し、浅ましいほどに求めてくる。息をつく間も与えないほど繰り返し、苦しげに離れ口唇の前でまた言葉を誘えば簡単にするりと喉を通ってくるのだ。 『東のどこに?』 『それはまだ・・・、でも、皇帝はもう、何か知ってるんじゃないかって、お父様が、あっ・・・』 『それから?』 『あ、待って、もぅ、あっ・・・』 『もう?まだ早いだろ・・・』 『あ、んんっ・・・』 刺激を煽れば身体なんて、脆く崩れてしまう。意識なんて軽く飛ぶ。快楽に呑まれ、自分のすべてが愛しくて堪らなくなり、すべてが正当化される。 時間にも金にも余裕のある貴族の絵空事。生きることに懸命な民が聞けば鼻で笑ってしまうほどの御伽話。それに世界で一・二の勢力を持つ帝国までもが浮かれ没頭している。 軋むスプリングと同調して毀れる声が部屋に充満する。指ひとつで狂ってしまう目下の女に落とす哀れな視線は、届きやしない。自分の快楽で頭がいっぱいだ。なんて素直で従順で、簡単な生き物か。 女なんて。 「お帰りになるんですか?」 「ああ、後はテキトーに言っとけ」 「俺がですか?そんな、なんて言えば」 「ひじょーにじゅーよーな任務があってとかなんとか言っとけよ」 「そんな嘘つけませんよ!」 「使えねぇな」 押し寄せる女の誘いの波から抜け出てきた三上の後について、笠井も一緒に外まで出てきた。その軍服を着ているだけで周りの女の目が変わることを、少佐の地位についた笠井もここ最近思い知ったのだ。一人であんな会場にはいられない。 「大佐、踊れるんですね」 「そんくらいできねーと出世できねぇぞ」 「そんなの関係ないじゃないですか」 「馬鹿か、出世は実力なんかじゃねーんだよ。血筋とコネと世の渡り方がなけりゃ所詮上には上れねんだよ」 「そんな、確かに渋沢大佐は代々城に仕える家名を持ってますけど、でも三上大佐は・・」 前を歩く三上がまた軍服を脱ぎ首周りを緩めると、軍服から帝国の紋章を象ったピンが跳ね落ちた。笠井はすかさずそれを拾い三上に差し出すけど、三上はそれを見下ろし、鼻で笑う。・・・それがなんの意味を持つのか笠井には判らなかったが、差し出すそれを手に取る三上はまた出口へ歩いていった。 「教えてやろーか」 「何をですか?」 「踊り。ああでもその前に背ぇ伸ばさねーと、その身長じゃあなぁ」 「・・・!!」 三上の乗る車の前までついてきた笠井は「お疲れ様でした!」と身を翻しどしどしと城のほうへ戻っていった。その姿に車に乗り込む三上はさっきとは別の笑みを放った。 まだ城では賑やかな音楽が鳴り響いている。夕暮れの中を走る車の中で暑苦しい手袋も脱ぎ捨てると、走る車の振動で隣に置いている軍服から先ほど落とした小さな紋章の入ったピンがまたカシャンとシートの上から落ちるのを見た。 少し力を入れて握れば簡単に壊れてしまいそうな、ちっぽけなもの。 でもそれは、あのすべての中心に聳え立つ壮大な城と同様に絶対的な力の象徴でもある。 そんな小さなピンを見下ろし、三上はそれを拾うことも無く、窓の外に視線を移した。 そっと眉を寄せ目を細め、どこに目を移そうともついて回る帝国の象徴に、嫌悪した。 早く日が沈んで闇の世界になってしまえばいい。 暮れていく太陽を急かすように睨み、三上を乗せた車は屋敷へと流れるように走った。 |