夜が光を飲み込んで、その意味すら飲み込んで、 流れ、流れ、残るものは・・・ BAMBINA 仕舞い込まれるようにして連れてこられた部屋は、大きな屋敷から少し離れた小さな部屋だった。部屋には鉄格子のはまった窓が一枚あるだけで、昼でもどこか薄暗い。 しかし格子の間から見える庭は、美しかった。この窓を開けることが出来たらあの花々の香りがするだろう。きっと清らかなあの花々の香りの変わりに濛々と香が焚かれていた。濛々と煙が立ち込めるほど部屋中に篭って着物に自分に染み込むようだった。 「少し顔が青いね、一度眠ったら?」 持ってきた食事に一向に手がつけられた痕跡の無い様子を見て、英士は窓辺で椅子に腰かけているに声をかけた。日はもう傾いていて、英士も朝、あの後使用人屋敷の自分の部屋に戻り睡眠をとって今また戻ってきたところなのだ。 頭にも目にも身体にも力が入らずにぼんやりと窓の外を見ているは、あれほどまでに長く感じた一日の中で一睡もしていない。顔色が悪くなるのも当たり前、憔悴して普通に呼吸することすら喉が支えて荒くなるほど。 だからといってこんな状況、こんな場所で安心して睡眠など取れるはずもない。 「少しでも食べれば眠れるよ」 「・・・」 「じきに大佐も帰ってくる。その前に少し休んだほうがいい」 窓辺に近づいてきた英士がカチャンとの前のテーブルに盆を置く。ずっと窓の外を見ていたは一度食事に目を落とし、英士を見る。その瞳は夕陽の光を吸収したのか反射したのか、キラリと光って瞬いた。 その瞳を見て英士は本当に不思議な瞳をしていると思った。まるでそのもの自体が黄金かダイヤモンドのよう。この屋敷に溢れているような、高価なもの光り輝くものが好きなあの人にはツボなのかもしれないなと思った。 少しだけ合わさった目をすっと離した英士が小皿にとったおかゆを差し出して、またそれを見下ろすはゆっくり手を伸ばし受け取った。その皿から冷たかった手に暖かい熱が滲む。オレンジ色をした夕方の陽光も手の中の皿も暖かい。なのに身体の中心は凍える程に冷たくいつまでも震えているような感覚に襲われていた。 未来への寒気か、現実の不安か、過去の記憶か。 何が見えているのか判らない目でおかゆを見つめるの前で軽く息をついた英士は、の手から皿を取って一口分のおかゆをスプーンに取りの口に差し出した。また英士に目を合わすを促すように英士はまた少しスプーンを近づける。その匂いがこのむせるほど香の炊かれた中でひそりと香って、鼻から口へ喉へと下りていった。 少し口を開けると英士は巧い具合にその口におかゆを入れる。鼻で香っていたおかゆの匂いは空腹と疲れた身体には染み渡るようだったのに、口に入ってきた異物感と直接的な匂いが喉に支えて胃からぐっとこみ上げる感覚がした。とっさに口を閉じ顔を背けたの口端から米粒が毀れて、着物の上にぽとりと落ちる。それをまた英士は綺麗に取り除く。 「ゆっくりでいいから、食べれるだけ食べて」 の前にことんと皿を置き、英士は夕陽の差す窓辺から離れていった。 この離れには風呂もトイレもついている。人が生活するにはなんら困らないだけの最低限な物は揃っている。ここ数年使っていなかっただけに埃にまみれていて、英士は風呂場の掃除に戻っていった。 その英士がたてる音をはぼんやりと聞いて、少しずつ消えていく夕陽の下でまた目を伏せた。茜色した雲が太陽を包み、広い空を奥のほうまで輝かせては、消えていく。山のほうから夜がやってくる。この世にはどうして夜があるのだろう。何があろうとなかろうと、強制的な闇は何度でも、またやってくる。 結局一口二口しか進まない食事を終えて、部屋の中に小さな明かりがついた。 掃除を終えて戻ってきた英士がに小さな包み紙を差し出す。その中には粉薬が入っていて、水も一緒に差し出す英士が「眠るための薬だ」と教えた。食事すらまともに通らない喉に粉薬が通るはずもなく、水で半ば無理やり飲み込んだ。咳き込むとその苦い味が口に中に広がり、篭った香の匂いも手伝って吐き気が襲う。ただでさえ衰えた身体が更に重く感じた。 寝たらいいよ。何も考えずに、眠ればいい。 英士の声が一枚壁を隔てた向こうから聞こえるような気がして、でもその声はすっと耳から脳へ届き、睡眠を誘った。 昼でも夜でも目を閉じれば世界は闇ばかりで、睡眠が安らぎとは思えなかった。 音もない、光もない場所で小さく、消えていきそうだった。 元よりこの世に、お前などいなかった。 そう、言われてる気がした。 たゆたうような眠りの世界で、身体の奥から何か流れ出る感覚がした。 流れ出るというより、溶けていくというか、消えていくというか、とにかく何か、何かがなくなっていく。 そんな、無に近い、夢。ただ、喪失感だけが、残るような。 身体から水分が蒸発していくと錯覚するほどの渇きを覚えた。吸い取られてカラカラと渇き、指先から崩れていきそう。喉がひっついて息が出来ない渇きには目を覚ました。 どれだけ時間が経ったか判らない真っ暗な部屋。ドア口に赤い傘を被った小さな明かりがぽつりとついているだけ。 周りに人の気配はなく、そっと頭を動かすは目を凝らし視線を漂わせた。 すると、窓辺のテーブルの上に水が入ったポットが、外の月か星かの明かりに照らされて見えた。水分が欲しい。ゆっくり身体を起こしベッドから床に足を下ろすは立ち上がろうと足に力を入れ、その途端、足に力が入らずその上身体の真ん中を鋭利な刃物で一突きされそのまま傷口を押し広げられるような、今まで感じたこともない激痛が全身に走った。 どさりと床に倒れこみ、うずくまって腹を押さえ込む。えぐられるような痛み。身体の中を激流のごとく駆け巡る血液が破裂しそうなほど血管を膨らませているような。自分で自分を痛いほど押さえ込まなければ身体の真ん中から裂けてしまいそうだった。 「まだ動くには早い」 低い音で、上手く聞き取れない誰かの言葉を聞いた。あまりの痛みにそれは脳までは届かず、その言葉も内容も理解できなかった。ただ音がしたほうに痛む下腹部を押さえつけながら目を上げると、暗い中で誰かの人影が見えた。 英士ではない。もっとしっかりした体つきで、背も高い。声も違う。浅黒い肌の色はこの暗い部屋では闇に溶けそうなほどで、静かなのに尖っていそうな目をしていた。 その人影が傍までやってくると、痛がるの身体をぐいと起こし右腕を引っ張り袖をめくった。は激痛にこらえるので精一杯で腕を引かれることすら大きな衝撃を受けるほどで、そんな様子に目もくれずにその誰かはの手首を軽く押さえ、じっと何かを待っていた。かすむ目で、その手の中に懐中時計を持っているのが見えた。 「薬が切れるのが早かったな。もう少し眠っていたほうが楽だっただろうに、悪い夢でも見たか?」 「・・・」 「出血してるな。痛み止めをやるからそれでもう少し眠れ」 ずっと遠くのほうから声が聞こえているような感じがした。 何か熱いものが纏わりついているような感触がして自分の足元を見ると、座り込んでる脚回りの着物がどろどろと染まっているのを見た。足の間からどくどく脈打つ熱が振動を伝え、生温かくて感触の悪い滑りを覚えた。 止まらない出血。響く激痛。 何が起こったのかと考えることも出来ない。 「英士、白湯を持ってきてやれ。そのほうが飲みやすい」 「はい」 その男の後ろで英士の声がした。 小さく呼吸を荒くするはぐっと手に力を込めたまま、そのほうに目を動かす。 目線を何とか上げ部屋から出ていく英士の後ろ姿を目に入れると、英士が出ていくのと入れ替えに入ってきたあの男の姿に、はビクリと身体を揺らした。 「しばらくは絶対安静だな」 「どのくらいだ?」 「少なくとも2・3週間は」 「長げぇな」 「普通だろ、手術の後じゃ」 ぞわりと身の毛がよだつ。その姿を見ただけで、身体が硬直して口唇が震える。 暗闇のような恐怖が襲ってくる。 あの目が、ほのかに笑っているようで冷たく刺すこの目が、骨の髄まで凍りつかせる。 三上が一歩部屋の中に足を進めると、は動かない身体で反射的に後ずさった。でも身体が言うことを聞かず激痛が身体の奥を走って、床にうなだれてうずくまる。どろどろと身体の中から流れてくる血液が、この男からもたらされた痛みと感触を思い出させた。 「動くな、出血しすぎて死ぬぞ」 「っ、・・・」 「もともと手術できる体調じゃなかったからな、1ヶ月は様子を見たほうがいいかもな」 「何とかしろよ、医者だろ」 「俺は医者で神じゃねーよ」 他の音は何も通さなかった耳なのに、床に這う自分に高いところから降ってくるあの男の声だけは、こびりつくように残った。 いったい、何をされたというのか。 痛みに歪む目の奥で、は睫を涙で滲ませながら、あの男を見上げた。 そのの悲壮の漂う目を見下ろして、また三上が口端を上げる。 「人形に生殖機能があっちゃ困るからな」 くつくつ、くつくつ、暗い部屋に薄い笑い声が漂った。 世界が音をたてて崩れ、自分もろとも飲み込まれていく気がした。 薬を飲み多少の痛みは引いたけど、身体の奥から流れる出るものが、いつまで経っても止まらないような気がしていた。今までそこにあった、しっかりと感じていたものがごそりとなくなった喪失感が、立ち上がる力も、考える力も、指先一つ動かす力も吸い取っていった。 その、身体の中からなくなったもの。 今のが、それがどれだけ重みあるものかを知るには、幼すぎた。 ただ身体の一部が抜け落ちてしまった感覚、それ以上の酷い痛み。不安と恐怖と、あの、絶対的な威圧の存在。 それらが頭から離れず、眠れぬ三夜を過ごし、 涙は枯れぬと知った。 |