あの花を美しいというには、心が綺麗でなければいけなかった。
汚いものは見ざる聞かざるで、幸福だけをもって生きていなければならなかった。











BAMBINA


Raison d'etre











熱を持った大地を冷ます雨が降り続いていた。
中庭の花は地面からこみ上げる湿気でまどろんで見え、一枚一枚散っていく。土壌は揺れて水を弾き、しとしと、しとしと、雨独特の音と匂いが世界を包む。季節の変わり目に降る、長い雨だった。

本館から離れへの渡り廊下に立つ英士は、そんな雨を見つめ湿気を肌に感じていた。雨は嫌いではないのだけど、熱気を含んだ雨はどうも、肌に纏わりついて感じが悪い。人からよく暑い夏でも涼しそうだといわれるけど、まさか自分の周りだけ気温が違うわけもなく、暑いのは誰だって同じ。ただ人より、感情が顔に出ない性分なだけ。

雨雲に隠れて見えないけど、今日は満月なはずだ。本館から洩れる明かりはぼんやりと宵の世界を照らすけど、雨の世界はやっぱり暗い。雨はあらゆる光を吸い込んでいきそうな雰囲気すらかもし出して、中庭も奥のほうは真っ暗だ。
薄暗い中庭と同じように廊下の先の離れも暗い。人がいる夜の部屋なら明かりが洩れているのが当然だろうに、2・3センチほど開いている扉から漏れているのは毀れるほどの光ではなく、滲む程度。気休めの明かりだけで、人の気配だけがその扉の隙間から這い出てきていた。


真っ暗なはずの中庭の果て。そこに、何故かあの赤い花だけは鮮明に浮いて見えた。
長い緑の茎の先に線状に上向いて伸びる赤い彼岸花。
真っ暗で周囲は何も見えないのに不思議なほど鮮明に、その花だけが存在しているかと勘違うほど。

あの花の赤は、本当に他にたとえようのないほどに原色な赤だ。その紛れもない赤は鮮やかであり、妖艶でもある。
でもあの花を美しいというには、少々抵抗があった。
毒々しいまでのあの色は、目には痛すぎる。心の奥深くにも。

そう思わずその赤に惹きつけられていると、離れの扉がガラッと開いて、英士はその方に振り返った。


「何を見てる」
「いえ」


中庭の奥を見つめる英士に、開いた扉の奥から出てきた三上が大して興味もなさ気に問いた。シャツのボタンも留めずに気だるそうに頭を掻きながら、落ちてくる雫を見上げ鬱陶しそうに舌打ちし歩いてくる。


「あいつ咳込んでたぞ、ちゃんと管理しろ」


通り過ぎざまに低く言い放ち、三上はそのまま本館のドアをくぐっていった。
返事をする間もなくいなくなった三上を見送り、英士は離れに歩いていく。ドアを開け薄暗い部屋の中に目をやると、ベッドの上に座り込んで咳き込むがいた。この季節の変わり目に風邪でもひいたのか、今朝から咳が目立っていたのは知っているがどうやら悪化しているようだ。これでは三上の機嫌を損ねるのも仕方ないかと思うほど。


「薬持ってくるから、その前に風呂行こうか」
「こほっ・・・」
「立って」


シーツを握った手で胸を押さえて咳き込むの、晒された素肌の背中が大きく揺れる。腕を引いて立たせ支えるように風呂場へ連れていく途中も、掠れるほどの咳は止まらない。でも状態が酷いのは体調ばかりではなかった。

湯を張った湯船から桶で掬い上げた熱い湯を、の背中からかける。
白濁の液がこびりついて束になっている髪先を丁寧に解き、胸や脚回りに纏わりついているベタベタした光も洗い流す。強く締め付けられていたのだろう細い手首は赤く腫れて、噛み癖があるのか、白い肌に赤い爪痕や内出血が浮かんでいる。胸回りは特に酷い。そんな身体を洗いながら、よくもまぁここまで荒く扱えるものだと思うけど、もうの金色の瞳に涙は見えなかった。

あまり長湯しないようにね。
身体を洗い終えたを湯船に入れ、英士は浴室から出ていった。
部屋の中もまた荒れている。焚かれた香の匂いで誤魔化されているものの、シーツにも毀れている精液の匂いが染み付いているだろう。涙と違って精欲は尽きることはないようだ。ベッドからシーツを剥がし、床に置かれた灰皿に溜まっている煙草の吸殻も片付けて窓を開け少し風を通した。外から湿気が中に入り込んで、部屋の中のまどろみと雨のまどろみが混ざりこむ。


掃除してベッドを整えた頃、風呂場でまた咳き込む声が聞こえた。
が浴室から出たようで、英士は風呂場のドアを開けると服を着ているを風呂場から出し、小さな紙に包まれた粉薬を水と一緒に渡した。咳が止まらないは息を落ち着けて、薬を飲みこむ。口の中の苦味に少し眉を寄せるの、着物を喉元から鎖骨辺りを広げた。その辺りにくっきりと残る、色黒い痣痕。英士は小さなケースの蓋を開けその中の薬を指に取り、の肌に当て、赤くミミズ腫れになった爪痕に薬を塗りこんでいく。

身体の中も外も傷つき侵され、でも最近のはもう、涙どころか苦しみすら吐かなくなっていた。言葉すらそう多く発さず、その表情は苦しみや痛みで歪みはするものの、少しずつ感情が消えていっているような気がした。
それも、仕方のないことだろう。感情のない、人形のように扱われているのだから。
心を殺せといったのは自分だ。

この子はもう、すべてを諦めたのだろうか。
一番苦しくない方法を理解し、実行することを受け入れたのだろうか。

・・・思ったより早く、素直に、この子はこの今の現状を、受け入れている。


「君は今、何を恨んでるの?」


目を伏せているに、英士はポツリと呟いた。
すぐそこにいるはゆっくり睫を揺らし英士に目を上げ、しばらく見つめた後何も言わず、またそっと目を伏せた。

言葉に出来ない思いなのか。
言葉にすることすら馬鹿馬鹿しい愚問なのか。
それとも、しゃべるなと言われただろうあの強制的な言いつけを守り、本当に人形になりつつあるのか。


「っこほ・・・」
「今日はもう休みな」


また小さく咳き込みだすの揺れる肩を支え、悪化しないうちにベッドに戻した。
雨音が煩く感じるほど音のない、小さな空間でだけ生きることを強いられた、ひそやかな存在。

生きている理由は見えない。実感もない。
あるのは、証だけ。痛みと苦しさで実感させられるばかりの、確証があるだけ。

それすら彼女はもう理解したというのだろうか。

離れを出てまだ雨が降っている中、遠くの彼岸花に目をやる英士は、
暗い中では一筋も光を帯びないあの金色の瞳を思い浮かべた。


妖艶な赤と、幻想の金。


不釣合いで正反対な二色がこの混沌と滲んだ世界に、混在していた。
















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