身を売って稼ぐ女の元に生まれた子供が英士だった。
母は娼婦だった。










BAMBINA


Raison d'etre












母親の腕に抱かれた記憶はない。誰に育てられた記憶も無い。何かを教わった記憶も無い。物心ついたころには英士は一人で椅子に座っていた。
周りを見てあらゆる道具の使い方を覚え、人の会話を聞いて言葉と話し方を覚え、すべて自力で学習してきた。
大抵家にいない母親が帰ってくるのはいつも昼前。帰ってきても会話をすることはなく目を合わすこともなく、記憶の中の母は寝ているか着飾っているかのどちらかしかなかった。見た目がそのまま仕事に結びつく母親にとって自分を着飾ることは命で、ましてや子供がいることなど重荷以外の何でもない。母は英士を愛さなかった。

田舎町でいつも派手な格好で出かける母親は近所でも噂の耐えない存在だっただけに英士も白い目で見られてきた。同じ年の子供と一緒にいると必ずその母親に引き離されて、もう二度と話をすることはなくなる。一人で遊んでいても陰口を叩かれたり石を投げられたり。
最初は何故自分だけがそんな目に遭うのか判らなかった。幼い英士はまだ母親の職業を理解していなかった。
そんな英士に現実を判らせたのは周りの大人たち。

娼婦の子だ、父親もわからない
誰にも望まれずに、間違って生まれたてきた
あんな母親の子供じゃろくな人間にならない
可哀相な子供

そんな言葉たちに責められ、でも英士の胸に宿った気持ちは「悲しい」よりも「母親を侮辱された」という思いだった。母親を守ろうと歯向かったこともあった。ケンカをしたこともあった。でも自分に味方をする人間は誰もいない。最後には決まって「やっぱりあんな女の子供は・・・」と傷ついたまま路地裏に置いていかれた。

それでも母親を愛さない、求めない子供がこの世にいるだろうか。少なくとも英士は母親を見限らなかった。周りにどんなことを言われても英士にとっては”母親”という絶対的な存在。神より確かな偉大な人。血の繋がった唯一の人。夜寝るときに傍にいなくても、毎日一人でごはんを食べても、いつも綺麗でいい香りのするその存在を英士は母親と思って生きていた。

その目に見られたかった。その手に触れられ、腕に抱かれ、名を呼ばれたかった。
愛されたかった。


『・・・おかあさん』


自分でも数えるほどしか記憶にない、「おかあさん」と呼ぶ機会。
赤いドレスを着て花の香りがする水を振り、いつもどおり出かける準備をしている母に声をかけた。
髪をとかしながら振り返りもしない母親の背中に近づいていき、英士は手にしていた赤い花を差し出す。

英士がいつも一人で時間を潰していた近くの湖のほとり。その水辺に咲き誇る真っ赤で繊細で目を引く美しい花を、英士はまるで母親のようだといつも思っていたのだ。群集で咲くその花は世界を真っ赤に染めそうなほど。何億の中のたった一人でしかないその人も、英士にとっては世界すべてだった。その妖艶で鮮やかな筋のような形の花を、英士は何本か切り取り持って帰ったのだ。

喜んで欲しかった。綺麗に着飾る母だから、美しい花を贈ればきっと喜んでくれる。笑ってくれる。
そんな夢を見た。


でも、その花ごと、手をはたかれた。
バラバラと花たちは落ちていった。


『・・・』
『あんた、私を殺したいの?そんな花を持ってくるなんてっ』
『・・・え?』
『嫌な子、気分が悪いわ、出てきなさいっ』
『・・・』


落ちた花を見下ろして動かない英士より先に母は部屋を出ていった。
何故突然怒り出したのか判らない。何故手を払われたのか判らない。


『・・・・・・』


静かになったいつもの家の中で一人、英士は手にかすかにぴりぴりと痺れを感じた。

その花に毒があることは知らなかった。



母親に手を払われた子供はどんな思いを抱くだろう。



次第に痛みを帯びていく手に、涙が止まらなかった。
その毒にではない。


『痛いよ、おかあさん・・・』


それでもその言葉は、寂しい心を慰める魔法だったんだ。

救いだった。










年を重ねると共に、成長した英士は母親の職業も理解していった。
そして英士の目に映っていた赤いドレスの女は、母という絶対的存在ではなく、軽蔑、嫌悪の対象となっていた。昔から家にいる間はずっと酒を煽っている人だったから、元々の性格もあったのだろうが、年々ヒステリックも酷くなっていった。パタンとドアが閉まる音にすら過敏に反応して叫びだす。その声も英士には酷い嫌悪だった。

しかしもう、その人に何も求めてない。何を感じることもない。
「母」と呼ぶこともない。思ってもいない。
ただの哀れな人。
それだけ。


その頃の英士はもう働きに出ていた。あまり恵まれていない英士の育った土地では子供が働く姿も珍しくない。
その日もいつも通り英士は仕事を終えて家に帰ってきた。
母はいない。家にあまり帰ってこないから一人で生きてるも同然だった。


『英士』
『おばさん、どうしたの』


近所に住む老婦だけが英士と対等に話してくれる唯一の人だった。昔毒のある花を取ってきて手に痺れを感じた時も医者まで連れてってくれたのはこの人だった。この人のおかげで英士は今まで生きてこれたと思っているし、事実、今こうして普通に生活できているのはこの人が「何も恨んではいけない」と教えたからだった。心に押し込んだ憤り、空しさ、恨みに飲み込まれてはいけないと。


『たいへんだよ英士、さっきおまえの母さんが連れて行かれたよ』
『連れてかれた?誰に』
『軍にだよ』
『・・・』


その人が言うには、珍しく家に帰ってきた母を追うように軍が押し寄せてそのまま連行していったという。日常母が普段どこで何をしているかなんて知るはずも無い、興味もない英士には、母が連れて行かれる理由なんてもちろん判らなかったが、何かの間違いだとも思わなかった。

数日後、呼び出された英士は母が収容されている刑務所まで赴いた。
母の罪は麻薬所持。不法な薬を売りさばいていた賊と関わっていた母は、客に麻薬を売る仲介役をしていて、自身のカバンからも大量に発見されたという。

それを聞かされた英士はただ「へぇ」とだけ答えた。
それ以外何を思うことも無かった。

面会するかと問われ、特に会いたくも無かったが、この暗い牢の中であの母がどんな姿でいるのか見てみてもいいかと思い足を向けた。暗い廊下と階段。硬いコンクリートの地面に響く乾いた足音。黒い鉄の柵。すべてがあの赤いドレスには不釣合いに質素で冷たいと思った。


『・・・』


そんな中にいた母は、もう、過去英士の目の前にいた人とは別人のようで、妖艶で鮮やかな赤などどこにもなかった。
顔は憔悴し、頬がこけて視線も定まらない。手も足も棒のように痩せ細り、栗毛の髪は乱れ、その身を包んでいた花の香りは薬の嫌な匂いに変わっていた。

英士は無性に息苦しくなった。
母がこんな場所に押し込められて胸が痛んだわけではない。
罪を犯していた事実を受け入れられないわけでもない。
ただ、その色褪せた何の華やかさもない対象が、母であると頭が認識しなかった。
あの人は、母親にはなれない人ではあったけれど、その見てくれだけは誰よりも誇っていたのだ。自分の子供を放ったらかしてでも求めた艶やかさを、今この目の前の人は欠片も持っていなかった。

ふと、嘲笑いたくなった。
すべてを捨ててでも求めてきたものを根こそぎ奪われた母は今、冷たい牢獄で死んだようにうなだれている。赤いドレスも汚い布となり、白かった肌は土と埃に塗れて汚く、生気の無い顔で死んだように生きてるのだ。
今まで自分を見ようともしなかったその人が、こんなに落ちぶれている。

心の中で思った。

報いだ、と。


『・・・・・・英士』


冷たい壁に響きもしない力の無い声に英士はビクリと肩を揺らした。
こんな声だっただろうか。母の声はもう記憶になかった。
コンクリートの地面に力なく座り込むそれが、死んだ魚のような目で見上げてくる。

・・・その時、そのか細い声を脳に通した時、英士は判ったのだ。

ずっと呼ばれたかった。母の声で、自分の名前を。
でも今更そんなもの求めるはずも無い。
なのに、名を呼ばれた瞬間に鉄越しの母の前に膝をついた自分はやっぱり、求めていた。


俺はこの人に愛されたかった。


『英士・・・』
『・・・、なに』
『英士、私を・・・殺して・・・』
『・・・・・・』


殺して


『殺して・・・』


・・・・今まで、何度も、死んでくれればいいのにと思った。
自分の知らないところで、いなくなってくれれば、自分はこの呪縛とも言える存在から開放されるんだ。
もう、無駄なものを求めずに済む。
何度も思った。


でも今ではそれが現実で・・・


手に痺れを感じた。
花の香りがした。
コンクリートの隙間から差し込む日差しが赤に見えた。


全ては、遠い記憶のものだった。















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