黒い小さな漆のケース。 その表面には、赤い彼岸花の絵が描かれている。
BAMBINA 爽やかな風が吹く中、英士は掌の中のほんの小さな黒いケースに目を落とし、その目を正面に上げた。 目前には威厳を持った構えの建物が堂々と居座っている。その建物の奥に見える空まで伸びた高い壁の向こうには、何人もの罪人が収められている。 罪人・・・ 眩しいまでの高い空に目を細める英士は、手の中のものを握ってその建物へ足を踏み出した。 『面会?』 『はい』 『何番だ?』 『125番』 『125、125と・・・』 建物に入ってすぐに守衛所があり、そこで中に入る許可を取る。ここに収められている罪人は皆番号が振り分けられている。英士はここに来るのは前回から二度目だが、母親に付けられたその番号はしっかりと覚えていた。 何の因果か、自分の生まれた日だったから。 『おい、開けろ』 『はい。お疲れ様です』 帳簿に目を通していた守衛に向かって、入り口から更に中に入るガラス戸の向こうから男が声をかけた。 一目見れば誰でもすぐに判る。濃紺の軍服。胸には帝国の象徴。腕には中佐の腕章。・・・帝国の軍人。腕に示した位に比べまだ若そうなその男は、手に持っていた資料をばさっと机に放った。 『ったく、胸糞悪ぃ』 『当分食事は出来ませんな』 『あーやだやだ。さっさと上いきてー』 『はは』 軍服の首元を緩めてぼやく男は懐から取り出した煙草を咥えしゅと火をつける。真後ろの壁に禁煙のマークがあるにも拘らず堂々と煙を吐くその仕草に守衛は困った顔をするが、軍の人間には何も言えないのか言葉を飲み込んでまた帳簿に目を戻す。 『・・・125番?』 『はい』 『・・・ああ、その番号はな、今日は面会出来ない』 『出来ない?何故?』 『今日は、面会の日じゃないんだ。今日は帰りな』 『・・・』 面会の日が定められているとは知らなかったが、別に来たくて来ているわけでもない。英士はすぐに了承して身体を翻し出口から出ていった。 『なんだ、あのガキ』 『面会だそうで、おそらく子供でしょうな・・・』 『何番の』 『それが、』 守衛が差し出す帳簿を受け取ったその男は、煙草の煙を吐き出しながらそれに目を通した。 がちゃんと重い柵の扉を閉めた英士は、また高い高い空を見上げた。秋晴れの気持ちいい風が吹く中、一度建物に振り返り奥の高い壁を見つめた後、帰路に足を進めた。 自分は何がしたかったのか判らない。 罪を犯し報いを受けている母を責めているわけでも、ましてや心配しているわけでもないのに、気になってしまう。それが反面、酷く不愉快でもある。過去一度だって心配されたことなんてないのに、何故子供は母親を見捨てきれないのか。何故この縁を切れないのか。 白い手首の下を通る、緑色をした筋。最初これを見た時、血は緑色なのかと思った。それを間違いだと正したのは母親でも、他の大人でもない。石をぶつけられて頭から流れ出た、自分自身の血に他ならない。 大きな通りを渡った英士はまた、あの建物に振り返った。あの大きすぎる石の壁の向こうで、母はまだあの死んだような目で生きているのだろう。 英士は服をめくって中に手を探り入れ、さっきまでは握っていたあの黒い小さなケースを取り出した。建物に入る時に軽い持ち物検査があり、腹の中に隠したのだ。その、赤い彼岸花の絵が描かれた黒いケースを見つめて、表情を暗くする英士は立ち尽くす。 『母親に届け物か?』 『!』 すぐ近くから聞こえた声にビクリと反応した英士は、思わずそれを落としてしまった。コロコロと地面を転がっていくそれは、おそらく声をかけただろう男の足元まで転がっていき、その足の主は口の端に煙草を咥えながらケースを拾い上げる。 『なんだこれ』 『なんでも・・・、返してください』 男に近づいて手を差し出すけど、自分よりずっと背の高いその男からそれを取り返すには、英士はまだ小さすぎた。男は男でまったく返してくれるような素振りを見せない。それどころか、口からペッと煙草を吐き出しそのケースの蓋を開けだした。 『駄目だっ!』 『なんだ、毒でも入ってんのか?』 『・・・』 冗談めいた男の声に英士は笑いも言葉も返せず、その中身を露呈してしまう形になってしまった。 その、小さな彼岸花の絵の描かれたケース。その中には、少量で身体を中から腐らせるほど強力な猛毒が入っていた。 『母親殺しにきたのか?母親が罪人じゃ傍迷惑だもんなぁ』 『・・・』 『よっぽど酷い母親だったか。子供に殺されるなんていい人生の幕締めじゃねーか』 『・・・』 嫌なところばかりついてくる。 英士はまさか、殺してくれという母親の頼みを聞いてやりたいわけじゃない。かといって自分のために事実ごと消したいわけでもない。 英士はただ、せめて死に際くらい美しくしてやろうと、思っただけだ。きっとあの人は今、自分の姿に絶望している。今まで培ってきたものを奪われて、汚されて、どんどん醜く朽ちていく自分が許せず恐怖していることだろう。 だから今のうちに、殺してやるんだ、と。 『ま、もう遅ぇけど』 カチリ。細いライターで火をつけてまた煙を吸い込む男を、見上げた。 『お前の母親はあっさり吐いたからな。ルートも元締めも』 『・・・え、』 『お前の母親はさっき死んだ』 『し、死んだ・・・?』 『死刑。俺がやった』 『・・・・・・』 しけい・・・ その言葉の意味をしっかりと理解している英士だけど、その意味と母親とが上手く噛み合わず、ピタリと思考が止まってしまった。 消えてくれればいい。自分の知らないところで勝手に・・・。 そう思っていた。何度も、何度も、恨みを覚えるたびに、あの赫を思いだすたびに。 ・・・じゃあこの、果てしない喪失感は、なんだろう。 今まで愛情の欠片も見せず、母親らしいことも何もせず、自分を見ようともしなかった”それ”に、母だなんて名は似合わない。過ちを犯し、罪に問われ、報いを受け、全てを奪われ、ざまぁみろとこそ思えど、気にかけるなんてことは、ない、はずで・・・ 『・・・』 家に母親はもういない。あの高い壁の向こうにもいない。 もう、この世のどこにもいない。 母親を殺したと躊躇いもなく言うこの男に、憤りを覚える自分は、あの人を愛していたとでもいうのだろうか。空に溶けていく母に、あの花を届けたい自分は、まだ愛されたいと思っているのだろうか。 見限っているつもりで、でもあの家から出られなくて、何がしたかったか判らない、何が欲しかったかも判らない状態で、まだ、あの人を・・・ かあさん かあさん・・・ 『お前、名前は』 最後に、最後にもう一回 『・・・英士』 名前を呼んで その後英士は母親に死刑を敢行した当時の中佐、三上に引き取られた。14年間生まれ育った家から出るのは簡単だった。思い残す人もいなく、思い出もなく、世話になった老婦にだけ一言別れを言って三上の屋敷に移った。 ここに来たことを後悔したことは、ないといえば嘘になる。ここの主人はとにかく人使いが荒く冷血で、人によってはここを監獄だという者もいる。英士も最初はてこずったのだ。軍人だなんて立場にありながらこの屋敷の中には公に出来ない事柄が五万とある。人買いだってそうだ。その事実を受け止め、さらに年頃の英士が彼女たちの世話をするのは苦労なくては語れない現実が溢れていた。 それでも3年の月日が過ぎ、気がつけば一番長く居座っている立場になり、中佐だった主人が大佐へと昇進して更に大きな屋敷に移り住んだ。それでも大して英士の仕事は変わらない。ただ黙って、言われたことを忠実にこなせばいいだけ。元より口数も少なく反抗することもない英士には合う仕事であったかもしれない。 「英士」 「はい」 しばらく遠征で屋敷を空けるという三上が屋敷を出る直前に、英士に何かを投げて寄越した。それを受け止めた英士は、手を開いて見てみる。 それは、いつかの、黒塗りのケースだった。真っ赤な彼岸花が年月で少々はげて、描かれている。ふと三上を見るけど、三上はもう玄関を出て車に乗り込んでいた。 ・・・何故、あれから3年経った今、これを自分に返したのか。 「・・・」 地面は濡れているけど雨は止んでいて、秋の夜明けを薄く彩っていた。 しばらく主人が留守にする。それで少しは警備が増えた屋敷の中で、それでも英士の仕事は変わらない。離れから一歩も外に出すなと言われたの世話をするだけ。 離れに行くとはもう起きていて、いつもの窓辺の椅子に座って外を見ていた。夏の花が枯れ新しい季節の花が咲くのを、意外にも穏やかな顔で眺めている。その顔も、英士が離れに来て目を合わせればふと蝋燭の火が消えるようになくなってしまうのだけど。 「大佐はしばらく留守にするよ。1ヶ月くらいかな」 英士の言うことを聞き入れて、はまた大人しく窓の外に目を移す。 そんなに、英士は訝しげな目を隠せなかった。 「・・・逃げようとか、思わないの?」 それを聞いて、はまたゆっくりと振り返って英士を見上げた。 「大佐がいないんだよ。出来ないことないよ。ここから逃げたくないの?」 「・・・」 「なんで何も喋らないの?もうあの大佐の言いなりになったの?」 「・・・」 の身体に点在する、酷い痣と爪痕。 人形になれといわれ、手ひどく扱われ、性を玩具にされて、それを運命だとでも受け入れているのだろうか。いわれのない呪縛を、さだめだとでも? 「惨めに生きるくらいなら、殺してやろうと思わない?」 拭えない運命というさだめに、抗って抗って、自由を手にしようと。呪縛を解いて、血筋を消して、何のしがらみもない空へ旅立とうと・・・。 英士は三上に返されたあの黒いケースを、の手に落とした。 色褪せた彼岸花が鈍く光る。 「それで殺せるよ。自由になれるよ」 「・・・」 じっと、見上げてくる。 窓の外が明るくなるにつれ光る、金色の瞳。 静かにそのケースを棚の上に置くは、代わりのその隣にあった別の小さなケースを取って、蓋を開けた。それはいつもの傷跡につける塗り薬。それを指にとって立ち上がるは手を伸ばし、少し身を引いた英士の口端にその指をつけた。 口答えして、叩かれた時に出来た口端の傷。 もう鉄の味もせず、自分でも忘れていた。 その傷にそっと薬をつけるの指の感触が、傷をひやりと冷たく刺激する。 「・・・」 何を考えているのか判らない。 この子が、何を思い何を求め何のために生きているのか判らない。 でも、今、英士の傷を癒そうとしている。 生き生きと女を張って力強く生きていたあの母親よりもずっと、こんなにもひっそりと生きているが、なんて強く、尊く思えた。 己の中に存在価値を見出せる人間と、他人の中でしかそれを見出せない人間。きっと自分は愚かしくも後者でしかなくて・・・ 誰かにそっと傷に触れられること 誰かの傷を癒そうとすること それだけで人は、十分すぎるほどの存在価値を見つけることが出来る。 刹那に足早に過ぎようとする、夏解けの季節。 それが自分のリーゾンデートルだと、教わった気がした。 |