橙の花が香る頃 郷愁の泉水が溢るる川の如く BAMBINA あれは、半年ほど前のことだった。冬の厳しさが解け春の芽が出始めようとしていた季節。 その時から三上は遠征中の渋沢に代わって何かと小さな遠征が多く、今以上に雑務に追われていた。 「賊だぁ?警備強化したんだろーが」 「すみません。裏から屋根へと渡って通気口から侵入したらしく、虚を突かれてしまって」 「言い訳かそれ。クビだ、中も外もその日いた奴全員」 「しかし賊は捕らえています」 「だからなんだ。入られた時点で警備の意味ねーだろーが」 2週間ほどの遠征から戻ってきた三上の後ろを歩く英士が、つい3日前に盗賊に入られたことを報告した。 主人の留守とあって警備は万全だったにも関わらずの失態。解雇は予想付いていた。 「で、どーした」 「今は地下牢に。単独の犯行です。侵入してすぐにシステムも止められて対応が追いつきませんでした。かなり下調べしていたようです」 「単独で入られたんじゃザマァねぇな」 部屋へと向かっていた足をくるりと方向変えて、三上は別の進路を歩き出した。英士もそのまま後をついて歩き、廊下の最奥のドアを開け地下への階段を下りていく。こつこつコンクリートに響く靴音が冷たく響く地下への階段。最下段を下りたところで英士は三上の前へ出てまた現れたドアを開けた。 電気をつけると真っ暗な中にパッと白い蛍光灯が点る。一見ただの倉庫のような棚の並んだ広い地下の、更に奥の扉にまっすぐ向かっていき、最後のドアを開けると向こう側に現れた鉄格子が鈍く光る。冷気の漂うそこは地下牢になっていた。 くしゅんっ、 真っ暗だった牢に外の明かりが差し込むと同時に反響した、小さなくしゃみ。 「あー、埃っぽいなここ」 ぐしゅぐしゅと鼻をこすりながら漏れてくる声は篭っていて、狭くて暗い中で響きもしなかった。 そのあまりの緊張感のなさに三上はひそりと眉を寄せる。 「一人で乗り込むなんていい度胸してんじゃねーか」 「無駄な人数はジャマなだけ。使えない人間集めるくらいなら一人でやるさ」 「・・・」 「って、昔アンタが言ってたことだよな」 「・・・誰だお前」 目線だけを下げる三上が目を細める前で、牢の中の影はのそりと動く。英士がランプに明かりをつけると牢の中は少しだけ光度が増した。その小さな橙色の明かりが滲むように広がっていくと、鉄格子の中で捕らわれてる男の静かな目がふと細まったのが見えた。 体格はそう、よくはない。どちらかといえば細身で、その瞳は輝くことを知らないように静かに据わっている。 三上はその容姿を見ながら頭の中で模索するけど、覚えはなかった。 「わかんない?まぁ15年ぶりくらいだから、無理もないか」 15年。そう聞いて三上はまた目を細めた。 15年も時代をさかのぼれば、自分を知っているらしいこの男とどんな関係だったかくらい想像がつく。 よこせ、と英士からランプを取った三上は英士を地下から出ていかせた。パタンと階段上のドアが閉まった音が聞こえるとまた埃が舞う。ずっと鼻を押さえている牢の中の男はまたくしゃみをした。 「・・・お前、平馬か」 「当たり、覚えてたんだ。アンタが大佐になったって聞いたからどんな様子かと思って見に来たんだ。いい家だな、偉そうでいいよ」 「軍人の家に忍び込んで捕まるからには覚悟出来てんだろうな。これから一生牢の中で暮らすのか?」 「まさか、逃げるよ。今までそーやって生きてきたからな、この程度の警備だったら軽い」 男の言葉にフンと鼻を鳴らし、煙草を咥える三上はランプの蓋を開け火をつけた。 薄暗い中に白い煙が広がると、じりっと埃が焼ける音がする。 「大佐ってどーなの?でっかい椅子に座って偉そうに指示したりするだけ?」 「まーそうだな」 「金も食い物も腐るほどあって、いい身分だよな。アンタそんなのになりたかったんだ、がっかりだ」 「そういうお前はお零れでもあやかりに来たのか?貧乏暮らしからいつまでも抜けだせねーで、盗みで生計立てて食いモン漁って、生きるのに必死だな」 「・・・」 「自分と同じ位置にいた奴が権威持って羨ましいか。妬みに来たのか?哀れだぜ、お前」 ふぅと煙を吐き出す三上の言葉が鼻について、顔から余裕を消した平馬は立ち上がり鉄格子に近づいた。 「ほら見ろよ。結局お前は檻の中なんだ。反抗どころか俺に手も届きやしねぇ。何言ったって負け犬の遠吠えにしかなんねんだよ」 「だからって俺はアンタみたいに帝国の犬なんかになりたくねーよ」 「犬に成り下がるくらいなら死んだほうがマシか?一週間何も食うモンがなくて、お前何を思う?死にたいって思うか?そうじゃねーだろ。軍人の靴舐めてでも食うモンが欲しいだろ」 「俺はアンタとは違うっ」 「ああ、違うな。お前は俺にはなれねぇ」 「・・・っ」 ガッと鉄格子を掴んで睨み据える平馬の前で、三上はまたふぅと煙を吐き出す。二人の周りだけ包むように広がっているランプの明かりが、三上の静かな表情と平馬の穏やかでない胸中を際立たせた。 「どうする?このままじゃお前、心底恨んでる帝国の法のままに裁かれるぜ」 「殺られる前に殺ってやるよ」 「それで?殺されるくらいなら自分で死んでやる、か?何も判っちゃいねぇ、お前は。国ってゆーモンがどんだけでけぇか。お前のチンケな存在握りつぶすくらい朝飯前だぜ。歯剥き出しに反抗してどうする。無駄死にだ」 「だから帝国の人間になったってのか?偉くなって世直しでもする気かよ」 「・・・」 「変わるわけないさ。今更何が変わるわけがない。俺もお前も、たったちっぽけな存在でしかないんだ」 平馬の言葉にまたフン、と噴出す三上は口から煙草を落とし、踏みつけた。 地面に焦げ跡と吸殻を残したまま体を翻し、扉に足を向ける。 「俺を殺らないのかよ」 「お前を裁くのは俺じゃない。国だ」 「殺れよ。国に裁かれるくらいなら、・・・アンタのほうがいい」 「は、俺だって帝国の人間だぜ」 「・・・・・・」 三上が離れていくにつれ消えていく部屋の中の明かり。姿も見えにくい牢の奥で壁に背をつけ視線を落とす平馬は、意気を殺がれたように消沈して見えた。ふと息を吹きかければ簡単に消える、風前の灯のよう。 「・・・アンタは、今まで何度、自分が生まれてきた意味を考えた?」 コツン、ドアの手前で三上の靴音が止まり、遠ざかっていくランプの明かりも止まった。 「俺は、考えなかった日はない。でも最近は、死に方ばっかり考えてる」 ・・・きっと、消えてしまうだろう。 三上の目にははっきりと、牢の隅で小さくなる男の隣に死神が見えた。 あれが出てくると、もう駄目なんだ。何かに蝕まれるように、吸い込まれるように、簡単にこの世から手を離してしまう。抗うという気持ちがもう、生まれない。手に力が入らない。 「俺が与えてやろうか、お前の死にザマ」 「え?」 「もう少しここで生きてろ。てめぇに相応しい散り方、用意してやるよ」 「・・・」 「明かりは要らねぇよな、暗闇にゃ慣れてるだろ」 三上が地下牢のドアを閉めると同時に明かりが遠ざかっていく。 締め切られた牢の中は一筋の光が入り込む隙も無かった。 でも、慣れていた。 暗い中で生活するのは慣れていた。 そうやって生きていた。 地下の階段から上がって廊下の赤じゅうたんの上に戻ってくると、廊下の先から英士が出てきていつものように三上の斜め後ろを歩いた。 「どうしますか」 「しばらく生かしとけ」 「食事も普通で?」 「ああ」 いつもならすぐに軍に引き渡すか、機嫌が悪ければ散々なぶってしまう三上が生かしておけという。牢から人払いをしたことも合わせて考えると何かあるんだろうと英士は思うけど、そこまで口出せば確実に自分の首も飛ぶ。余計な口は出さずに静かに三上の後ろを歩いていた。すると、しばらく歩いた先で前の三上が歩く速度を緩めた。 「なんだ、アレ」 廊下の窓の外に目線を向けながら三上が問いた。その先は中庭で、大きな車の荷台に樹が積まれて運ばれているところだった。庭の端で樹を吊り上げ下ろして、樹を植え替えているようだ。 「新しく来た庭師が朝からいろいろ植えてるみたいです」 「新しく?」 「前の人は大佐が気に入らないって追い出したんです」 そーだっけか?と大して覚えてもない三上は、だからといって思い返そうとする気もない。庭の様相に大して興味などないだろうに、気に入らないと首をきってしまうのだから、気まぐれに過ぎない。 三上はしばらくの間、足を止めて中庭を見ていた。何にそんな気を留めているのか、植え替え作業をしばらく見ていた。 何か? 英士が声をかけると、「なんでもない」と三上はふいと目を離して歩き出す。 自分の部屋に行き着き、今更遠征の疲れが出てきて深いため息をつきドアを閉めた。 夕暮れ前の薄日が窓から差し込んで、シャンデリアに眩しく反射している。 皮のソファもクリスタルの時計も刺繍が施されたじゅうたんもカーテンも、光に照らされて更にその優雅さを誇っていた。 「・・・死に方、ねぇ」 この、光に包まれた優雅な部屋にはそぐわない言葉だ。 ノンキに葉巻や紅茶を嗜んでるくらいが調度良い。 しかし、光があれば影が生まれるのは世の常であり、相反するのに離れられないのが定め。 「くだらねぇ」 生があれば死がある。 それも世の習わしで逃れられない行く末。 ただ人は、影からは目を背けたい生き物なのだ。 死からも。 春の木漏れ日があどけないやわな夕間暮れ。 が来る、半年前のことだった。 |