まだその容姿も見えないところでも

その香は届いて染み渡る。







BAMBINA


Nostalgia









鉄格子の窓から覗く秋の夜空には、綺麗な満月が見えた。
薄い雲が流れて月の周りを漂い、月明かりがシャワーのように降る下で中庭の草花が風に揺られてさんざめく。りんりんと聞こえてくるのは虫の声。重なり合う声たちが反響しあって秋を奏でる。室中は安息香がたちこめているけど、開いた窓の隙間から逃げるように出ていくから窓際ではその匂いは薄らいだ。焚かれた香と入れ替わりに入ってくる風に乗って届く、甘い、花の香り。

季節が秋へと移り変わった頃、ずっと外を見つめ続けるに英士が窓を開けることを許した。
窓が開いたところで硬い鉄格子がそこにあるし、どうにかして出たところでそこはまだ中庭。屋敷の周りにも門の外にも見張りがいる。それ以前に、英士にはは逃げないだろうという思いがあった。
窓を開けることを許されてから、は今まで以上に窓の外を見つめる時間が増えた。風を肌で感じ、季節の匂いを嗅ぎ、自然の音を聞く。何も変わらない狭い部屋の中では窓から見える狭い外しか見るものがないのだけど、はまるで、小さな子供がいろんなものを見て感じ取り全てを吸収していくように、その金の瞳に世界を映していた。

鉄格子の枠に張り付くように立って、は光の行き渡らない暗がりの中庭を遠くまで覗くように見渡す。
ここ数日、ずっと鼻に残る甘い香りの正体がなんなのか気になっていた。きっと花の香りなんだろうけど、どの花なのかわからない。花壇に並んでいる大きな花なのか、アーチに絡まる赤い花なのか、壁沿いに群集している細かな花なのか、木々の花なのか。一際鮮烈に残るその香りの正体が、気になっていたのだ。

見えにくい中庭に視線を散らばせていると、後ろのガタッと揺れるドアの音を聞いた。
振り返った先で、何日か振りか、口端から煙を立ち上らせる姿を見てはふと目の輝きを落とす。
この男が留守にしていたしばらくは不思議なほどに穏やかだった。部屋の中に足を踏み入れる三上は、煙草をふかしドア口のクーラーから酒ビンを取り出す。それを開けながらこちらへ歩いてきて、テーブルの灰皿に煙草を押し消すと一人がけのソファにどかりと座り、に視線をやることもなくぐいと酒を煽る。


「はなせっ!」
「こら、暴れるな!」


そこへ、荒れる声と一緒に数人の乱雑な足音がこの離れになだれ込んできた。
窓辺に立つはさっきから変わらず窓のすぐ近くにいるのに、もう虫の声なんて聞こえない。
離れに入ってきたのはまず英士。その後に続いて、いつも警備を任されている男二人と、その二人に両脇を捕まれている男が一人。押さえつけられるように掴まれている男は、窓辺でソファに座る三上に気づくと、暴れる腕も荒げていた声も止めて表情を堅くした。


「こいつひとりか?」
「いえ、あと3人いますがこれが主犯格かと」
「見ない面だな」


酒を煽る三上の前に跪くように頭を押さえつけられるその男は、睨むようにじっと三上を見据えながらもその額からはぽたりと冷や汗が垂れた。
この地域に住む者なら誰でも知っている。
西の大佐は、敵に回すには代償が大きすぎる。






バキッ!!・・・

篭った部屋に響きもしないその音に、は身をすくめ顔を逸らした。
左腕を押さえてうずくまる男が呻き声を上げ、その痛みを紛らわそうと床に額を押しつける。口から飛び出る血液が床に滴り、苦しく咳き込む振動が折れた腕に響いて余計に体を髄から凍てつかせた。言葉にならない痛みがたった腕ひとつから全身へと染み渡る。


「ここ最近はうちに盗み入るヤツも少なくてよ、ヒマしてたんだ」
「う・・ごほっ、うえっ・・・」
「盗みってのは逃げ切ってナンボ。捕まったらどーなるか、そんくらいの覚悟は、あるよな?」
「も、もう、助け・・」
「賊は賊のプライドを持つもんだぜ」


コトンとテーブルの上に酒ビンを置き、立ち上がり跪く男の手の甲に固い靴の底を乗せた。
顔を上げろ。
低く降りかかる声に、男は痛む腕に力を込めて、ぎこちなく顔を上げる。
殴られ蹴られ、もう血反吐すら出ない体が怯えている。ここに連れてこられた時には僅かでもまだ見えていた歯向かう意思は、すでに殺がれていた。それよりも今は、ただ助けを乞う。縋るように命乞いをする。その様子はただ、三上の機嫌を損ねた。

つまらねぇな

白けた顔をする三上は踏みつけていた手の上からかかとを上げ、そのまま靴の先で男の鼻下から顔を蹴り上げた。
なんとも軽く、ぺきっと骨の折れる音が鳴り、ぼたり鼻から血を滲ませて倒れる男は呻きながらのた打ち回る。そんな男から目を離し身を翻す三上はつまらなさそうにぐいと酒を煽った。

三上が振り返った先の窓辺で、はぎゅと目も耳も閉じていた。目の前の状況に耐えられなかった。殴られる音も、骨の折れる音も、人が呻き喘ぐ声も聞くに耐えない。滴る血、その匂い。とても直視できない目の前の惨状にただ目を伏せるしかなかった。
そのに、三上は傍まで詰め寄る。部屋中に漂う安息香に煙草の匂いが混ざる。
それを感じ取っても顔を上げられないの、顎をぐいと掴み顔を上げさせた。
夜の薄暗い部屋の中では光らないの瞳。
それを見下ろして、三上は口端をすと緩ませる。


「しっかり見とけ。俺に歯向かう奴の末路をな」


低く浴びせられるその声が、耳から神経を伝って背筋にぞっと寒気を走らせる。
この男の、自分にとって害である相手に対する嫌悪は異常なまでだ。
己にとって不必要なものには冷酷極まりない。

だからといって、全てに対してここまで過剰な制裁を与えるわけではない。ただ機嫌が悪かっただけ。ただタイミングが悪かっただけ。ドア口に待機する英士に言わせれば、ただの不運に過ぎない。

顎を掴まれたまま、の光らない金色の瞳にゆらり涙が滲んだ。歯を噛み締めて、毀れ落ちるのを必死に我慢する。そのに三上は顔を近づけ、べろりとその頬を舐め上げた。顔を背けたを強い力で掴み、耳へ首へと口を這わせた。
後ろではまだ、殴り蹴られする音とその度に漏れる呻き声が続いていた。その音と声を背に、三上はの後ろ髪を掴んで首に鎖骨に肩にと、時折歯を立てながら舐め下ろす。沸々と募る欲情に歯止めを利かすこともなく、しばらくぶりのその香と味を愉しんで、くつくつと小さく喉を鳴らした。

迫ってくるその肩越しに、血に染まる男が死んだように横たわっているのが見える。
そんなこと、もう過ぎた出来事のように、目の前の男は滑る柔な肌を愉しんだ。


湧き上がる感情が鼻を突いた。
このまどろんだ部屋の空気のすぐ外は、あんなにも清々しい秋の夜風が甘い香りを漂わせているというのに、眩しいまでの月が高々と輝いているというのに、もう、遠い昔のことのよう。たった壁一枚で、ここと外ではまるで別世界。
着物の中に手を差し込み自分勝手に刺激をもたらす、目の前で揺れている黒髪の頭に重い感情を抱きながらも、歯向かう力は敵わない。握りこむ手と存在の威圧に全てを押さえ込まれるよう。


「おい」


胸からふと離れた三上の口が、出口の英士に振り返って「連れていけ」と命令する。
英士に先導されて二人の男が床に横たわっている血染めの男を両脇から抱えると離れから出ていった。

それを見届ける間もなく三上はの軽い身体を引きずり込んで、ベッドに押し付ける。目前に広がる天井が逆転して視界が宙を舞い、めくり上がった着物の中で骨ばった手が脚をまさぐり節操なく身体の中心を弄んだ。噛み付くように胸を口に含み、その隙間から熱い息と声が時折漏れた。

数日振りの性交にその指は、順序など考える様子もなく無作法に身体の奥へ侵入し性を貪る。
潤いを奥から引きずり出して、無理やりその場所を慣らす。

全てから目を逸らしたくて、は強く目を瞑った。
痛みに混ざる狂おしさから意識を逸らしたくて、きつく手を握った。

閉ざされた暗闇の世界で香るのは、部屋に染み付いた安息香と、この男の象徴である煙草の匂い。


窓辺ではあんなに香っていた甘い花の香りはもう、遠い、遠い、

遠い、窓の外。














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