白い光が目を眩ませる。

遠い脳裏にいつかの香りが蘇る。









BAMBINA


Nostalgia











カーテンの向こう側から漏れる陽光が、締め切られた部屋に朝を知らせる。壁の装飾やシャンデリアに日差しが反射して、電気をつけなくても部屋中は光で溢れる。朝に寒さが下りてきた昨今、まだ睡眠の世界にいるベッドの中の主人は静かな寝息を立てていた。


「起きて、ア・ナ・タ」
「・・・」


のし、と身体に重みを感じていきなり目覚めの世界に引き戻された三上は、まだ眠気を引きずる目を開き、すぐ鼻先でそんな馬鹿げた声を聞いた。目覚めが悪い割りに意識はすぐに覚める三上は、目の前のそれが誰なのかすぐに判って拳を振り上げガン、とぶつけた。

いってぇー!

寝室に大げさな声が広がったのも気にせずに、三上は寝返り背を向け、また布団の中に身を沈ませた。


「ちょっとちょっとー、せっかく起きたのにまた寝ないでくださいよー」
「うるせぇな、俺ぁ疲れてんだよ」
「久しぶりなのに冷たいなぁー。あそーだ、俺ハラ減ってるんスよ、朝飯貰っていーっすか?」
「・・・」


自分の言葉をここまで鵜呑みにする奴もそうそういない。相変わらずのその調子に布団の中で深い息を吐く三上は、のそりと起き上がりガシガシと頭を掻いた。枕もとの煙草を咥え火をつけ、電話で連絡を取り部屋に朝食がやってくると、窓のカーテンを開けていた藤代は目を輝かせて飛びつく。


「さっすが、大佐ともなるといーモン食ってるっすねー」
「普通だろ。いつもどんなもん食ってんだお前」
「いやぁ、上等兵なんて大した給料ないっすから」
「お前渋沢んとこの笠井と同期だろ、何ノンビリしてんだよ。あいつもう少佐だぜ?」
「はは、あいつはがんばってるっすからねー。俺はべつにいーんすよ、楽しくやってるから」
「楽しくじゃねーよ。お前何のために入隊したんだ」
「いーじゃないっすか、大佐が大佐になったんだから」


同じ軍人とはいえ藤代は上等兵。大佐の三上とは富士の白雪と樹海ほどの差がある。しかしそんな差を少しも気に留めない藤代はバクバクと口に物を詰め込み、当の三上も居座る藤代を蹴りだす様子もなく天井に高々と煙を吹き出した。


「なんか用か」
「だからぁ、遠征から帰ってきたって聞いたから会いにきたんですってば」
「どんだけヒマなんだお前」
「大佐って大変なんすねー、渋沢大佐もここんとこ全然見ないし。ちゃんとメシ食ってんすか?煙草ばっか吸ってるとそのうち病気んなるよ」
「お前に心配されるようじゃ終わってるぜ」


ここ数ヶ月の忙しさで身体に気だるさが蓄積し、朝の空気も手伝ってまだ微かにぼうっとする。眠気覚ましの一服が灰皿に山のように積みあがっていくばかりで、藤代は「もうダーメ」と三上の口から煙草を取り上げて代わりにコーヒーを差し出した。
余計なお世話だと舌打ちするも、ニコニコ朝の日差しより明るく感じる眩しいばかりの笑顔を差し向けてくる藤代が何を言っても聞き入れないことは判っている。藤代の淹れたコーヒーを口にしてその甘さにゲンナリしながらも、身体の中心を落ちていくその温度は確かに煙草よりあたたかかった。


「あそうだ。大佐、平馬って覚えてる?」


口にパクリとフルーツを放り込みながら、藤代はパッと振り返った。


「知らねぇ」
「覚えてないんすかー?子供ん頃に一緒にいたじゃないっすか、スゲー昔だけど」
「スゲー昔のことなんて覚えてねーよ」
「ほら、10歳くらいの冬にさ、煙突空き地の土管の中で凍えてた奴拾ったじゃん、あいつ」
「知らねーなぁ」
「もー。覚えること多すぎて昔の記憶食われてんじゃないっすか?そのうち一個も思い出なくなっちゃうよ」
「余計なことは忘れる性質だからな」


またまたぁ、と見透かすような目を向けてくる藤代をジロリと一瞥するけど、藤代はにこりと大きく笑い返すから睨む気力も失せた。


「で、それがどーかしたか」
「ああ、でね、こないだ聞いたんすけど、平馬の奴、今城に捕まってるそーなんすよ」
「ふーん」
「盗み、らしーんすけどはっきりわかんなくて、誰に聞いても教えてくれないんすよね。でも結構な罪らしくて、もしかしたら、あー、処刑されるんじゃないかって聞いて」
「だから?」
「だから、大佐にちょーっと探りいれてもらえたらなぁーって」
「なんで俺が。大体なんでそんな気にしてんだよ」
「だって仲間っすもん、捕まったら気になるの当たり前っしょ」
「拾って数ヶ月世話しただけじゃねーか」
「ほらやっぱ覚えてんじゃん」
「・・・」


ふふーと笑ってくる藤代に、三上はふんと顔を逸らした。
この底抜けの明るさが疲れた身体にはどうしようもなくイラだちを溜まらせるのだ。いちいち相手にしていたら身体がいくつあっても足りない。


「お前、渋沢んとこで少尉昇任の話きてんだろ。それ乗って自分で探ればいいだろーが」
「あれ、知ってたんすかぁ?いやぁ、俺はぁ、ただ大佐に使われてるへータイでいいんすよ。かたっくるしいのイヤだし、下まとめるとか絶対向いてないし」
「知ってる」
「俺ってほら、あんま、周りと上手く出来ないじゃないっすか」
「お前はいろいろぶっ飛んでっからな。長いモンには巻かれろなここの連中には合わねーんだよ」
「それは大佐も一緒じゃないスかぁ?」
「俺はお前と違って世渡りジョーズだからよ」
「あー。大佐ウサンクサイっすもんねぇー」
「殺すぞ」


藤代はケラケラ笑い声を上げて、蹴り上げてくる乱暴な三上の足から逃げた。行き着いた窓辺で目下に広がる広い庭を見下ろし、その向こうにどこまでも広がる町並みを展望して藤代はふっと息を吐いた。


「随分変わったっすよねー、俺も大佐も。こんなでっかい家に住んじゃって。中庭ひろっ」
「お前は狭ッ苦しい軍舎だろ」
「あそこはあそこで楽しーんすよ?昔みたいにみんなで騒いだりして。だって俺、あの頃だって全然楽しかったし。そりゃ毎日食うもんもなくてギリギリだったけど」
「・・・」
「でも、楽しかったよね」


ガチャリ、と窓を開けて、藤代は広い中庭を見渡す。
外と繋がった部屋の中に朝の匂いのする風が吹き込んで、ふわりと庭の香りが届いた。


「あれ、この匂いって、あれだよね。あの小さいオレンジの花の匂い」
「あ?」
「ほら、よく咲いてたじゃん。えーと、あ、アレアレ」


手招く藤代に急かされて、三上は重い腰を上げて窓辺へ近づいた。
藤代が指差す先の、中庭の隅に並ぶ木々を見下ろすと、それはそこにあった。

硬い葉の隙間に密集するように咲く、細かな橙色の花。甘いような気立てのいいその香りは、この季節になるとその姿が見えなくても漂ってくるほど強い香りを放っていた。小さい頃に嗅いだ匂いはいつまでも鼻に残って、その香りが届くと一緒にその頃の記憶も連れ帰ってくる。


「あの花よく咲いてたよね。あんまりハラ減ってたもんだから食べちゃったりしてさ、そしたら花粉がまずいのなんの!喉にひっつくみたいにずっと残ってさ、水ー!って、でも水もないし!バカだよねー」
「覚えてねーよ」


”思い出す”ということに、笑顔を浮かべられる藤代。
その隣で、匂いを感じる前に目を逸らす三上。

部屋の中に戻っていく三上の背を見て、藤代は小さく、目の輝きを落とした。


「藤代、俺もう出るぞ」


いつから呼び名が「藤代」になって、いつからか敬語を使うようになって、ずっと呼んでいた名前も呼べなくなった。思い出の中で呼んでいた名前は、もう、呼べない。だからせめて、尊敬の意も込めてその称号を呼ぶ。


「大佐」


明るい朝の日差しを背に、藤代は着替える三上の背を見た。
三上が振り返り見たその目はいつだって、子供の頃のまま。
ずっと見せ続けてきた瞳のまま。


「次の遠征は俺も連れてってくださいよ」
「あ?」
「ずっとついてくから」


いつかの思い出はもう、この家ではどこにも見えないけど、
この人は思い出したがらないけど、

だからこそ


「うぜぇよ」
「それが取り得だから」
「うざ!」
「ははっ」


部屋を出ていく三上の後ろを、藤代も跳ねるようについていった。

パタンとドアが閉じた部屋の中は窓が開いたまま、
橙の花の香りが残った。












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