郷愁の香りの中で、安らかに眠れ。











BAMBINA


Nostalgia











「・・・あっれー?」


部屋から出て、屋敷を出る前にトイレを借りにいった後のこと。
正面に長く続く赤じゅうたんの上で藤代は、ぴたりと足を止めた。
前を見て、後ろを見て、歩いてみて、止まってみて


「あっはは。迷った」


まさか、どれだけ広かろうと家の中で迷うとは。
適当にこっちかな?と歩いてみるけど、肝心の玄関に行き着かない。
とりあえず1階まで下りてきて、窓の外を見つつ歩き続けてその奥にようやく、出口らしきドアを見つけた。パッと笑顔を取り戻しドアに駆けていく藤代は、ガチャリと開けて、でもその向こう側が玄関ではないようでまた、足を止める。

もー、この家広すぎ。
ぼやいて引き返そうとしたとき、ドアを開けた先に延びている橋のような渡り廊下の先にある扉に目を留めた。僅かだがその隙間から、白い煙のようなものが漏れていたのだ。
かかか、火事!?
驚いて渡り廊下を走って扉を開けると、その中はさらにもわりと白い空気が立ち込めていた。その匂いに思わず鼻を覆ったけど、それは煙たさとはまた違って、強烈な花のような匂いが鼻腔を突いた。


「ごほごほっ、なんだぁこの部屋」


匂いにむせながら涙目で中を見渡すと、部屋の奥でガタリと物音がした。
目を凝らしてみると窓があって、その手前に、人影が見えた。


「え、誰?」
「・・・」
「えーと、ここ君の部屋なの?ゴメン俺、煙出てたから火事かと思ってビックリして開けちゃった」


ドアが開いたことで少しずつ解けていく視界の中で、逆光の影がくっきりとその姿を見せていった。
見覚えのない少女。藤代はに会ったことがなかった。この屋敷で見る女なんて数人の使用人以外にないのに、使用人といった風貌でもないその少女に首を傾げるばかり。


「てゆか、すごい強烈な匂いだな。よくこんな中にいるね」
「・・・」
「うえ、吐きそ。窓開けよーよ窓!」


いまだ匂いに激しくむせる藤代は部屋の中へどんどん足を進め、は部屋の隅でさらに後ずさった。ももちろん、この男が誰なのかわからない。ただその軍服を見た限り、三上と同じく城に殉ずる人間だということがわかるだけ。そんな藤代はの前まで来るとガッと窓を開け風を通した。部屋に篭った安息香がドアから窓へと吹きぬける風に乗って流れていく。その代わりに部屋の中に秋の風が満たされる。


「はぁー。で、君だれ?」
「・・・」
「あー鼻もげるかと思った。なにこの鉄格子、邪魔くさいなー。てかこの離れに人住んでたんだ、初めて見た。いつからいんの?てかほんと、この匂いたまんねー。城ん中みたい」


返事どころか相槌を挟む間もない藤代の言葉に、はただ目を大きくして藤代を見上げていた。
ここにきて数ヶ月、話す相手といえば英士だけ。それだけに、これほどまでに明るく怒涛のように話しかけてくる人間に慣れていないは驚きの目を隠せなかった。


「あ!そーだ」


べらべらと言葉を並べたてていた藤代は、窓から中庭を見つめながら声を張り上げ、またの肩をビクリと揺らせた。そして藤代は何を思い立ったのか離れからバタバタと出ていく。なんだったのだろうかと藤代の後姿を見つめていたは、今度はその藤代が中庭に現れたのを発見した。
渡り廊下から下り立って中庭に出た藤代は、中庭を囲む塀までいくと並んでいるある樹の袂で、橙色の花がついている木に手を伸ばした。枝をポキン、とひとつ折るとその枝を持ってまた走り出し、途中でいつも庭の掃除や花の手入れをしている庭師に注意されたのにゴメンゴメンと軽く笑ってたったか離れへと戻ってくる。
部屋の中に戻ってきた藤代は、その手に橙色の花のついた木の枝を持っての傍まで来ると、にこりと大輪の華のような笑顔を乗せてハイ、とに差し出した。


「え?」
「コレすっげーいい匂いするんだよ。こっちのがいーよ」
「?」


藤代が何を言いたいのか、よく理解できなかっただけど、木の枝を手渡す藤代があまりに無邪気に笑いかけるから、はゆっくりとその木の枝に手を伸ばし受け取った。
その橙の花から、ふわり香ってきた香り。
それはがずっとこの窓辺で感じていた、どの花の香りだろうと思い探していたあの甘い香り。
いい匂いでしょ?とにこり笑って問いてくる藤代に、もうんと頷いた。


「昔住んでたところにこれがいっぱい咲いててさ、この匂いすると思い出すんだよね。俺今でこそこんなカッコしてるけど、すっげービンボーでさぁ、毎日食うものなくて、この花食ったこともあったんだよ」
「・・・たべれるの?」
「ないない!すげぇ花粉臭くてさ、でもそん時はほんと飢えてたからとにかく何でもよかったんだよ。だってこんないい匂いするんだからうまそーじゃん?」


ケラケラ笑い飛ばす藤代に、思わずつられるようににもぽろりと笑みがうつる。
思わず笑うなんて、記憶になかった。誰かに笑わされることも。


気温の上がる窓辺。
窓辺で椅子に腰掛けるの手に握られている枝を見つめて、床に座り込む藤代は次々思い出話を口にした。
生まれたと同時に親が死んで、集落の村人たちに育てられたこと。貧しい村で、流行り病で死にかけたこと。災害で村が壊滅して、住む場所もなくなったこと。あまりに楽しそうに話すから、その内容はちっとも悲壮を感じさせない。


「でも村じゃ限界あって、仲間のみんなで帝国に行こうって決めたんだ。ここなら仕事とか家とか出来るかもしれないって思ってさ。でも俺らまだ10歳くらいだったからろくな仕事もなくて、食べるものも寝る場所もなくて、仲間もどんどん死んでって」
「・・・」
「冬は一番つらくてさ、寒いのとハラ減ってるので幻覚とか見ちゃうんだよ。死んだほうがラクだって思ったなぁ。そん時に俺、あきちゃんに会ったの」


藤代の口から毀れてくる、慰めのような思い出話を聞いていたは小さく首を傾げた。
そんなに気づいて藤代は「ああ」と笑いかける。


「ここの大佐だよ。俺ら幼馴染なの」
「・・・」
「あの人も俺らとおんなじで故郷も親もないの。でも、あとは死んでくだけかなーなんて思ってた俺らとは違った。正しく生きてたってハラは膨れない、生きるためにやっちゃダメなことなんてなんもない。ただ無駄に死んでくより、食い物盗んでハラ満たして、金奪って服でも靴でも買えばいいって。バカ正直に国の法守って死んでやることないんだって。それから散々盗みもやらかして、でも今じゃ軍にいるんだよ。信じられないよね」
「・・・」


って、それバレたら俺も大佐もヤバイんだけどねー。
そんなことを言いつつ、藤代はやっぱりケラケラと笑い飛ばした。
本当はバレることなんて大して、重要ではないように。


「俺、あの頃が一番楽しかったんだ。未来も希望もなかったけど、そのときが一番楽しかった。それって毎日、生きてるって感じがしてたからで、それを教えてくれたのは大佐で。何でも一緒で、いつでも一緒で、」


ほんとに毎日、一緒にいた。家族だった。
ずっとこのまま一緒に生きてくんだって思ってた。


「・・・なんで軍になんて入ったんだろ。信じられなかったなぁ、軍隊なんて俺たちむしろ嫌ってたのに。急に俺たちの前からいなくなって、その次会った時にはもう軍人で、俺らの仲間もしょっ引かれたことあってさ、仲間の中じゃ完璧裏切り者だよ」
「・・・」
「今でもわかんないんだよね。聞いたってどーせ教えてくれないだろーけど。何考えてんのか全然わかんないし、でもなんか危なっかしくてさ。昔はあんなんじゃ、なかったんだけどなぁ」


ふと笑い終えて、藤代はの手の中の橙に目を留める。
ずっとこの香りがしてた。いつでもその香を嗅げば蘇ってくる、郷愁。
時間が経てば経つほど、遠くて見えにくいけど。

陽光が空高く上って、部屋の中にその光と温度が差し込み出す。
藤代の声だけが静かな離れに沸き起こっていると、ガラッと扉が開く音がその空気を裂いて響いた。そこから顔を見せた英士は部屋の中を見てぎょと目を丸くする。


「ちょっと、なんでいるの」
「なんか話盛り上がっちゃってー」
「君じゃなかったら殺されてるよ」
「いや、俺でもコロスかも、あの人なら」


もうこの離れのドアにも窓にも始終鍵がかけられることはなくなったというのに、その危険を害すのが中からの脱走ではなく外からの侵入だったとは。そんな頭痛を押さえて急かす英士の声色などお構いなしに、藤代はよっこらせとゆっくり腰を上げバイバイと手を振る。


「・・あなたは、どうして軍に?」


ふと静かにを見つめた藤代は、それでもその後で無邪気に大きな笑みを広げた。

軍人になったあの人は、裏切り者とまで言われたのだ。
何故そんな人を追うように、渦中へ飛び込んだのか。


「俺あの人好きだから」


だから、どこまでも。
いつまでも。

あの男のことをそんな風に思う人間は、初めて見た。















「またですか」


三上がぱさりと脱ぎ捨てた軍服を拾って、英士は不憫そうな目を投げかけた。遠征から帰ってきたばかりだというのに、翌日から休まず仕事に行ったかと思えばまた長く家を空ける仕事を言い渡されて帰ってきたのだ。煙草も吸っていないのに長く深く息を吐くその後ろ姿は、不憫としか形容し難い。

しかし、いつもならぶつぶつと鬱憤を晴らすように文句を言いそうなその口が、珍しく何も言わず溜め息すら発さない。苛立ち深い顔をしてはいるが、ただ黙って着替え煙草を咥えるその様子は、英士ですら何を考えているのか判らなかった。疲労が蓄積しすぎて文句を言う気力もないようだ。


「食事は?」
「いい」


ソファに深く体を委ね煙を吐き出す三上は、ここのところ息つく間もないほど仕事に追われているせいか、ろくに食事をとっていなかった。それに反比例して増えていく煙草の本数もさることながら、幾度も咳き込む姿を英士は認識している。


「最近よく咳をしますね」
「あ?」
「黒川を呼びましょうか」
「いらねぇよ」


大して減りもせず、煙草をぎゅと灰皿に押し付ける。
その口から出ているのは口先からの息というより、腹の奥底から搾り出すような疲労感の篭った重み。


「もう休まれるんですか?」
「ああ」
は?」


また新しい煙草を取り出す三上は、カチっとつけたライターの火を見つめた。
ゆらゆら揺れて混じる赤とオレンジが目に映る。その火を寄せて煙草の先をジッと焦がせば生まれる煙と強い香り。


「いらねぇ」


天井を仰いで大きく煙を吐き出す。
もわり、白煙が充満して、ドア口で英士が一度咳をして「わかりました」と体をドアに向けた。

絶え間なく、何度も煙草をつけた。その匂いで部屋をいっぱいにした。
今朝藤代が窓を開け放ったまま出ていったせいで、この部屋にはまだ窓の外の匂いが残ってる。
それを消したかった。


匂いは一番記憶に残り、意識を昔に引き戻そうとする。


ち、と煙草を咥える口の隙間で小さく舌を打つ三上は、立ち上がりドアを閉めようとした英士を押しのけて部屋から出ていった。そのまま赤じゅうたんの上を歩いて、1階まで下りてくると離れに続く扉を開ける。

離れの中はいつものように、安息香の匂いが充満していた。
ベッドの端に座るが見ている先の窓も閉まっていて、外の匂いなんて微塵も感じない。
振り返って見上げてくるの肌に、噛み付くように口をつけた。
肌に染みこんだ強烈な花の匂いがする。それは淡い野花のような柔らかさではなく、甘い中にも鼻の奥を刺激するような、誇り高き気高さを前面に出すような高貴な香り。

それでいい。
それがいい。


「・・・」


着物をぐいと引っ張り脱がそうとした三上が、突然ぴたりとその手を止めた。
寄せていた口を離して、ゆっくりとから離れる。
突然どうしたのかと、も目を開けてそっと三上を見上げた。


「・・・おまえ、外に出たか」


静かな部屋の中で、三上の低い声がにだけ届く。
その意味がよく判らないけど、まさか外どころか部屋からも出ていないはフルフルと首を振る。
すると三上は、今度はさっきよりずっと強く舌打ちをして、から離れ背を向けた。

の手に、またあの匂いを感じ取った。

背を向けたまま何も言わなくなった三上の背中を見ながら、は起き上がった。
性を吐き出した後の三上の扱い方は酷く、物以下なのだ。
何かが癪に障ったんだろう、静か過ぎる背中に小さな恐怖すら感じた。

すると、静かにそっと三上が振り返り、に目をやった。
小さくビクリと体を揺らすだけど、その様子を気に留めず三上はに近づていき、そのままの体ごとベッドにその身を横たえた。


「・・・」
「・・・」


三上から毀れる息が、ふとの額を撫ぜる。
どうしたのか、どうしたらいいのかも判らずに、シーツとその大きな体に挟まれてはただしきりに瞬きを繰り返した。の身体を下に抱き込むように覆いかぶさって、でもその手も口もどこにも触ようとせずにただ体を委ねている。そんなことは初めてだった。


圧し掛かった体から伝わってくる息遣いが、次第に安らかに、深くなっていく。

その寝息は幼いまでにやさしく、意外なまでにやわらかく、


細かな橙色の香りを彷彿させた。












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