それは一重の幻想。 過ちゆえの、感傷。 B A M B I N A 中庭を彩る花々が、冬の冷え込みと共にその色を落としていく。 季節はそうして低下の一途を辿るのだと思っていたのに、ある日、不思議なほど暖かい日差しが降りてきた。朝の冷え込みもさほど感じず、例年なら凍ってしまう川の水もさらさらと流れゆく。今年は暖冬かと思わせた冬の矢先、上着も要らぬほどの陽光が帝国を包んでいた。 「英士ー、俺もー帰っていいー?」 「・・・」 天井高い玄関で、躊躇なく大きな声で自分を呼び止めた若者に、英士は歩いていた足を止めてけわしい顔をした。目線の先には、つい先ほどまで欠伸しながら門の前に立っていた門番が堂々と手を振っている。そのノンキな男につかつかと詰め寄る英士はずいと顔を近づけた。 「何度も何度も何度も言うけど、屋敷の中で大きな声出さないで。この玄関から出入りしないで。交代くらい自分たちでやって。ちゃんと交代するまで門前から離れないで」 「お、おお。いつもいつも堅いなお前は」 「結人の頭の中がやわらかすぎるんだよ」 「でもさー、最近大佐あんま屋敷にいないじゃん」 「今はいるよ」 「うっそぉ!」 ヤベ、という顔をして結人がまた高い声を上げると、英士は容赦なくその頭を持っていたほうきで叩いた。広い玄関に衝撃音と、いってぇ!と結人の声が響く。 「いつ帰ってきた?俺見なかったよ?」 「昼過ぎに帰ってきたよ。結人が来るより前だったんじゃない?」 「まじでー?どーしちゃったの、いつも朝早くから夜遅くまで帰ってこない人が。ってか、さっきの聞こえてたかな、やっべークビ切られたらどーしよ!俺今クビんなったらちょー困んだけど!」 そう思うなら何故もう少し声を小さくしようと思わないのか。ヤバイヤバイといいながらそのテンションと声色をまったく下げようとしない結人の頭の中が英士には理解できず、目の前で騒ぐ結人を不憫なような可哀相な目で言葉なく見つめた。 「まぁ今は大丈夫だと思うよ。部屋にはいないし、ここからじゃ声も聞こえないだろうし」 「へ?じゃあどこにいんの?」 「・・・。どこでもいいでしょ。仕事終わったんなら帰って。無意味に居座ると不法侵入で捕まえるよ」 「おま、ヒデェ奴だな!主人が主人なら使用人も使用人だ!」 「・・・だから、」 声がでかい! シャンデリアの明かりが降り注ぐ眩しい玄関に、パカっと軽い頭を叩く二度目の音が響いた。 そんな屋敷の中心である玄関から伸びる廊下の、赤じゅうたんの続く先。一枚のドアの向こうに現れる渡り廊下のそのまた先の、小さな離れ。 「・・・騒がしいな」 遠くのほうから僅かに耳に入ってきた声で目を覚ました三上は、沈むベッドの上で小さく呟いた。その三上の頭を膝に乗せるもその声を聞き取っていて、ドアのほうに目を向ける。 くぁ・・・と欠伸をかみ殺す三上は、目を覚ましたばかりでまだ意識が薄い。の膝の上で寝返りを打ちドアに背を向け、幾度も毀れる欠伸をその膝に押し付けた。自然とじわり滲んだ目で見えるのは日の暮れた真っ暗な窓とその向こう側の鉄格子。 「暗ぇな。今何時だ?」 屋敷に帰ってきてこの離れに来た頃はまだ明るかったのに、早々に寝落ちてしまったらこの暗さ。一体どれだけ寝入ってしまったのか。どれだけ疲労が蓄積しているのか。 とはいえ、この小さな部屋に時間を知らせるものなどない。ここはしか存在しない場所で、そのに時間など必要のないものだから、あるはずがない。そんなことは三上もわかっているし、別段時間を聞きたくてそんな言葉を発したわけではない。ただ悲しいことに、自分は時間に縛られた生活をしているから、時間を気にするのは癖なのだ。 はここ数日、何度もそんな三上のただの言葉を耳にしていた。 ぽろりと不意に独り言を零す。今までなら、今でも普段なら、誰かいる場所で無駄な言葉なんて絶対に零さなかった。を一人の人間として意識していないからか、気を張る対象ではないからか、一人でいるときの感覚と違わないからか。三上は答えを求める風でもなく言葉をぽつりと零すようになった。もそれに答えることはない。これまでと同じようにその口は開かれず、この狭い室内に存在しているだけ。 むくりと体を起こし、三上は床に足を着くと窓辺のテーブルの上にある煙草を手に取る。一本取り出して咥え、火をつけようとライターを切っ先に近づけるけど、ふと目の前の窓を見てその手を止めた。 窓から覗く四角い夜空に大きく居座る丸い月。明るい夜は空の時間をさかのぼるかのよう。その月明かりに照らされる中庭の木々。春になれば彩られるだろう花壇も今は茶色い枝だけが寂しく存在している。 なのに、庭の隅に居座る一本の桜の木が花を付けていた。 季節は冷え込みの一途を辿ると思っていたのに、数日前から突然冬を飛び越え春が来てしまったのかと思うほどに暖かい日が続いていた。暦上は冬なのに、あまりの暖かさに芽が思い違って顔を出してしまったのか、枝の先に転々と白い蕾をつけていた。 「・・・」 窓の向こうのそれを見ていた三上は、咥えた煙草を取り手を下ろした。そして窓から離れドアへと歩き、くぐった後で足を止める。そしてそっと振り返った。 その先では静かに座っている。薄暗い中でよく見えない表情は何を思っているか判らないけど、その目は確かに自分を捉えていた。しばらく目を合わして、でもその後はふと目を離し、全てが過ぎたことのように目を伏せた。 「・・・こい」 聞こえるか、聞こえないか程の小さな低い声。でも静寂のこの場では言葉とまではいかずとも音にはなって、それを耳にしたはまた三上に目を上げた。三上は変わらずに目を留め、でもがそこから動かないものだから手を出し指先で招いた。 ここ数日その手は、三上のへの触れ方は、明らかに変わっていた。きつく掴むことも爪を立てることもなく、噛み癖は生来のものらしく変わらないが、柔い肌に痛く痕を残すことがなくなった。 ベッドから立ち上がりはそこで待つ三上の元へと歩み寄る。そうすると三上はドアから離れ、廊下から飛び降り裸足のまま中庭の芝生へと降り立った。 でもその後ろでは戸惑ってしまう。離れのドアの手前から出ることが出来ずにいた。それは呪縛だった。ここからは出られないと体に脳に染み付いていた。このドアが鍵もかけられず、たとえ開け放たれていたとしても、はこの離れから一歩も外に出ることはなかった。 前を行く三上はいつも窓から見ていた中庭のほうへ歩いていく。そのうしろ姿は夜の闇に飲まれるように次第に消えていく。それに引っ張られるようにして、はそっと境界線を踏み越えた。 「・・・」 外の空気はひやりと冷たかった。いつも常温に保たれた個室では感じられない寒さ。体がその温度を拒絶して皮膚が凝縮し毛穴すら閉す。ざわりと肌が逆立って髪が風にさらわれ、冷たい風は自分の安易な守りなど簡単に吹き飛ばす。建物の隙間で若干強い風とはいえ人が煽られる強さではないが、それでもにとっては未知の敵のようだった。 には外を歩いた記憶がない。物心ついた時から一度も。いつも家の中にいて、小さな窓から外の世界を見つめるばかりだった。夜の闇がこんなにも大きいことも、草花を揺らす風がこんなにも強いことも知らなかった。その意味も知らなかった。それが当たり前だと思っていた。 三上がひょいと飛び降りたこの高さを飛び降りるのも並の決心ではない。どうすればいいのか、はしゃがみこんで下を見たまま動けなくなってしまった。 「何してんだ」 冷たい空気に混ざる白い吐息のような、静かに生まれた穏やかな声がすぐ傍から聞こえた。遥か遠い地面から目を上げるとそこには三上がいて、一度肩をコキリと鳴らすとに手を伸ばし腕を掴んで無理に引っ張った。 「きゃ・・」 堕ちていく感覚は体に恐怖を感じさせ思わず声が漏れた。は咄嗟に腕を掴んでいる手にしがみつくけど、この高さからどこに落ちることもなく体は地面に安易に降り立った。 そのまま三上はまた奥へと歩いていく。そのうしろ姿について足を動かすはその感触に驚いた。敷き詰められた芝生はひやりと冷たく足裏を小さく刺すように刺激する。でもその感触は歩いているのに浮いているようで、足を一度、また一度動かすことが面白いと感じた。 庭の中心はまるで異世界だった。いつもはガラス一枚隔てた向こう側の世界。草も花も木も空も太陽も月も、全て一枚の絵画のように四角い箱に押し込まれている大きさだったのに、ここでは一度では見切れない360度に広がった色と形で存在している。今まで生きてきて自分の中に残ったもの、その全てが覆されようとしていた。 どこまでも続いている闇の空は飲み込まれそうで、は小さな怖さを感じた。空だけじゃない。四方八方、自分を囲うものは何もない。閉ざそうとする壁も行動の限度も視界の果ても何もない外はただ開放的で、それら全てを面白いと思えるような大きな心は持ち合わせていなかった。 は辺りを見渡した。色を落とした冬の庭は簡単に夜に飲み込まれて溶けていく。その中に、ぼんやりと闇に溶ける三上の背中を見つけた。 三上は庭の端で一本の木を見上げていた。その目線の先には、木から伸びた枝先に添えられるようにひっそりとした小さな蕾。あまりに白く小さいそれは夜に飲まれ、風に揺られ今にも飛ばされそうなほど弱く見える。 でもその蕾は、色を落としている全ての植物の中で唯一色を持っていた。 白く、小さく、弱く、柔らかく、でも確かにひっそりと芽吹くそれは目に鮮やかに残った。 風が冷たく吹き抜ける外。 丸い月と屋敷から毀れる明かりが照らす中庭。 その隅で、風に髪を浚われながら目前の背中はずっと、そのちっぽけな白を見つめていた。 |