愛でるほどに、丹精込めるほどに微笑み返す。 だから、すきなんだ。 B A M B I N A 城を中心に東西南北に四分されている帝国。軍事国家であるこの国は皇帝を頂点にしてはいるが、実際に市民の前に立ち統括しているのは各区域の組織、大佐であった。各区域の大佐の人格は組織に大きく反映し、それは自然とその区域に住む市民にも反映する。その一角である西は商売の盛んな土地で、各区域との交流もありながら昔ながらの老舗も多く残る文化的遺産の多い土地でもあった。 「うあ、さっみー」 小走りに走っても温まらない体を痺れさせながら一馬は屋敷に急いだ。ここ数日、意外なほどの温暖が続いているけど、毎朝の冷え込みはやはり厳しくなっている。まだ夜も明け切らぬ早朝、口から毀れる白は色濃く生まれ、手を擦り体を震わせながら足早に歩を進めた。 西の大佐である三上の屋敷は意外にも街からは離れた場所にあった。ここの大佐は善しも悪しきも噂が絶えず市民にとっては近寄りがたい存在であったため市民にとっては有り難いことではあるが、屋敷に通う身としてはただでさえ早い出勤時間がさらに早くなるのがこの時期は億劫でもある。 「あーあ、また寝てる。アイツ絶対そのうちクビ切られるな」 屋敷御用達の庭師になったとはいえ屋敷の中に入ったことは一度もなく、同じく屋敷で働く者ですらなかなか会わない。以前、屋敷の使用人頭という同じ年程の少年に会ったことはあるけど、それも一度きりだった。だから一番多く顔を合わすのは屋敷に出入りする時に会う門番だ。昼夜を問わず門前に構え出入りを監視するその目の厳しさはさすが大佐の屋敷の門番と言いたいところだが、何故かその中に一人、毛色の変わったやつがいる。朝焼けに遠目でも色鮮やかな栗毛がこっくりこっくりと揺れていた。 「おい、起きろよ。仕事中だろ?」 「・・・ぅえっ」 「この寒い中よく立ったまま寝れるな。涎出てるぞ」 まだ寝ぼけているようで何を言われているのか判っていなさそうだけど、半開きの目でぐいと口元を拭うところを見ると聞こえてはいるようだ。珍しい髪色をしたそいつはパチパチと瞬きを繰り返し、目の前にいる人間を覚めきらない目で見つめだんだんと意識を覚ましていく。 「んあ、なんだおまえ!ここは部外者立ち入り禁止だぞ!」 「今更説得力ねぇよ。俺が盗賊かなんかだったらお前が寝てる間にとっくに入ってるっつーの」 「ああ、それもそーだな。で、お前だれ?」 「庭師の真田だよ、何度も会ってるだろ?」 「あーあー。あれ、じいちゃんは?」 「今日は来ない。最近また体調が良くなくてな」 今年の春に屋敷から庭の管理を任されたのは、西地区で古くから植木屋を営む真田家で、その当主である祖父の下、家業を継ぐべく孫の一馬が祖父の後について仕事をするようになったのは15の頃だった。ここの庭を任された時は祖父と二人毎日一緒に来ていたのだが、今年の夏に一度倒れた祖父は仕事をこなすことが困難となり、今では一馬一人で庭を管理していた。 「一人でこのでっかい屋敷の庭管理すんの大変じゃん」 「でも初めて一人で任された仕事だし、やりがいあるよ」 「ふーん、マジメだねー。まぁここ給料いいしな、独り占めじゃん」 「まぁな」 「ははっ。お前、名前なんだっけ」 「だから真田だって」 「いや下のさ」 「下?一馬だけど」 「一馬な、俺結人」 そう、日が昇って明るくなってきた空の下で結人は二カッと人懐こい笑顔を満面に向けた。もの珍しい赤茶色の髪はこの地域出身ではないようだけど、そんなこと本人はまるで気にしていないように見えたし、その笑顔は本当にそんなことどうでもいいように思わせるものがあった。 結人と別れ門をくぐった一馬は屋敷の裏にある使用人用の建物に入っていく。そこで着替えを済ませると毎日の仕事は始まる。 手始めに水巻き。屋敷を囲むように垣根が続いているからまずこの広い屋敷を一周することから始まる。ホースが届く範囲などたかが知れていて、ほとんどがバケツに水を汲み巻いて回る手作業。それが終わると今度は無駄に延びた枝や葉を切りそろえながら落ち葉の掃除の二周目が始まる。 そしてその後は植物の一つ一つを丹念に観察し、ものによって薬をつけたり葉の一枚一枚の埃を拭ったりと種類別に世話をしていく。そんな毎日の日課が終わる頃には太陽はすでに昇りきっていて、一度休憩を挟んで今度は屋敷に飾る温室の薔薇の管理や春に向けての花壇の手入れ等に入る。結人の言ったとおり、一人ではやることが溢れすぎてなかなかの重労働なのだ。 屋敷を一回りして水撒きも終りを迎えようとした頃、中庭の花壇の真ん中にいた一馬はふと振り返りある場所に目を向けた。それは、大きく構える屋敷の陰にひっそりと佇む小さな小屋のような部屋。始めはただの物置かと思っていたのだけど、ずっと閉まって埃を被っていた窓が綺麗に掃除され時折開け放たれているのを見るようになったのは、命短い睡蓮の花が枯れていった夏の終わりだったと思う。 屋敷から延びている渡り廊下を英士が歩いていくところを頻繁に見るようになったのもそのくらいの季節からで、それからはどうやら頻繁に使われているらしく、夜に赤い明かりが窓の向こうで灯っているのを見たこともあった。 そして、中庭の奥で妖艶な色をもたらしていた花が散った秋口、その些細な明かりが漏れる窓辺に人影を見るようになった。鉄格子の向こう側、薄い窓のさらに向こうでひそりと佇むその影はどうやら窓の外を見ているようで、ずっと窓の隅に居座っては日が暮れるまで中庭を見ている。 それは少女のようだった。窓から見える部屋の中は常に薄暗くて、太陽光が反射する窓ガラスの向こうにいるその姿は見づらいのだけど、窓の袂で張り付くように始終中庭を見ているその華奢な姿形くらいは判った。こんな大きな屋敷なのに、あんなちっぽけな小屋に人が住んでいるのか。英士が食事を運んでいくところも何度も見かけているからには、少女はあの小さな離れに住んでいるようだった。 また見てる。 窓の向こうに今日も中庭を見つめる少女を見つけた一馬は水を撒く手を止めて思った。何を見ているのか、少女の視線を追うように中庭の端に目をやると、屋敷の塀に倣うように並ぶ桜の木があった。 春に咲き乱れるため、今は厳しい寒さを耐え凌ぎ身を硬くする桜の木。乾いた枝が空に向かって伸び散らばるそれに水を撒く必要はないから近寄りもしなかったけど、白い空に茶色い枝があるだけのはずのその切っ先に、白く柔いものを見た。 「え、うそ」 思わず口を零した一馬はその白を見つめたまま桜の木に駆け寄った。近づくにつれはっきりと確認できるそれは、確かに桜の花の蕾だった。 春の花とはいえ桜の季節は短い。すぐに葉になりそれも散って後の長い時間を木として過ごすそれが、まだ冬も始まったばかりのこの季節に芽吹いたのだ。冬でも暖かい日が続くと桜の花が春と勘違いして咲いてしまう、という話を聞いたことはあったけど、実際に冬に咲く桜を見たのは初めてだった。 元々花の季節など、人が決めたもの。草も花も細かな時間を気にしているわけではなく、環境が勝手にそうさせているのだ。とはいえこんな季節に桜を見ると、春に見るそれよりもなんだか、得した気分になる。白い小さな蕾を見つめて一馬は笑顔を零し、そっと蕾に触れた。 そしてまた一馬は振り返った。これに気づけたのもあの子のおかげだ。まだ笑顔を引きずったまま一馬はあの小さな部屋の窓に目を向け、窓の隅に居座るあの姿に目を留めた。・・・でもその姿はすぐに窓の奥へと引っ込んでしまった。 「・・・」 いつもそうだった。ずっと中庭を見つめる少女と、始終中庭にいる自分が自然と目が合うことは今までも何度かあったけど、いつも目が合ったと思う度、少女は部屋の奥へと消えてしまう。 何故あんな小さな離れに毎日篭っているのだろう。あんなに窓の外を羨望するからには、きっと花や草木が好きなんだろうに、だったら出てくればいいのに、少女はまったくそんな気配は見せない。たまに英士があの窓を開けているところを見たこともあったけど、閉まっているときと同じく少女はそれ以上を求める様子を見せない。 この中庭を見てあの子は、何を思っているのだろうか。 あの瞳で何を見て、どう感じ、どんな花に笑顔を零すのだろうか。 蕾のように閉ざされた口で、彼女はどんな声で喋るのだろう。 儚げで繊細で、その存在すら朧に見える少女。 まるでこの桜のようなあの子は、なんという名なのだろう。 |