瞳に何を映すのか、遠い空を見上げるだけで。 小さな羽を広げてみせる、その籠の中でだけ。 B A M B I N A 早まって現れてしまった白い蕾が数日後にはふわりと綻んでいた。白い中に薄紅を混ぜた柔い花が乾いた印象しか残さない茶色い枝先に色を添える。幻想と儚さ、その奥に垣間見る純と真の強さを帯びながら、ただささやかに存在している。真冬に現れた小さな春は、寒さも忘れて立ち尽くしてしまうほどの引力を持っていた。 「さくらぁ?一馬、今は冬だぞ?」 「判ってるよ、でも咲いたんだって。疑うなら自分で見てみろよ」 「咲くワケねーじゃん、桜だろ?」 使用人用の建物の一階に位置する食堂で、一馬はずっと誰かに言いたくて堪らなかったことをちょうど出勤してきた結人に話した。食堂と言っても食事が出るのは中で働く人間だけで、一馬や結人のように通いの人間は自分で持ってこなければいけないのだけど、結人はいつも食番のお姉さんに甘えついては残り物にあやかっていた。 「お、えーしー!」 今日も手際よく残り物のスープとパンを手に入れ仕事前の腹ごしらえをする結人は、食堂に入ってきた英士を見つけて手招いた。結人が躊躇いなく大声で自分を呼ぶことに英士は満面に怪訝な顔を見せる。 「また・・・。前に言ったよね、ここで食事が出来るのは」 「まーまー。それより聞いてよ、こいつがこの真冬に桜が咲いたってゆーんだぜ?信じられないよなぁ?」 無理に話題を変えた結人を判っていながら、英士は一馬に目を向けてきたから一馬は少し緊張した。隣で結人が「なにビビってんだよー」とケラケラ笑うけど、誰も英士と明るくお喋りしているところなんて見たことがないし、通いの人間で英士に敬語を使わないなどあり得なかった。 「桜って冬にも咲くものなの?」 「え、あ、珍しいけど、最近暖かかったから、かな」 「だよなー、昼間なんて立ってるだけで暑くて汗かくもん。じゃー今からその桜見に行こーぜ」 「結人は早く仕事に行って。遅れたら今日の給料出さないよ」 「わーかってるよ・・。だったら仕事終ってから行こーぜ」 「労働時間外に屋敷に居座るのは禁止。この食事代も給料から引くからね。さっさと仕事して」 「ほんっと頭かてーなお前は。友達いねーだろ」 英士がジロリと厳しい目を結人にやると、結人は「さ、仕事仕事」とそそくさと立ち上がり食堂を出ていった。早く仕事を、という英士の言い分は最もだけど、この場に二人で残されるのもなぁと一馬はまた少し身を堅くした。 「真田、後で玄関に花瓶置いとくから花用意しておいて」 「あ、はい」 さっきまでの空気はさらりと水に流してしまったかのように、英士は静かな口調で言い残し歩いていった。また緊張して答えてしまったことに一馬は同じ年程の人間相手にいささか余裕の足りなさを感じたけど、あの静寂の中の刺すような目線と空気に囚われては誰だって緊張するよな、と心の中で自分を慰めた。 屋敷の中に飾る花を用意するのも一馬の仕事だ。屋敷が大きいだけに箇所箇所に置かれている花瓶の数も相当なもので、玄関と廊下と各部屋分用意しようと思ったらかなりの本数がいる。それでも一馬は屋敷の中には入れないから、いつも中の使用人が玄関に花瓶を用意し、置かれる場所を聞いてそれに見合った花を用意して生けるのだ。 「これは玄関と廊下。こっちは個室用だからあまり匂いが出ないものにして」 「温室の薔薇がもういい頃だけど、それにする?」 「いいけど、大佐が帰ってくる頃にまた頼むから残しておいてね」 「大佐今いないの?」 「うん。遠征中」 「へぇ」 だからか、と一馬は玄関を見渡し思った。花瓶を玄関に持ってくるのはいつも掃除担当の人間だったが、その日は珍しく英士が持ってきていた。いつもは緊張感の張り詰めた静かさで明るい光と常温が保たれている玄関も、今日は人気のない静かで明かりも最小限、温度も少し寒く感じた。 屋敷の裏に位置する温室で、一馬は咲き乱れる薔薇の花を数本切り取った。魅惑的で気高い深紅、何物にも揺るがない純白。その存在感と誇り高さは最高位とされるこの花を大佐は好んでいるようで、ここに庭師として雇われた時もこの温室の薔薇は決して質を落とさないようにとまず言われたのをよく覚えていた。 花の足を切り花瓶に挿していく。真赤な薔薇には細かな霞を、純白の薔薇には色とりどりの小花を添えて成る形はひとつの芸術だ。見るものを色と香りと棘で圧倒する。豪華そうな花瓶に一本ずつ中身を重ね完成させていくと、後ろから「上手だね」と声をかけられて、振り返ると英士がいた。 「そうか?俺あんまり作るのは得意じゃないんだけど」 「中庭も綺麗だし、いいと思うよ。大佐も気に入らないものはすぐ切り落とす人だから、何も言わないことはいいことなんだよ」 「そっか、じゃあよかった」 「桜が咲いたってほんと?」 「ああ、ほんとだよ、見てみれば・・・って、仕事中か」 「後で見にいくよ。あれは結人だから言っただけ」 「確かに、アイツはすぐ横道逸れるからな」 「逸れてから戻ってこないから性質が悪いよ」 英士が真剣に鬱陶しそうな顔でそんなことを言うからなんだか笑えた。まだ英士がそこにいることに慣れないけど、抱いていたようなイメージはだいぶ崩れた。話してみると意外と柔らかいし、笑いもする。でもその切欠を作ったのは結人だったっけ、と今頃門の前でうな垂れ立っているだろう結人を想像しまた笑った。 花を完成させて英士がそれを運んでいくと、一馬は中庭に戻った。もう日が暮れかけている。今日は風が強かったから、まだ咲いているだろうかと桜の木まで歩いていった。大丈夫、まだ咲いていると確認事項のように見て、その後、それもまた自然に中庭の隅の離れに目をやった。 今日もいる。窓辺にひそりと、鉄格子の奥に小さな花瓶の一輪挿しのような少女。暮れていく茜空を見上げ、飛んでいく鴉の声を聞いているよう。 すると、その離れに続く渡り廊下を、花瓶を持った英士が歩いていくのが見えた。さっき生けた花瓶の花はあの部屋に飾られるものだったのか。そうだと判っていたら、薔薇ではなくもっとあの少女に見合ったものが用意できたのに。 小さな窓の向こうで英士が棚の上に花瓶を置き、そして窓辺に座っている少女と何か話している。英士はあの少女と話すことが出来るんだ。何を話しているのだろう、どんな声なのだろう。あの花を見てどう思うのだろう。どんな顔で笑うのだろう。 少女は花瓶の花を見つめ、整った高貴さを漂わせるその花に触れることを躊躇っているのか、手を差し伸べては引いて、それでもまたそっと花に触れていた。そして驚いたようにさっと手を引いた。それに気づいた英士が少女に歩み寄り、少女の指先を見ている。薔薇の棘に指を刺してしまったのだろうか。棘を全部取っておけばよかっただろうか。 不意に窓の向こうの光景を見つめてしまっていた。そしてそれを窓の向こうの英士に気づかれてしまって、英士と目が合いようやく一馬は見つめていたことに気づいてさっと目線を逸らした。それでもやっぱり気になってまた離れの窓をそっと見ると、窓の向こうで英士が少女との話の中でこちらを指差していて、それに促されるように窓の中の少女が振り返り、遠い距離で目が合ったように感じた。 しばらくして英士が離れから出て行って、一馬も早く終らせなければと掃除して集めた落ち葉を袋に押し込んだ。もう日が没ちて薄暗い空。今日も暖かかったとはいえ日が暮れれば気温が下がるのは早い。いつも日没までには仕事を終え帰るのに、今日はいろんなことがあった反面遅くなってしまった。 道具も片付けて一馬は帰ろうと、最後に一目、また離れの窓に振り返った。そしてまた、いつもと違う光景を見る。中庭を見る少女の髪が風で揺れている。鉄格子の向こうの窓が開いているのか、あの窓が開く時は必ず部屋の中に英士もいたはず。それとも日没後だとああも簡単に開いているものなのだろか。 赤いほのかな明かりが灯った開いた窓の向こうで、少女は窓辺で自分の指先を見ていた。さっき棘で刺してしまった指を気にしているのか、ずっと見つめている。それを見て一馬は、一歩、足を進めた。 「棘、刺さった?」 歩き慣れた中庭を不器用に歩き、いつも見ていた窓に近づいていった。 四角い枠の中でいつも、一枚の絵画のようだった少女。 でも今その少女の髪は風で揺れ、自分の声を聞き取って睫を上げ、その瞳の中に自分の姿を映している。戸惑っているのか、少女は目の前の一馬を見上げ黙ったまま反応しない。 「薔薇の棘は硬いから、痛かっただろ。ごめん」 「・・・」 「あ、あれ俺が作ったんだ。棘、取っておけばよかった」 「・・・」 必死に頭の中で言葉を探して選んで、大事に投げかけるけど少女からは返ってこない。怪しまれてるんだろか。勝手に話しかけて、怒られるだろうか。嫌がっているのだろうか。 すると、一度指を見た少女は、一馬に目を戻して首を振った。それがどういう意味なのか判らなかったけど、小さくも自分に何かを返してくれたことで一馬はホッとした。 「消毒、した?薔薇に毒はないけど、薬使ってないから菌があるかもしれないからさ」 今度は少女は頷いた。 言葉が判らないわけではないようなのに、言葉は返ってこない。 「もしかして、喋れないの?」 「・・・」 少女はまた首を振るけど、その後俯いてしまった。言葉を話せないようではないらしいけど、喋らない。でもそれよりも少女が俯いてしまったことに一馬は焦り、どうにかしなくてはと思い口を開いた。 「桜」 「・・・」 「桜が咲いたんだ、あそこの。ちょっとだけど、ここからも見えるだろ?」 一馬は中庭の遠くを指差した。少女も目を上げその指のほうを見るけど、桜が咲いたということにあまり反応を示さない。それどころかその目はきょとんと不思議さを抱いているようで。 「桜、知らないの?」 少女はまたひとつ、頷いた。 「桜、見たことないの?一度も?」 こくり、また頷く。 桜を見たことがないなんて。少し前なら貴重とされたその木も、今では至る所で見かける春の代表的な花なのに。目の前の少女はそのことも、桜を見たことがないということが貴重なことも知らないように丸い目を一馬に向けていた。 ちょっと、待って。 一馬は窓から離れ、桜の木めがけて走っていった。枝先についたたった数個の桜の花。今日の暖かさで蕾だったものが綺麗に咲いている。そのひとつに一馬はゴメンと謝りつつぷちりと枝についた部分から取った。 「これが桜」 「・・・」 「春になるとこれがあの木いっぱいに咲くんだ。一つ一つの花はこんなに小さいけど、あの木の上に夏の雲みたいに何倍も膨らんで咲くんだ。薄いピンクが世界中埋め尽くすみたいにさ、すごい綺麗だよ」 一馬は鉄格子の間から、小さな桜の花ひとつを少女に差し出した。頼りなくちっぽけな花。こんな小さな花が世界を埋め尽くすように咲くなんて、想像がつかない。そんな様子で、少女は桜の花を白い手に受け取った。それが嬉しかった。 「薔薇より桜がよかったな」 「・・・」 「似合うと思う」 たったひとつは些細な、弱い白。 でもそれが集まり咲いた時、圧倒する美しさを発する。 「・・・」 手の中の桜の花を見下ろしていた少女は、ゆっくりと一馬に目を戻し 縦に走る黒い鉄の向こうで、ふわり、笑った。 あたたかさに思わず心が緩み、小さい蕾が綻んだ 春の桜のような笑みだった。 |