闇を払えぬのは、先か 後か B A M B I N A 一晩降り続けた真白な雪が夏の入道雲のように積もり、世界を白く冷たく包み込んでいた。色のない草木が背負った重さに耐えられずもたげ、その凌ぎを切らし地面に重みを落とす。近年稀に見る程の降雪に、屋敷の屋根の上では使用人の何人かが雪かきに精を出していた。 大きな窓なのに、外の光は十分でなく部屋の中は照らしきれていない。一枚フィルターをかけたような透明の灰色。視界が曇っているようでぐいと目を擦ってみるけど、再び目を開いたところで何も変わらない。 不意に喉が詰まり小さく咳き込む。なんだか喉の奥がチリチリと不快に刺激して、細かな咳を吐き続けた。目の前のテーブルに用意されたティーセットとその隣の煙草が目に留まるけど、そのどれにも手をつけずに、喉の奥から這い出る咳を口の中で殺し天井を仰ぐように深く背もたれた。 大きな暖炉が太い木を燃焼しながらごおごおと音をたて、真上には今にも落ちてきそうな大きなシャンデリアが明かりもつけずにぶら下がっている。この屋敷で一番広い部屋。先日突然訪れた皇太子を通した、玄関から程近い部屋だ。 三上は珍しくその部屋で、何をすることもなく時間を過ごしていた。いつもなら家にいようとも自室で膨大な量の資料に囲まれているのに、その日は朝からこの部屋で朝食を取りそのままずっとソファに深く腰掛け何もない時間を過ごしている。パチパチと燃える暖炉の木の音に耳を澄ますように、深々と降る窓の外の雪に身を委ねるように、気だるい瞼をゆっくり閉じた。 たゆたう静かな空間に、コンコンと小さなノック音して三上は目を開けた。 後ろでガチャリとドアが開き、静かな足音が部屋の中に入ってくるのを感じた。その音と空気の流れで英士だと判り、三上は背もたれに預けた頭を起こすことなくまた目を閉じた。 「大佐」 すぐ後ろから小さな音量で聞こえた声。無理なく、すっと浸透するように入り込んでくる。珍しい三上の休暇を妨げないようにと気遣っているのが伺え、三上はそれを聞き入れるとゆっくり重い口でなんだと返した。 「渋沢様がお見えです」 目を閉じたまま、でもその名を聞き入れたところで三上はまたゆっくりと目を開けた。 よもやこれが椎名や潤慶、たとえ藤代だろうと英士の声に少なからず躊躇いが混ざっただろうが、英士の伝えようとするその声は変わらず穏やかで、綺麗に頭の中に入ってきた。 三上は体を起こし、テーブルの煙草を一本咥えて立ち上がった。キンとジッポライターを開け火をつけるとドアに向かって歩いていく。淀んだ空気に慣れた煙があがることで現実を取り戻した気がして、次第に頭も視界も冴えていった。 ドアから顔を出し、玄関を見ると思っていた通りの姿はそこにあった。英士の頭よりずっと高い位置から穏やかにふと笑う顔は頭の中の映像となんら変わらない。 「老けたな、お前」 「随分だな。煙草は控えろと言っただろ」 数ヶ月振りの対面だというのに、開口一番出るのは挨拶より先に憎まれ口かと笑う渋沢だけど、渋沢もまた挨拶より先に口をついたのは注意で、相変わらずお堅く真面目な奴だと三上も小さく小さく笑った。 長期の遠征で少し痩せたかと思う頬で、それでもモスグリーンのコートをきちりと着こなし背筋は天にも昇るかと思わせるほどまっすぐ伸びている。揺ぎ無い意思と堅固な威厳。それらを包む温和で柔らかな空気。正反対ともいえる印象を重ね持つ彼の雰囲気は、どの地域の大佐よりも一番に民衆たちにその存在を知らしめ支持を受ける所以であった。 「どうぞ」 「いや、結構だ。ありがとう」 英士が足元にスリッパを差し出すけど、渋沢は柔く断った。つい今しがた遠征地から戻ったばかりで、帰還と結果の報告のためすぐに城へ向かわなければならないと言う。 「皇帝んとこより先に来る奴があるかよ」 「通り道だったからな、様子を見に寄っただけだ」 「気持ち悪ぃな」 照れも恥じらいもなく相手への好意を曝け出せるその目と口に三上は呆れて顔を歪める。その実直さは幼さを感じるほど単純で、積み重ねた叙情を思わせるほど高尚で、どこを取っていいか判らない深さも感じた。 渋沢家といえば、代々帝国、城に仕えてきた血筋を持ち、この国で知らぬ者はいないと言われるほど有名な家名だった。中でも今、渋沢家当主として名を継ぎ、四方の大佐の中でも随一の信頼と実績を誇る彼は、長く続く渋沢家の歴代の中でも秀でた存在だった。 血筋、歴史、伝統を尊重しながらも、新時代、個人を重んじる彼は、まだ大佐の地位に就き数年も経っていない三上をやたらと気にかけていた。はっきりとした出身も親もない三上とは性格も育った環境もまるで違うのに、ふたりは何故か違和感を感じることもなく気が合っていた。 「じゃあ、また時を見てゆっくり話そう」 「そんなヒマがあればな」 指先に提げた煙草の先に今にも落ちそうな灰が溜まり、英士が持ってきた灰皿に押し付け消した。背を向ける渋沢がドアを開けると暖かな屋敷の中に冷たい空気が流れ込み、シャツ一枚の三上の体をひやりと撫ぜる。 英士が支えるドアの向こうで渋沢は「じゃあ」と最後に振り返り三上を見た。三上もまた軽く頷き、丁寧に英士にも目を向ける渋沢はそのまま門に向かって歩き出す。 でもその途中で、ふと足を止めた。門へと振り返る間に視界に入った中庭の、その奥の建物が目についた。白く埋まった中庭の果てに位置する離れの、窓辺の白い雪にぼやりと滲む赤い光を見て。 「あの部屋、使っているのか?」 「はい?」 立ち止まる渋沢が降る雪に紛れて小さく呟くと、玄関先で見送っていた英士はそれを聞いて離れに目をやった。ええ、と答える英士の言葉を聞いているのかいないのか、渋沢はそのまま中庭を突き進み離れに向かっていった。 突然の渋沢の奇行に、英士は驚きながらも止めようと追いかけた。がどんな存在とされているのか、知ってしまった今、これまで以上には明るみに出してはいけないのだと思った。 だけど渋沢の足は迷わずまっすぐに進み、その勢いを止めることは出来なかった。この離れに何があるのか、承知しているような顔つきで、雪を踏み分け渡り廊下に上がると離れのドアをガラッと開けた。 「・・・」 あまりに無音すぎて、雪が地面に積もる音すら聞こえてきそうなほど。そんな離れでは、無心で窓の外を見つめていた。その世界を突然壊すドアの音に心底驚いて、椅子の上で体勢を崩しそうになりながらは振り返った。 ドア元にいたのは見知らぬ男。は覚めきらぬ頭と動揺の目で見つめ、コートについた帝国の紋章を見つけた。 「渋沢大佐、困ります」 追いついた英士が離れに駆け込み渋沢の前に立つ。でも薄暗い部屋の中で、一瞬厳しい目を見せる渋沢に英士は口を閉ざした。三上のそれとはまた違う、自分の動向を考え直させるような視線。 渋沢は英士をそっとどかせ、静かに窓辺に歩みを進める。近づいてくるその存在をは息を潜め見上げていた。 のすぐ前まで近づいた渋沢は、の目を揺るがない瞳でジッと見下げた。目の奥まで見透かそうとするような深い視線から、目を外すこともできずにも揺れ動く目で見返す。そうしてを見つめながら、渋沢は僅かに表情を歪め目を離した。 「彼女はいつからここに?」 「え、はい、半年ほど前から・・」 「・・・」 英士に振り返り問いかけると、渋沢はまた黙りに目をやった。そして、静かにカタンとドアが揺れる音がして、離れにいた誰もがドアに目を流す。静かにドア元に存在する三上に、渋沢は厳しく顔を引き締めた。 「三上、いい加減にこんなことはやめろ」 渋沢の発する言葉で離れの中の空気は一気にピンと張り詰めた。でもその空気をも三上はさらり流すように、口端に笑みを携えながら視線を外す。何を言っても聞く耳を持たない態度。 「君をここから出そう。三上、来い」 「へーへ」 一度に目線を向け、渋沢は三上を連れて部屋を出て行った。状況を飲み込めないは不思議そうな目で英士を見るけど、英士もまた、同じような目で見返した。 三上も渋沢もいなくなりまた静かになった部屋で、英士は気を取り直すように棚の上の香台を手に取った。その中へ新しく安息香の香を入れようと陶器を開けるけど、中にはもう欠片しか残っていなくて、そういえばもうなくなりかけていたんだったと思い出した。 冷えていく一方だと思っていた世界は、けれども変わらぬ周期を繰り返そうと、何かを終わらせようとしていた。 「自分の立場を理解していないのか。お前の一挙手一投足でどれだけの力があると思っている。お前の行動、決断、発言一つでこの地域全体に影響してしまうんだぞ。それが大佐という地位を受け継ぐ者の重みだということくらい、判っているだろう」 金色に輝くシャンデリアの光が部屋中を照らし、冬の灰色の空気を打ち壊していた。高貴で穏やかな色を漂わせる応接間でソファに腰掛ける三上は、ハイだかイイエだか生返事をしながら煙草を咥えようとして、正面に立つ渋沢は即座にそれを取り上げた。 何を言っても当の本人は、聞いている態度を示していながらもまるで反省の様子は見られず、それよりもよく動く口を見て面白がっているような、貴重な体験を楽しんでいるような表情さえ浮かべている始末。その態度に、渋沢は深い深いため息を吐く。 「何故お前はそうなんだ。俺の言う道理も、国や立場の重みも判らないお前じゃないだろう。何故判っていながら叛くようなことをするんだ」 「買いかぶりすぎなんだよお前は。俺を」 「お前は全うであるべき人間なんだ。民衆を救うべき立場にあるお前が、民衆から非難を受けるような行動を取ってどうする。何の為にこの地位まで上り詰めたんだ。お前の目指す先はなんだ」 語りかける渋沢に、三上は不動の目でまっすぐ見上げていた。 渋沢にとって、まだ若く大佐になって間もない三上はまだまだ育てるべき人間で、それでも三上のこれまでの実歴や国を変えようとする意識レベルには高い評価を持ってきた。帝国の今と未来を背負う同士として、対等だと思っている。 でも渋沢は、三上と接すれば接するほど、その確固たる意思の下に見え隠れする危うさを感じ取っていた。どこか不安定で、掴み切れない危うさ。それも若さのせいかとしばらく見守るつもりでいたけど、高い意識とは裏腹に稚拙な行動が目に余る三上に、次第に本質が見抜けなくなっていった。 「目指す先ね。お前とは違うことは確実だな」 「どういうことだ?」 膝に乗せていた腕を解き深く背もたれると、体の重みを受け止めるソファはぎしりと沈んだ。三上のどこに合わさっているのか分からない視線は、夢を見るように灰色に滲む。 「あの女の目を見たか?」 「・・・ああ。あれほどの金瞳は珍しい。お前が見つけたのか?」 「見つけたのは潤慶だ」 「潤慶・・・?」 それを聞いて、渋沢の頭の中では様々なピースが模索され当てはまっていくように見解が確立されていった。 潤慶が皇帝の命で金瞳探しをしていることは知っていた。 その潤慶が金瞳を見つけ、でもその金瞳が今は三上の屋敷にいる。 「・・・お前、まさか、」 「浚った。潤慶の船から」 「・・・」 「折角金瞳を見つけたってのに、潤慶の奴は乗ってなかったからな。あいつにとっちゃそれほど価値のあるモンでも仕事でもなかったんだろ。まぁそれが俺にとっちゃ都合良かった」 「何を、言ってるんだ。皇帝が金瞳にどれだけ執着しているか、お前も判ってるだろう」 「ああ、だからやったのさ。別に金瞳なんかが欲しかったわけじゃない」 「なんということを・・・」 ・・・あの日、真っ暗な夜の海に漂う船の中で、小さな鉄の箱に隠されるように入っていた小さな存在。これほどまでに大きな国で伝説とまでされた金色の瞳を持つ人間は、小さな箱の中で更に小さくなって身を抱きしめ、震えていた。 その女が持っていた、暗い中でも濁らない眩いまでの、金。 「あいつを見て、なんてくだらねぇのかと思ったね。世界の半分の勢力を持つ帝国が躍起になって探した救いが、あんなちっぽけな女だったとはな」 「だからそんなものはただの伝説に過ぎないんだ。国を救うのは人だ。国を守り平和を保つために俺たちがいるんだ。俺も、今の国の情勢も皇帝の姿勢も良いとは思わない。だが、お前のそれは単なる反逆だ。そんなことをして何になる。お前は、そんなことをするために大佐にまでなったのか?」 「だから言っただろ。俺とお前の目指す先は違う」 「何を目指しているんだ。お前はそれで何を得るんだ。お前は一体どうしたいんだ」 「・・・」 世界を救う鍵。 この国に伝わる、誰もが知っている夢物語。 その救いとなる金瞳を奪い、世界を照らす光をかき消すこと。 同じくらい馬鹿げてるなと、嘲笑う。 「・・・三上、あの少女を開放するんだ。国に差し出せとは言わない。彼女も一人の人間だ、勝手な理由で彼女を拘束する権利など誰にもない」 「権利なんてなくても所以はある。国の重鎮共に一生くだらない希望をかけられ囚われ続けるのと、俺に人形同様に扱われんのとどっちがいいと思う」 「お前は極端視しすぎる。どちらも人格否定に過ぎない」 「あいつは今俺に捕まってるからこそ、お前はそうやって人道をかざしていられるんだ。あいつが城にいて、国のものになってもお前はその人道をかざしてられんのか?皇帝に同じことを言い渡せるのかよ」 「・・・」 三上の突き刺す言葉は胸に刺さるようで、渋沢は言葉もろとも固唾を飲み込んだ。 「・・・判っているのか、殺されるぞ」 「ああ、潤慶も気づいてやがる。じきに核心ついてくるだろうよ」 「三上・・・」 「でも俺は、国になんて殺されねぇよ」 「・・・」 ソファに深く座りほのかに笑みすら浮かべる三上は、不思議なほど穏やかに見えた。いつになく落ち着き払って、全てを見据え承知するような目で、窓の外にふわり積もり続ける雪を見ていた。 渋沢はきゅと堅く拳を握った。 己の得も損も見返らない程勢い良く物事に向かっていくその姿勢を、若さだと思っていたことを否定した。どこか、生き急ごうとして見えた三上が、いつからそんな道を考え歩み出していたのか。 天への忠誠と、友への思いと。 その合間で、止めるどころか何も口を開けない自分の無力さを、痛く噛み締めていた。 |