夜の中にだけ現れる光 夜の中にだけ現れる影 B A M B I N A この手にあるのは自由だけだった。何のしがらみも義務も強制も秩序もない、自分のものと言い張れる唯一のもの。今日一日何をしようが食べ物をどう手に入れようが明日どこへ行こうが全て自分で決められる。鳥が鳴けば目を覚まし、空が黒くなれば眠りにつき、夏は涼しい川辺に住み、冬はお湯が通る配管があるマンホールの中で寝た。 思い出なんてなくても不自由はなかった。親がいないヤツなんてここにはたくさんいた。何もないということは何でも出来るということだ。痛いことがあっても苦しいことがあっても空にはいつでも星がたくさん光っていた。この街は自分たちのものだと思ってた。 『あきちゃーん、ハラへったよー』 『だから昭栄たちについてけば良かっただろーが。なんで行かなかったんだよ』 『だってあいつらこないだ捕まってたもん。あいつらヘタクソなんだ。ねぇーあきちゃん、なんか食いもんー』 『うるせぇなぁ、そのへんの草でも食ってろ』 一番古い記憶は、手を引かれていたことだ。白くて細い指を目の前にずっと手を引かれてどこかへ向かっていた。それまでのことは何も覚えていないけど、なんでこんなところに来たんだろうと思っていたのを覚えてる。 髪が長かったとか肌は白かったとか優しい声だったとか、全体的な雰囲気は思い出せるのにはっきりと顔は思い出せない。けど、その人は確かに母だった。 それからどこかの小さな家で二人で過ごした。確か父親もいた気がするけど、そこにはいなかった。どのくらいそこで暮らしただろう。短い時間だったように思う。そう感じるのは母がいなくなってからのほうがずっと時間が長くて記憶が確かだからだろう。 ある日突然、母はいなくなった。 どこへ行ってしまったのか、何日も探して何日も待ち続けた。ひとりきりで幾つも暗い夜を越えて、それでもずっと母が戻ってくるのを待って待って待ち続けた。 待つのをやめたら、捨てられたことになる。 『うえっ、べっ!べっ!まじぃー!』 流れていってしまいそうな川の水に映る自分の姿を見下ろしつい思いに耽っていると、後ろで大げさに咳き込む声にハッと目を覚ました。 『バッカお前、ほんとに草食うヤツがあるかよ』 『草じゃないよ花だよ、いいにおいしたからうまいと思ったのに、げぇー口の中がへんな味!みずーっ!』 『ねぇよ。川の水でも飲んでろバカ』 『もーさっきからバカバカってバカっていうヤツがバカなんだからな!』 『うっせぇバカバカバァーカ』 まだ後ろで嗚咽を吐き出してる背中に川の水を蹴りふっかけてやると、何すんだと3倍以上の水が飛んできた。もう水浴びをするには川の水は冷たすぎる季節だというのに、夕陽に染まる赤い川辺でばしゃばしゃと水をかけ合った。 『あーもーダメ!ハラへって力でなーい。金瞳の神様、何か食べ物をくださーい』 ばたりと力なく川辺に寝転ぶそいつの口から、そんな言葉が出た。 『金瞳?』 『金色の目を持った生き物は困った人たちを助けてくれるんだってさ。金とか食べ物とかくれたりするのかな』 『どこで聞いたんだそんな話』 『10日くらい前かなぁ、町で仲良くなったヤツの家でごはん食べさせてもらって、そいつがそんな話してた。家っていーなぁ、あったかくて食べ物があって水なんて水道からじゃぶじゃぶ出てさ。俺にしたら金瞳よりあいつのほうがずっと神様だったなぁ。あんな家に住みたいなー』 『町の奴の家なんかに転がり込むなよ』 『いーじゃん食べ物くれるならなんでも。その後そいつの親に見つかったら家から追い出されたけど。大人ってヒドイよね、親も家もないってだけでもう泥棒扱いだよ。頭に来たからサイフすっちゃった』 『立派に泥棒じゃねーか』 『へへー』 空から光が去っていくにつれ川の水が流れる音がやけに大きく響いてきた。周りでリンリン虫が鳴きだして空には大きな月が昇ってざわざわと風が草木を撫ぜる。 黒い空に浮かぶ金色の月を見上げて、頭に何かがふとよぎった。 まばゆい金。 『金色の目って人間にもいて、でもちょっとしかいないからなかなか見つからないんだってさ。でも今の女王様は金瞳なんだって』 『ただの御伽噺だろ。目の色が金なだけで何が出来るってんだよ』 『でもすげー価値あるんだってよ?みんな金瞳を探してるんだって』 『バカだよな金持ちは』 『ねぇあきちゃんは金瞳見つけたらどーする?』 『そのへんの金持ちに売る』 『どーせなら皇帝に売ったほうが金になるんじゃない?』 『国なんて信用すんな。渡した瞬間に殺されるのがオチだ』 『あきちゃんて心底国嫌ってるよね。何か恨みあるの?』 恨み?恨みなんて別にない。 ただ、いつか母の声で聞いた気がする。 城に近づいてはいけないと。 『お前は金瞳見つけたらどうするんだよ』 『そーだなぁー・・・。あ、でっかい家が欲しい。あ、やっぱあったかいふとんが欲しい。あと新しい靴と釣竿も欲しいなー。でも今はとにかくごはんが欲しい!ハラ減った!』 最後に何かを口に入れたのはいつだったか、とにかく今日はまだ何も食べていなくて鈴虫同様ハラの虫も鳴き止まない。 世界の半分の力を持つ帝国。その国の女王が金色の目を持ち神のように扱われていようが、国の外れに住む子供たちはこんなにも飢えに苦しみ毎日をギリギリで生き延びているのだ。なのにそんな現実からは目を逸らしくだらない御伽噺に金をつぎ込んでいる。馬鹿げた話だ。 『・・・でも、もし本当に願い叶えてくれるなら、やっぱ母さんに、会いたいかな』 大きな月が川の水面にその神々しい色を映し夜の闇を少しだけ明るく照らしていた。きんきんと反響しあう虫たちの声に押されて聞き落としそうな小さな声。 どんな存在なのかも、どんな匂いがするのかも分からない母親というものをまったく知らない子供たちからすれば、少しでも記憶に残っている自分たちは幾らか幸せなのかもしれない。でも遠い記憶にその感触が残っているからこそ、求める気持ちは何倍にも膨れ上がる。 『生きてんのかよ』 『ううん。あきちゃんは生きてる?』 『さぁな』 『会いたい?』 『べつに』 生きているのか、いないのか。会いたいとも会いたくないとも思わない。考えたくない。そんなことを考えてる自分が馬鹿馬鹿しくて恥じだ。そんなものに囚われるくらいなら最初から何もないほうがいい。思い続けるのは、待ち続けるのは、酷く疲れる。 『俺はもしあきちゃんの母さんが生きてるなら会いたいな。きっと美人だよ。綺麗な黒髪で肌が白くて、優しくて料理が上手で俺のこともあきちゃんとおんなじくらいかわいがってくれんの』 『最後のほうはお前の勝手な妄想だろ』 『へへ、まーね』 眩しい月明かりを全身に受けて秋の夜風が草木と髪先をなびかせて流れていった。チカチカ光る水が川下へと転がり夜通し虫は鳴き続け、次第に夜は冷えて空気が澄んで、月が一層眩く映える。 闇夜に浮かぶ遠い月。それを見上げているときは深く落ち着いて、心が静かで穏やかになる自分に気づいた。あの果てしない場所に在るものが何を想起させるのか、降り注ぐ光が目から全身の隅々まで染み渡ってそれは確かにあたたかくて、自然とそれを見上げる時間は多かった。 心の奥の奥にある、懐かしい色と月の光が混ざり合う。 繋がれていた手の柔らかさ。 『ぶぇっくしょん!・・・あー、やっぱりあったかいごはんとふとんをください金瞳の神様ー』 『バカ言ってねーでさっさと寝ろよ』 『だってハラ減って寝れないんだもん!寒くて寝れないんだもん!』 でも、心が穏やかだと、ふとそれに気づいた瞬間に不安に陥るんだ。穏やかじゃここでは生きていけなくて、何も恨まずには心を保てなくて、人を裏切らずには今日すら乗り越えられなくて。 憎んでなんかいない。否定したいわけじゃない。でも上手く飲み込めない。受け入れることが出来ない。その光は眩しくて、自分の本当の姿を照らし出してしまいそうだから、目を閉じて背を向けるしかあの神々しい光から隠れる方法が判らなかった。 『寒いよー、ハラ減ったよー』 『わぁーかったよ!明日は食いモン取りに行くから大人しく寝ろ』 『やった、俺も行く!』 『お前は寝床探せ。そろそろ探しとかねーと凍え死ぬ』 『早く取っとかないといいとこは競争率激しいもんね』 秋は短くてあっという間に去っていく。冬が来ればもう外でなんてとても寝ていられないから、マンホールの中や工場のボイラー室なんかはすぐに家のない子供たちでいっぱいになってしまう。場所をとり損ねたら空き地の土管や段ボールで作った家で寝る羽目になって、大抵冬が終わる頃には動かなくなってしまうのがオチ。みんな命がけだから仲良く分け与えることなんてしない。仲間以外は受け入れない。生きるってそういうこと。人は生き延びるためにいろんなものを捨てていくということ、ここの子供たちは誰よりもよく判っている。そうして捨てられたから。 ・・・秋は駄目だ。夜が長いから、闇が深いから、飲み込まれて自分の姿すら見えなくなってしまう。思いを伝えるために光り飛ぶ虫のようにただ従順であれたなら、どんな長い夜でも軽く飛び越えられただろうに。 『・・・金瞳、か・・・』 がぁがぁ、騒ぐ虫たちを蹴散らす勢いの寝息が聞こえてくる。 その隣で小さな声は秋の夜長に散らばって消えた。金があまりに眩しいから目を閉じたって眩しくて仕方ない。瞼の裏にも月は浮かんで見えた。 ・・・その時は、判ってなかった。食べるものはロクに無く、心地よく眠れる場所すら無く、雨が降れば濡れるだけで、生きることは苦しいことだと思っていたから。 でも、必ず毎日笑っていた。 月を見上げることが出来ていた。 何のしがらみも躊躇いも無く、自由だけを持って。 きっと、一番穏やかな時だった。 |