ガラパゴス進化論




新妻エイジが自宅兼仕事場にする都内某所のマンション。
その駐車場に愛車のバイクを停めヘルメットをはずす福田は、早朝のアルバイトを終えたばかりであくびを放ちながらエントランスへと入っていく。エレベーターに乗り、通い慣れた部屋へ近づいていく様はまるで流れ作業のような足取りで、行きついた部屋の呼び鈴を押そうと指を出す。

しかし、それを押す手前で福田はその指を制止させた。
なぜなら、福田の呼び鈴を押そうとしたドアに貼りつけられた紙を見たからだ。
そこには見慣れた文字で

カギは開いています。
呼び鈴を押さずそのままどうぞ。

と書かれていて、思わず「何だこれ」と言葉を漏らした。
訝しげに眉をひそめながらドアノブに手をかけると、カギは本当に開いていた。
オイオイ、ここは東京だぞ、都会だぞ、と思いながらドアをくぐると、いつもはこんな昼間なら玄関外まで響く爆音の音楽が流れているはずなのに、それもないことに気づいた。

疑問と不信に包まれながら福田はそっと中へ足を踏み入れていく。
だけど突き当たりの仕事場は、まるでいつもと変わりない風景が広がっていた。
奥の机ではこの仕事場の主である新妻エイジが、いつも通りスウェット・背中に羽ペン姿で大きな身振り手振りと擬音を発しながらマンガを描いている。その手前には同じくアシスタントの中井が、すでにトーンカスにまみれながら原稿を仕上げている。

「おはよう福田君」
「なんなんだよあの表の張り紙」
「それが僕にもさっぱり・・・」
「こんな昼間からヘッドホンつけて・・・、近所とでももめたか?」

夜は音楽を大音量でかけるなと担当から注意されヘッドホンを着用するようになったエイジだけど、それでも昼間はいつもガンガンに音楽をかき鳴らしていた。だけど今日のエイジは、こんな昼前からすでにヘッドホンを付けてネームを描いている。中井はいつも大音量の音楽に耳を痛めていたから、玄関が開く音にさえ気づける今日の静けさは安堵なのだけど、いつも奇行をくり返すエイジが普通のことをすると逆に恐ろしく思えて不信は晴れなかった。

当のエイジは、ヘッドホンを付けてネームに熱中しているせいで福田が来たことにも気づいていない様子。ドドーン、ズガガガガ、バシュン!相変わらずの奇声を発しながらさらさらネームを描き進めていく様はいつも通りなのに、この仕事部屋が表通りを走る車の音が聞こえるほど静か、というだけで他の何よりもおかしく見えて、福田は意を決してエイジに近付きうしろからエイジのヘッドホンをぐいと引っ張ってみた。

「新妻くん」
「ズギャー!あ、福田さんおはよーございます!もう全部出来てますからよろしくです!」
「ああ。で、あの表の張り紙はなんなんだ?」
「アレですか!今日はできるだけ静かに作業お願いしまっす!」
「なんでだよ、雄二郎になんか言われたのか?」
「いーえ!ピシャーンッ!」

ヘッドホンが外れエイジは福田に気づきはしたものの、相変わらずマンガから気をそらすことはない。まともな返答がくることもなくエイジはそのままネームに没頭してしまい、福田は中井と首をかしげ合い、床に置かれた原稿を手に取り自分の机に座った。

そのときだった。
仕事場から玄関に続く廊下のほうで、ガチャ、バタン、と扉が開いて閉まる音がしたのだ。福田と中井はその音に気付き顔を上げ目を合わせる。今の音は、福田が入ってきたときのような玄関のドアが開く音ではない。家の中の部屋のドアが開いて閉まる音だった。

「なに今の、誰かいんの?」
「雄二郎さん・・・じゃないよな」

中井はイスから身を乗り出し、福田も体をひねりながら開きっぱなしのドアの奥を覗き見て、しばらく様子をうかがった。すると、今度はジャジャーと流れる水音がして、ガチャとドアが開く音がして、よりその水音がはっきりと聞こえた。

「ふぁー・・・あ」

あくびをしながら白くて細い両腕を上へ伸ばし、大事な部分だけをやっと隠せているようなギリギリの水色ワンピースを揺らしながら、黒くて長い髪を鬱陶しそうになびかせて、正面の部屋に入っていきドアを閉めた・・・・・・女の子。

「・・・」
「・・・」

中井・福田両名は、あまりにナチュラルだったビジョンに目をパチパチさせ、今見たものは現実だったのかを確かめるためにお互いを見やった。だけどお互いにポカンとした顔をしているからには、自分だけが見えたわけではないのだろう。すぐそこからはドン!ぐああ!バサバサッなどと、変わりなく奇声が発されている。

「新妻ぁー!なんだ今のー!?」
「おっおっおっ女の子!女の子がいたよっ!?」
「おおっ?なにがですっ?」

エイジのヘッドホンを再び鷲掴み、中井と福田は背を向けているエイジに駆け込み今見たものの衝撃を問いかけた。しかし相変わらずネームに集中していたエイジは突然の二人の押しかけが分からず驚いた顔を見せる。

「いまのなんだ!誰だよアレ!」
「にっにっにっ新妻くんの部屋から出てきたよっ!?新妻くんの部屋に入ってったよ!?」
「おお、ですか!は寝てるので静かにお願いします!」
「寝てねぇよいま起きてたよって誰だコラぁあ!」
「どっどっどっどういう関係っ?いつからいたっ!?」

エイジをつかみ上げ、二人は湧き上がる疑問やら怒りやらを次々にぶつける。
二人は目の当たりにしていながらまさか信じられなかったのだ。
まさかこのマンガオタク、いやマンガマニア、それ以外のことは幼稚園児クラスのエイジに、あんなほぼ下着姿のような女の影があることなど。

「エージー」

だけどそんな二人の熱も、1本の細い糸のような声でピタリと止まった。
二人はエイジを囲いつかんだまま声がしたほうに振り返り、そしてやっぱり夢でも幻でもなかったその姿を、はっきりと目に入れたのだ。

いつもならエイジが寝るときにだけこもるその一室から、こちらに顔を覗かせている女の子。
さっき一瞬だけ姿を見せた時ははっきりと見えなかったが、肩から腕にまっ黒な髪をサラリと流すその顔は、まだ年端もいってないようだった。

「・・・あれ、人がいる」
「アシスタントの中井さんと福田さんです」
「アシスタント?そんなのいるんだ、エラそー」

ドアの隙間から顔だけ出してケラケラ笑う顔は余計に幼く見える。
福田と中井の脳内では「エイジ」と「女」の二語がまったく結びつかなかったせいで、まさかどこかから拾ってきたのか?まさかまさか金で買ったのか?などという疑心が一瞬のうちに飛び交ったが、その子の無邪気さにそんな疑惑はあっさり消え失せ、さっきまでの荒立った気持ちも態度も治まっていった。

「ねぇ、あたしの服どこ?」
「ドドドドドッ!洗濯機の中!」
「えー?なんで?どこよ洗濯機」
「ぐぁあー、おフロの前ー」

遠くから投げかけられる質問に、エイジは紙にペンを走らせながら答える。
」と呼ばれた女の子は、ドアから出てくると廊下を奥へかけていきバスルームへと入っていった。そのうしろ姿はやっぱり先程見たギリギリの薄いワンピースで、うわぁ・・と凝視する福田の横で中井は思わず目を閉じた。

「きゃああ!水びたしー!ああっ、持ってきた服まで全部っ?ちょっとエージ!」
「上着は部屋の押し入れー」
「キャミと上着だけでどーやって外に出ろってゆーのよ!」
「ズギャギャ、バシューン」
「わざとでしょ、ぜったいわざとでしょ!」

バスルームからかん高い声が響くも、エイジは次々にページを埋めていくばかりでまともな返事もしない。しかしその態度は、いつも担当やアシスタントにまともな会話を返さないエイジとは違って見えた。普段のエイジならマンガを描くことに夢中で人の話など聞こえていないといった様子だが、今は完全に返事がしたくなくて無視しているような態度だ。口にしている擬音も心なしか軽い。

「福田さん、おなか空きませんか!」
「え?いや、俺は食ってきたから。ハラ減ってんの?」
「僕なにか買ってこようか?それとも出前でも取る?」
に聞いてください!」
「え?」

描きながらシャキーンッとエンピツを剣のように振るエイジの言葉を聞いて、福田はエイジがおなかが空いたのではなく、あの子に何か食べさせようとしているのかと悟った。福田はそれを中井に伝え中井もなるほどと返すが、あまり女性、しかも若い女の子に免疫のない趣味・特技がマンガの35歳男には、いまだバスルームで怒っているに声をかけられる度胸がなく、仕方なく福田がニット帽の頭をかきながらバスルームに歩いていった。

「おい、ハラ減ってる?」

開いたバスルームのドアから中を覗き、洗濯機の前でずぶ濡れの服を掬いあげてるワンピースのうしろ姿にそう声をかけると、振り向いたは怒っていた顔もどこへやら、福田を見るなり「空いてる」と返した。

「何が食いたい?」
「なんでもいいの?」
「まぁ。あ、じゃあデリバリのメニュー見て決めれば?」

うん、と笑顔を見せて、は福田の腕にくっついてバスルームを出ていく。
こんな恰好でも平気で、初対面でも簡単に男の腕に懐いてくる。
まさか本当にデリバリタイプの女じゃないだろうなとだんだん心配になってきた。

「ピザ?うーん、でもケンタも捨てがたい・・・。あーこのエビチリ食べたい。うーん・・・」

仕事場の床で多彩なデリバリのメニュー表とにらめっこするは、うんうん唸りながら迷い続ける。あまりに考えている時間が長いから中井も福田もが決めるまで原稿の仕上げに手をつけ始めた。だけど中井はどうも気が散るようでチラチラと何度もを見やる。そりゃあの恰好でこの角度じゃしょうがないが・・・と中井に向かい合っている福田も一度を見ながら思った。

「エージ、エージは何がいい?」
「ピザとケンタッキーとエビチリ」
「もー優柔不断!人任せ!男ならビシッと決めなさいよ!」

迷っているのに答えを決めてくれないエイジには怒るが、いやいや、今キミが口にしたメニューそのままだよ、と福田は思う。

エイジはこれでも目上の者や他人には敬語を使うあたり、一応礼儀というものをわきまえているようで、担当はじめアシスタントの誰にも一応の敬語を模っていた。それだけに、敬語でないエイジは妙に新鮮に感じる。それに加え、を出かけられなくする所業、が欲しいと言ったものを全部揃えようとする行為。傍から見ていれば、エイジは完全にを所有したがっているように見えた。それはとても幼い表現だけれども。

「決ーめた、コレにする」

数十分後、はようやく一枚のメニュー表を持って福田に寄っていく。
中井が電話を手に取りながらエイジに同じでいいかと一応確認を取ると、エイジは「はい、いいです」と答えながら仕事部屋を出ていった。

「ふーん・・・、ほんとにマンガ家やってるんだ、エージ」
「は?」

中井が電話をかけている間、は床に膝をついたまま机の上を覗き仕上げ途中の原稿を見つめた。

「ほんとにって、しらねーの?」
「だってジャンプ見ないもん、あたし。昔っからずーっとマンガ描いてたのは見てたけど、エージが東京行ってからは知らないしさ」
「・・・ずーっとってことは、つまり新妻くんと同郷ってことか」
「どーきょー?」
「同じ田舎、子どもの頃から知ってるんだろ?」
「うん、おんなじとこで生まれておんなじとこで育って、エージだけほいっと東京行っちゃったんだよー」
「フーン・・・」

それを聞いてやっと、心の中の小さな不安は解消された。

「ねぇ、アナタは東京の人っ?」
「いや、九州から出てきたばっか」
「フーン・・・じゃああんまり東京くわしくない?」
「ぜんぜんだな、バイトかマンガ描いてるかばっかだからな」
「うわ、アナタもマンガ描くんだ・・・」
「うわってなんだようわって」
「だってマンガ描いてる人ってなんかくらーく見えるじゃん。アナタはあんまり見えないけど・・・」

そう、はチラリとまだ電話をしている中井を見上げ、福田は思わずプッと吹き出した。まぁ王道に考えてマンガ家のイメージは中井そのものだろう。今はまだ来たばかりだからヒゲもニオイもなくきれいなほうだ。



そこに、部屋を出ていっていたエイジがいつの間にかのうしろに立っていた。
振り返るの頭から持ってきた服をかぶせ、無防備だったの体を分厚いスウェットで覆い隠した。

ちょっとヤダー、こんなのー。
嫌がるの文句などまるで聞かず、エイジは袖に腕を通させる。
人の世話を焼くエイジもまた希少だと福田は思うけど、その光景を見ている中でふと、こっちを見たエイジとバチリ目があった。その瞬間、目から脳へ、胸へと一瞬のうちに何かが駆け巡った。

「せめて白とか赤とかないわけー?」
「ナイ」

を納得させて、エイジは自分のイスに戻ってまたエンピツを手に取った。
エイジと同じ黒のスウェットに文句を言い続けるだけど、それを脱ぐことはなく、まぁいっかとあっさりあきらめまた原稿を眺めた。

「・・・」

福田はひとり、小さくて低い、妙な動悸を感じていた。
バチリと音が聞こえるほどに視線が合った瞬間の、エイジの目から電流のように伝わってきたもの。

普段原稿と向き合ってばかりでなかなかエイジと目が合うこともないが、合ったところで何の疑問も抱かなかった。マンガに対するスタンスや思い入れは相当なものだが、それ以外に関しては子どもそのものだと思っていたし。

だけど今、目が合った瞬間の眼は確実に、普段のエイジではなかった。
マンガに向ける目とも、人に向ける目とも、に対する目とも違う。
深く釘を刺し込むような、ほんの一瞬ですべてを解からせるような。

完全なる敵意。

その後ネームを描き続けるエイジに、ごはんを食べているときも談笑しているときも、あの一瞬の眼はもう現れることはなかった。本人でさえも無自覚だったのかもしれないと福田は小さく思う。

「やっぱ東京スゴイなぁー。いいなぁー、あたしもここに住みたいなぁー」
「住めばいいじゃん」
「でもなぁー、東京高いしなぁ。エージ家買ってー」

昼食を終えたあとの仕事場は、奇声を発しながらネームを上げていくエイジと、原稿を仕上げていく福田と中井、音楽も大音量で流れ、やっといつもの空気を取り戻した。唯一異色の、床に寝転がり東京の雑誌を眺めているはいるけども。

「家っていくらしますか?」
「ピンキリだろ、こんなマンションくらいなら1000万くらいか?フツーの家ならその5・6倍ってとこだろ」
「そのくらい稼げるのはいつくらいだと思います?」
「そーだなぁ、あと3・4年順調に連載して、アニメ化・映画化まで行けばいけんじゃないか?」
「CROWならゲーム化もいけそうだよ」
「じゃああと3・4年待ってください」
「なが!それまであたしにあのイナカにいろってゆーの?」
「それまではここで我慢です!」
「ヤーダー!ここせまいー!」

爆音の中、自然と交わされる会話も大声になる。
エイジの会話の合間の擬音もいつもに増してハードに聞こえる。
それにしてもはエイジをいい金ヅルのようにしか思ってないんじゃないかと不憫に思えて仕方ない。

そんな中、爆音の音楽がプツリと止まり、できましたー!とエイジは描き上げたネームを高々と掲げ完成のポーズを取った。

「あいっかわらずはえーな」
「雄二郎さんに渡しておくから寝ていいよ」
「ハイ、そーします、ネムイです」

原稿を描き上げ、それを取りに来る担当に見せる次回作のネームも完成させたエイジは軽く50時間は起きていた。やり終えた今、ようやく集中力も切れてグラグラと揺れる頭にはやはり、寝る・食う・マンガの3点しかインプットされていないようだった。

マンガから離れるエイジは眠そうな足取りでイスから立ち上がる。
電池が切れたような足取りでフラフラと歩き出し、だけど部屋を出る前に最後の力を振り絞るように床で寝転がるを引っ張り起こし、ヨイショと肩に担ぎあげた。

「あーん、途中なのにー!」
「ではオヤスミナサイ・・・」
「あ、ああ・・・」

そのまま文句言いながらエイジの背を叩くを担いだまま、二人は寝室へ入っていった。遠ざかっていくの文句がパタンと寝室のドアが閉まると同時に聞こえなくなった。

「・・・」
「いやぁ、いくらなんでもあのフラフラ状態で、そんな余裕ないって」
「だよね、それに、いくらなんでも僕たちがここにいるの知ってて!」
「・・・いや、ソレ言うなら、アイツならありえるかも・・・。常識ねぇっていうか・・・」
「・・・!」
「音楽、消さないほーがよかったんじゃねぇ・・・?」

さっきまで爆音で鳴り響いていた音楽がまだ耳の奥でわんわんと残っている。
だけど今なら、あの大音量がなっててくれたほうがまだ心休まる気がした。

エイジのマンガに対する異常なまでのセンスと執着はすさまじいけど、寝る・食う・マンガの3つしかないと思っていたエイジにも人並みの成長があったことに、喜ぶべきなのか。ショックを受けるべきなのか。

にまるで好き勝手扱われてるなと思われてたエイジだけど、あながち逆だったのかもしれないと、福田は寝室からの物音が聞こえてこないことを願いながら、原稿にトーンカッターの刃を滑らせた。





ガラパゴス進化論

その後原稿を取りに来た雄二郎と3人で、誰がエイジを起こすのかで壮絶ジャンケンをするのです