ガラパゴス生態論




一応仕事中であるからテレビはまずいだろうという見解の元、だけど無音だとどうしても気分が落ち着かないから、ラジオをつけることにした。音楽が流れたりパーソナリティーのトークがにぎわったり企業のCMが流れたりしている。気がかりだった奥の部屋からの物音はなく、気がつけばラジオの音も忘れるほど福田も中井も仕事に没頭していた。

福田が床に広がる原稿のトーンをすべて貼り終え、はぁーと息を吐きながら腕を伸ばし長時間かがんでいた背筋をほぐす。正面に座っている中井は背景の書き込みに時間をかけていて、その出来栄えは相変わらず見入ってしまうほどだ。エイジの絵柄に合わせた背景や効果が隅々まで書き込まれ、だけどキャラクターを邪魔していないしゴチャゴチャしてもいない。アシスタント歴が長いだけに絵の腕だけはプロ並みだけど、マンガ家になりたいのならそれだけじゃダメなのが現実だ。いっそのこと亜城木のように、絵とストーリーで分かれて描けばいいのにと福田は小さく思う。

窓を見ると外は日が暮れ暗くなっていた。
今日中には原稿を取りにいくと言っていた担当の雄二郎はまだ来ない。
と思っていたら、噂をすれば、玄関のほうでガチャとドアが開く音がした。
まるで数時間前に福田がそうしたように、そろそろと小さな足音が近づいてくる。

「おつかれさまー・・・」
「おつかれっす」

暗い廊下から明かりのついてる仕事部屋に、ニョキっとあのクルクル頭を出した雄二郎は、そっと声をかけながら部屋の様子を窺った。だけどそこはいつも通り、福田と中井がそれぞれ机に向かっているだけの光景が広がっていて、かがめていた背中を元に戻した。

「なんだ、何もないじゃん。何なの?この貼り紙」
「新妻師匠の命令だよ」
「なんで?」

異常のなさにすっかり普通のトーンで話しだす雄二郎は、そう言えばドアに貼りっぱなしだったあの貼り紙を手に持っていた。

「新妻くんは寝た?」
「寝てますよ。原稿もコレで出来上がりですからもう少し待ってください」
「それでこの貼り紙なの?ダメだよこんな貼り紙しちゃ、ここはイナカじゃないんだから。カギ開いてますって、強盗でも入ったらどうするの」
「まーたしかに新妻師匠の生原稿なら、ネットで売りゃそこそこの値がつくだろうしなぁ」
「新妻くん、寝てからどのくらい経つ?」
「えーと・・・昼食べてからだから、6時間は経ってるかな」
「じゃあいいか。まったく、注意しなきゃ」
「あー!雄二郎さん!」

ため息つきながらエイジの部屋へ向かっていく雄二郎を、ペンを持ったままの中井は大慌てで止めた。前に座る福田は、そのまま雄二郎にドア開けさせればよかったのに・・・と小さく舌打ちするのだけど。

「その、ちょっと事情があって・・・、部屋行くのは・・・その・・・」
「なに?事情って」
「だから、あの、新妻くんに・・・来客が・・・」
「来客?玄関には二人の靴しかなかったよ?」
「あー、たぶん新妻師匠が隠したんだ」
「隠した?どういうこと?僕に知られたくない客なの?」
「そーゆー意味じゃないんだけど・・・」

中井の慌てようや福田の言動の意味がわからない雄二郎は、頭上にハテナを浮かべながら首をかしげる。

「実は、いま新妻くんの彼女が来てるんです・・・」
「・・・ハ?」

3人しかいない部屋の中で、中井は口元に手をあててコッソリ小声で話す。
だけど雄二郎は「何言ってんの?」と言わんばかりのまったく信じていない顔で返した。だって、誰がどう考えたって「新妻エイジ」と「彼女」なんて二語がこの世で同じ空間に存在するはずがないと分かり切っているのだから。

「ちょっと、何の冗談?まさかネームが出来てないとか?引き延ばそうってこんたん?」
「ネームならそこにあるぜ」
「僕も信じられなかったけど、本当に冗談でもなんでもないんだよ!」
「何言ってんの、もうぜんっぜん意味わかんないよ」
「じゃー雄二郎さん、新妻師匠起こしてきてくれよ」
「福田君っ」

中井が必死に説明しようとしてもまるで信じていない様子の雄二郎に、福田はサラリとそう言った。雄二郎は「いーよ」と何も疑わずに部屋に向かっていく。

「福田くん、いいの?いいのっ?」
「じゃー中井さん、あのドア開ける勇気あんの?」
「・・・・・・ない」
「だろ?雄二郎にやらせりゃいーんだよ」
「そ、そうか・・・」

ふたりでボソボソ算段を立て、仕事部屋を出ていった雄二郎の動向を見送った。
雄二郎は寝室のドアの前に立つとノックする手を顔の前まで上げ、その手をドアにつける・・・ことなく、しばらくそこで考えたあと仕事部屋のふたりの元まで静かにすり足で帰ってきた。

「ねぇ、もしかして、本当なの?」
「なんだよ!ったくイザって時に根性ねーな!」
「え?だって・・・ええ?新妻くんに彼女!?」
「彼女・・・だよね?」
「どーだかな。ただのワガママな女にしか見えん」
「ふたりとも会ったの?ちょっと、どんな子?いつどこで知り合ったのっ?」
「新妻くんと同郷だって言ってたっけ」
「新妻くんイナカに彼女なんていたの!?そんなのひとっことも聞いてないよ!で、その彼女がここに来て新妻くんの部屋に二人でいるのっ?なにそれ、開けるに開けられないじゃん!」
「だから知らないうちにやらせよーとしたんだよ」
「ズルイよふたりとも!」

ようやく事態についてきた雄二郎も顔面を蒼白させて、結局誰もあのドアを開けられなくなってしまった。エイジが部屋にこもって軽く6時間は経っているのだから、今あの部屋に入ったところで現場を目撃する羽目にはならないと思うのだけど、たとえ事後であっても誰もあのエイジのそんなところを直視したくはない。

「なんだよ・・・、新妻くん、あんなまるで子どもみたいな顔して・・・」
「なにヘコんでんだよ、いい年して彼女もいねーのか雄二郎さん」
「むっ・・・、そういうキミだって気配ナシじゃないか!」
「俺はマンガのためにすべてをイナカに置いてきたんだよ」
「なんだ、カッコつけて結局いないんじゃないか」
「んだとっ?俺の地元時代の数々の伝説聞かせてやろーか!?」
「僕だって大学時代はちょっとくらいなぁ!」
「ま、俺も雄二郎さんも、中井さんに比べりゃ足元にも及ばないだろーけどな。日照りの時間は」
「・・・!」
「福田・・・お前ってヤツは・・・」

福田にバカにされ、雄二郎のフォローもなく、中井は涙ぐみながら途中だった原稿の仕上げに没頭することに悔しさをぶつけた。

雄二郎はエイジの机の上に置いてあった次回作のネームに目を通す。
ネーム内容に特に問題なさそうなことを確認して、その後中井が完成させたすべての原稿もチェックすると、特にエイジは起こさなくてもいいかという結論に至った。

「で、新妻くんの彼女ってどんな子だったの?」
「どんなって、なぁ?」
「うん・・・、まぁ、かわいかったと思うけど・・・」
「けどなに?」
「中井さん、あのカッコウのほうが衝撃で顔覚えてないんだろ」
「えっ?いや、そんなっ」
「なにカッコウって!まさかモンペとか!?」
「アンタ、青森にどんなイメージ抱いてんだよ・・・」

もうすっかり真っ暗になった時間、エイジの仕事部屋で福田と中井は自分たちが見たについてを雄二郎に聞かせ、下ネタまじりの雑談を繰り広げた。休む暇もない週刊連載で、原稿が仕上がった瞬間だけはわずかに訪れる安息の時間。明日からはまた次号に向けての原稿作りにかかるのだから、彼女もきていることだし、そっと寝かしておいてやろうと3人はうなづきあった。

「・・・、ああっ!!」
「うわ、なんだよ?」

そんな穏やかな空気をブチ壊したのは、雄二郎の発狂だった。

「しまった・・・!来週CROWがセンターカラーになって、ページが増えること言わなきゃいけないんだった!」
「おま・・・なんでそういうこと忘れんだよ!」
「言おう言おうと思ってたんだよ!ここに来るまではずっと思ってたんだよ!なのにあの貼り紙見てその上新妻くんの彼女なんて話聞いたらスッカリ忘れちゃったんだよ!」
「あーあ、けっきょく新妻師匠起こさなきゃなんねーじゃんかよ。責任持ってアンタ起こせよな」
「そんなあ!ここは・・・、年の功で中井くんに!」
「ええっ!?や、僕なんかより、経験からいって福田くんがっ」
「ああっ!?けーけんなんてねーよ!俺ぁ実はチェリーボーイだよ!」
「いまどきチェリーボーイなんてマンガにも出てこないよ!」

雄二郎の失態から仕事場は突如、安堵の空気から一転してなすりつけ合いとなっていく。ぎゃあぎゃあと言いあう3人だけど、どれだけ話し合おうとも決着はつかず、仕方なく3人はジャンケンでエイジを起こす役を決めることにした。

「いーか!1回きりだ、文句なしだぞ!?」
「分かってるよ!ズルも後だしもナシだからな!!」
「すっごく負けそーな気がする!」
「いくぞぉあ!ジャーンケーン!」

ホイ!!
一斉に出された3人の手は、きれいにグーチョキパーと分かれ、仕切りなおし。
またジャンケンをするも、なかなか勝敗がつかずにアイコは数回くり返された。

「っしゃあイチ抜けー!」

グーを出したまま拳を高々と振り上げる福田がいち早く勝ち抜ける。
中井と雄二郎はあわあわと自分のチョキの手を見下ろすが、まだ負けたわけじゃないとお互い睨みあうと再び福田の声でジャンケンの号令が発された。


「けっきょく僕なのかよぉー・・・」
「ま、正式なジャンケンの結果だからな、男なら潔くあきらめろ」
「あー・・・!よかったぁー・・・!!」

負けた手をひっこめることもできずに、雄二郎は敗北の涙をかみしめる。
早々にあの緊張感から抜け出ていた福田と、心臓を抑えながら心底安堵している中井が見送る中、雄二郎は近づきがたいエイジの寝室へとズルズル足を進めていった。

エイジの部屋の前で、雄二郎は再びノックする手を顔の前に握りしめる。
この部屋の中がどんな状況だろうと、担当としてすべてを受け止めなければならないと意を決し、雄二郎は握ったこぶしをドアに振り下ろした。

「・・・」

が、そのこぶしはドアに当たることはなかった。
雄二郎の手がドアをノックするより一瞬先に、目の前のドアが開いたのだ。
静かに開いていくドアの向こうは真っ暗だけど、やがてその真っ暗な隙間から目をこするエイジが姿を見せる。

「あ・・・新妻くん、起きたんだ、よかった・・・」
「・・・」

自分でドアを開ける前にエイジのほうから出てきてくれて、雄二郎はホッと笑みをこぼした。けどエイジはまだ半分頭が寝ているようで、返事をすることも雄二郎を見ることもなく部屋から出てきてトイレへと入っていった。

・・・真っ裸のまま。

「・・・どう、とる?」
「どうって・・・」

その姿を目の前で見てしまった雄二郎も、仕事部屋から覗くように見ていた福田と中井も、一番案じていた事態を見てしまった気がして固まった。

「いや、でも、ホラ、新妻くんてたまにオフロ上がりに服着ないでそのまま寝たりするし」
「今日はフロなんて入ってねーよ・・・」
「・・・ていうことは、やっぱり・・・?」

3人かたまって口々に言うも、どうやってもエイジのそんなシーンは想像できない。
するとトイレからジャジャーと水が流れる音がして、ドアが開き中からやっぱり一糸まとわぬ姿のエイジが出てきた。ふああと目を閉じたまま大きなあくびを放ち、また寝室に入っていこうとして、その手前で仕事場のドア口にいる3人にやっと気付いて目を留めた。

「・・・雄二郎さんがいるです」
「あ、うん・・・オジャマしています・・・」
「はい・・・、あ、ネーム・・・」
「うん、見たよ。でね、あの、悪いんだけど、来週のCROW、センターカラーになっちゃったんだ、急なんだけど・・・」
「・・・じゃあ、ページ増えるですか」
「うん、寝てるとこゴメンね」
「はい、じゃあ・・・描くです・・・」

開かない目と寝ぼけた口調で、エイジはぺたぺた裸足でこっちに歩いてくる。

「新妻くん、とりあえず服着ようよ!服!」
「・・・あれ、なんでボク・・・」
「自分で脱いだんじゃないの・・・?」
「・・・・・・あ、そういえば、暑くて脱いだです」
「あ、暑くて!そっか、新妻くん北国育ちだからね!こっちの夏は暑いよね!」
「服着ます」
「うん!ゆっくりでいいよ!」

少しずつ目を覚ましていくエイジが寝室に戻っていく。
しばらくしてちゃんといつものスウェットを着ながらエイジは出てきて、仕事部屋の明るさに目をぎゅっと閉じてこする。そんな様はまるで子どもそのもので、おかしな想像にかられあんな真剣にジャンケンまでした自分たちが恥ずかしく思えた。

「もー、ふたりともヘンな想像するからー。新妻くんにそんなことまだ早いってぇー」
「だよねぇー、新妻くんだもんねぇー」
「生まれた時から一緒だって言ってたし、カノジョっていうよりキョーダイみたいなもんなのかもな」
「新妻くん、後でちゃんと彼女紹介してよね!」
「・・・ああ、ですか」
ちゃんってゆーのか!かわいーんだよね、新妻くんもヤルなぁー」

また大きな口を開けてあくびをするエイジは、自分の机に座ってユラユラと大きく体をメトロノームのように振っている。起きたてのエイジがよくする行動。体がまだ目覚めていないようだ。

「で?実際のとこどんな関係なのー?」
「もー雄二郎さんそんなことばっかー」
「だって新妻くんに彼女なんてぜんぜん想像つかないしさぁー。彼女いるならいるって言ってくれればよかったのにー、僕でよかったらどんな相談にも乗るよー」
「雄二郎さんてば、新妻くんが裸で出てきたもんだから勘違いしちゃってさー」
「あはは!まさか新妻くんが経験済だったらどーしよーかと思っちゃったよ!」

ユラユラ揺れるエイジの背後で3人は安堵の気持ちも手伝って口々に笑い話を広げる。
しばらく揺れてたエイジはピタリと体を止め、「そーちゃく!」とヘッドホンを頭につけると音楽を鳴らし、だけどそのコードはデッキにつながっていなかったから大音量が部屋を包み込んで雄二郎は慌ててコードをデッキにつないだ。

「してないです!いまゴム持ってないです!」
「へ?」

ヘッドホンからの音楽が大きくて、エイジの声も自然と大きくなる。
お絵かき帳を開きネームを書きだすエイジは、さっきまでの眠気眼はどこへやら、ざかざかと早いペースでコマを振っていった。

「ゴム・・・って・・・」
「中で出すとすごく怒るです。、怒ると当分させてくれないです。それ困ります!」
「なか・・・」
「シャッ、ギューン!バサバサッ」
「・・・」
「・・・」
「・・・」

まるでどこかから降ってくるみたいに絵とセリフが次々に描きこまれ、エイジはその世界を口ずさみながら、真っ白い紙の上にどんどん新しいストーリーは展開していく。いつ見てもその姿は妙ではあるけど、そのスピード感と見る者を飽きさせないストーリー、どこまでも羽ばたく夢の世界が、日本が世界に誇るマンガという文化の最前線を走り続ける新妻エイジの、全身全霊を込めて作り上げる作品そのものなのだ。

「ますます、この子が分からない・・・」
「僕も・・・」
「俺も・・・」

きっと、凡人にはわからない、天才の境地というものがある。
才能というものは、求めるものだけに与えられるわけではないこと、誰もが思い知っているから。
そんな世界で、こうして目の当たりにする、本物の才能。本物の天才。

新妻エイジにとってマンガは酸素だ。描いていないと死んでしまう。
ただ、人間呼吸だけで生きていけないのも当たり前。
寝る・食う・マンガの3点しかなかったはずの、エイジの4つ目の生命線。

それが、あの開きっぱなしの寝室の中に、ひっそりと隠されているのである。





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