安らぎと偽りの抒情詩




日が沈んで窓の外から光が引くと、マットがどこかへ行った。
寝覚めの悪い頭でボーっとして、妙に体がだるくて起き上がる気にならない。
暗い天井を薄い視界で見つめて、メロは長く細い息を吐いた。
すると、トントンと窓を叩く音が小さく鳴って、ガラスをつと雫が垂れていった。
雨が降ってきた。

雨・・・

ここら辺はそう明るくもない。その上雨が降っては明かりなど皆無。
真っ暗で静かな部屋は酷く殺風景でマットがいないと更に暗く感じる。
そんな部屋の中で、たった一枚の白い紙切れが何故か光って見えた。
組んでいた足を床に下ろして起き上がるメロは、しわくちゃの紙を手にした。
しわの寄った小さなメモは端から破れてきている。まぁ、たとえこの紙切れが無くなってしまったとしても、十分すぎるほど内容は頭に入ってしまっているのだけど。
次第に雨の音は早くなり、夜は更けていく。
上着を掴むメロは、フードをかぶって部屋を出ていった。

夜の闇にバイクを走らせること数十分。行き着いたアパルトマンの前で足を着くメロは、ぐっしょりと濡れた髪の下からゴーグルを外し、目の前に建つマンションの3階の、角の1室の窓を見上げた。白いカーテンの向こうから明かりが漏れている。

「離してっ・・」

バイクから降りようとしたメロの耳に、僅かだが女の声が雨の音に混ざって届いた。夜道に点々と浮かぶ電灯に僅かに照らされて、白い傘が揺れて見えた。闇の向こうへ目を凝らすと、2・3人の人影が確認できる。その白い傘を差しているのが声からして女だということも分かる。そしてそれが、今日改めて思い出と重ね合わせた声だということも。
男に絡まれ腕を掴まれている一人の女。それに近づいていくと男の下卑た台詞が聞こえてくる。そして傘の下から見えている女の様相も、昼間見て、触れた姿形と同じ。メロは絡んでいる男の腕をガッと掴み、その汚い手を離させた。

「ああ?何しやがる」
「メロ・・・」

を背中に立ちはだかって男たちと向かい合うメロは、汚いものを見る目つきでその手を放した。

「なんだお前、格好つけやがって、ヒーロー気取りか?」
「失せろ」
「痛ぇ目みてぇのか、テメーが失せやがれ!」

腕っ節の良さそうなふたりの男がメロに標的を変え歩み寄ってくる。
一人がメロの胸倉を掴み、後ろの男はナイフを見せ付けた。

「やめて!」

メロの後ろからが止めようと出てくるが、メロがドンとを押し戻し離れさせる。
メロを取り囲む男たちはヘラヘラと笑いながら殴りかかろうと目の前まで詰め寄ってくる。・・・が、その男の額にゴツリと固いものが突きつけられ、男は目の前を見上げその黒光りする鉄の硬さを自認した。

「失せろ」
「・・・ひっ!」

鈍感な男が目を上げて、自分の額に突きつけられているものが何なのか、ようやく気づいた。その途端にメロを掴んでいた手は解かれ、そのまま両手を肩の位置ほどまで挙げ、二人とも後ずさりして雨の奥へと走り去っていった。

「メロ・・・」
「・・・」

サァァと雨が連続して地面を叩く。
の視線がメロの手の中の拳銃に合わさると、メロはそれを背中の服の中へ収めた。に顔どころか体すらまともに向けられないまま、メロは傘を拾っての上に降る雨を閉ざした。額に張り付いた髪の下から見上げるの瞳は光って、ぽたりと頬を雫が伝った。でも雨の夜は闇に溶け込むあまり、それが雨か、涙か、分からなかった。ただ悲しげなの目だけがまたメロの脳裏に後悔をもたらせた。


の部屋で小さな扇風機が忙しなく動く。椅子にかけられたメロの上着からポタポタと雫が垂れて床にシミを作る。その後ろで肩からタオルを提げたメロは、窓辺で腰掛けてただ外に視線を逃がしていた。

「はい」

キッチンから出てきたが湯気のたつカップを差し出し、メロはそれを受け取った。
キッチンにいる間から時折咳をしていたが、カップを口につけてまたひとつ咳こむ。

「お前も、ちゃんと拭け」

窓ガラス越しにしかを見られないメロの声が届くと、は小さく微笑んでうんと頷いた。
頭や肩を拭くは、何も聞いてこなかった。あの顔はおそらく、聞きたいことで頭はいっぱいだろうに、メロから発せられる言葉や空気、そしてメロの背中の拳銃が、に言葉を呑み込ませていた。

恐れているわけではない。
確証になるのが嫌なだけ。

「そうだ」

ぽんと、はこの部屋に漂っていた空気を溶かして高い声を発した。思わず振り返ったメロにふふっと笑みを見せると、メロに手招きながら隣の部屋に入っていった。について隣の部屋の入り口に立つと、そこは本棚とベッドと小さな机がある寝室で、そのベッド脇にしゃがんでいるは、小さなダンボール箱を持ってメロの前まで戻ってきた。

「見て」

そう、期待を満面にしたうれしそうながメロに見せた箱の中には、赤い包装紙に包まれた板チョコが入っていた。それはメロが昔好きで、一番よく食べていたチョコレート。ハウスを出るときに全部にあげた、あのチョコレートだ。

「・・・まだ持ってたのかよ」
「だってこれがあったらメロが戻ってくるかと思って」
「ガキかよ俺は」

思わずふと口端に笑みを携えると、そんなメロの前では昔どおりにあどけなく笑った。
明かりのついた部屋と違って電気をつけていない寝室は暗くて気づかなかったけど、本棚にある本も、その中段に飾られている小物も、全部見覚えのあるものばかりだった。ハウスにいた頃のメロの部屋を彩っていたものばかり。あの日に渡したもの、すべて持ってきていたのか。

「懐かしいでしょ。メロ全部置いてっちゃったから、あたしの荷物が増えて大変だったんだから」
「何も全部残しとくことねーだろ」

呆れた口調で頭にもないことを言うと、は「だってメロが取り返しにくるかもしれないし」と笑った。
確かに懐かしい。夜中まで読み込んだ本も、チョコレートのオマケでついていたフィギアも、好きだったオモチャも。全部あの頃のまま、時間が遡っていくかのよう。

「欲しいのあったら持っててもいいよ。っていっても元々メロのだけど」
「・・・」

がそんな風に笑うと、自然と頭が昔に戻ってしまって、知らぬ間に顔が緩んでしまう。こんなものに囲まれていると、うっかり今の自分を忘れてしまいそうになる。間違ってもそんなこと、許されもしないし望んでもいないのに。

「・・・いや、いらねぇよ。今の俺には必要ない」
「・・・」

ふっと蝋燭の火が消えたように、の顔から笑みが消えた。箱を持つ手も下げて、がさっと音をたてるチョコレートに目を落として俯いてしまった。

「メロ、今何してるの?」
「・・・」
「どうして教えてくれないの?キラのことだから?」

・・・それもあるけど、そればかりじゃない。

そうだと言ってしまえれば楽なのに。
何も聞くなと押さえつけてしまえばいいのに。
そしたらは何も聞いてはこないだろうに。

と向き合っていると、感情も思考も全部、あの頃に戻ってしまいそうだ。あまりには昔のまま、包み込むようにメロを受け入れてしまうから。だから余計に、知られたくない。

「俺は、これからもっと薄汚くなる。お前の目になんて当てられないほど」
「どうして?どうしてそんな風にしか出来ないの?」
「そうとしか出来ないんじゃない。それを選んだんだ。Lを継ぐのがニアならニアと同じ方法でやったって勝てっこないんだよ」
「メロはそればっかり。なんでそんなに一番に拘るの?Lの敵を討ちたいわけでもない、キラを捕まえたいわけでもない。メロは一番になりたいだけじゃない・・」
「・・・」
「そんな一番の何が嬉しいのよっ・・・」

俯く顔に手を当てて、震える手の甲からぽたぽた涙が床に落ちた。今度こそ何に誤魔化せるわけでもなく、の涙を目の当たりにした。を見つけて、会いに行ってしまって、関わってしまって、後悔ばかりが募る。

「お前には、わかんねーよ」
「じゃあなんで会いになんて来たのよ、なんでこんな物私に残していなくなったりするのよっ」

がチョコレートの入った箱をメロに投げつけると、箱も中身もドサッと床に落ちて散らばった。その手ではドンッとメロの胸を叩いて、叩いて叩いて、

「メロ、預けるって言ったじゃないっ・・・、出ていくとき荷物全部、私に預けるって言ったじゃない!帰ってくる気がないならそんなこと言わないでよっ!物とか、思い出ばっかり残して、私どうすればいいの?どうしたらいいのよぉっ・・・」

ポタポタと降らせる涙と一緒に流れ出たの感情が、叩く手以上にメロを責め立てた。
涙声が雨音を裂いて響いて、部屋中に湿気のように漂う。堪えきれなくなったの手が次第に弱まって、嗚咽を繰り返す口に当てられて涙で染まり、膝を崩して床に座り込んで、メロの足元で小さく、力一杯声を押し殺しながら泣き崩れた。

居た堪れなかった。
せめてこれだけ・・・
そんな気持ちで残したささいな思いは、ただ一人になっていく自分を待っていてくれる場所として慰めていたのに、 思い出と形あるものを残されたにとっては、酷い鎖だった。でもそれはメロも同じで・・・

やっぱり、会いに来るべきじゃなかった。もう二度と触れられない思い出に囚われ続けても、出会うべきじゃなかった。一緒になど、いられる日が決して来ないこと、分かっていたはずなのに。

・・・捨てよう。
全部、何もかも。

から離れて、この部屋からも出て、世界を終わらせようと思った。
そう、メロが一歩下がると、床に散らばるチョコレートを踏んでしまう。バキッと割れた板チョコがブーツの下で砕けて、その黒い固体を現した。

ふわりと、このチョコレート独特の懐かしい匂いが鼻に届いた。それを感じ取ったのか、涙で伏せていたもそっと、手を離してチョコを見た。

メロの大好きだったチョコレート。
最後に全部にあげると言ったチョコレート。

それは二人の、最初のキスの味。

「・・・っ」

太くて重い鎖が、ぶつりと切れた気がした。
メロは床に膝を落として、を力一杯抱きしめた。

「・・・、メロ・・・」

一瞬息が止まったがまた涙を降らせると、メロの苦々しい顔が水の膜の向こうに映って、あの香りに包まれたこの世界で、何度も何度もキスを繰り返した。

憎しむより強く髪を握り締めて、息も止まりそうなほど重ねて、口の中に血の味が広がっても何も見えなくて、あの頃のように優しい口唇ではなかったけど、優しいメロなんて要らなかった。

最後の最後にしか見せられないというのなら、そんなもの要らない。
メロがもたらすものなら痛みだろうと傷だろうと構わなかった。

欲しいのはただ、この確かな体温だけ。

切に願うのは、壊れた時間だけ。





安らぎと偽りの抒情詩04