安らぎと偽りの抒情詩




今迄のどんな時よりも、一番苦しいと思った。
悲しくて、痛くて、冷たくて、
でも絶対に、死んでしまいたいとは思わなかった。

タンッ・・・
そんな、小気味良い音でふと目が覚めた。細いぼやけた視界はいつもの枕を映して、狭いシングルベッドの半分にもう一人分の居場所が空いている。でも目の先には寄れたシーツと壁しかなくて、はガバッと頭を起こす。

タンッ

するとすぐそこでまたあの音がして、その方を見ると朝の日に照らされる金色が目に刺さった。ベッドの柵に腰掛けて、黒皮のパンツを着ているだけで足も裸足で、その金髪をさらりと揺らす。右手を目の前にかざして、壁にかかっている的に向かって指先でダーツを投げ、タン、とすでに刺さっている2本の近くに最後のダーツが刺さると、メロはゆっくりと振り返った。
ほ、と胸が鳴いた。

「なんて顔してんだよ」

どんな顔に見えたのか、メロはふと笑った。そこにメロがいることも、目覚めるまで感じていた体温も、夢でなかったことが胸にじわり響く。ふと落ち着くと、自分がこのもう明るい部屋の中で服の一枚も纏っていないことに気がついて、腰に巻きついてるシーツを引っ張って胸を隠すと、メロは鼻で笑って「今更」とつぶやいた。ぽ、と頬に熱が差すのが分かって、恥ずかしくて顔を隠すようにボスンと枕に沈む。

「もういなくなっちゃったかと思った」
「出てこーかと思ったけど、そんなことしたらがまた怒るからな」

嘘くさいメロの言葉が近づいてきて、メロが体が覆いかぶさりベッドのスプリングがきしっと音を立てた。

「嘘ばっかり。私がどんなに怒ったって泣き叫んだって、メロは一人でどこへだって行ってしまうのよ」
「信用ねーなぁ」

あると思ってたの?
そう睨み上げるの鼻先でメロはまたふと笑って、髪に指をすかせて、曝け出された白い額に静かに口を寄せた。

「少し声が枯れてるな」
「風邪気味なの。きのうは雨にあたっちゃったし。あんまり近づいちゃ駄目よ」
「遅ぇし」

あんまりメロが簡単に笑うものだから、これはやっぱり夢なんじゃないかと思った。もしそうでも、肌で息遣いを感じられて、指が愛しげに触れてきて、耳元で声が聞けるなら、メロの肌の硬さが分かって、暖かさを感じられて、細い髪に触れられて、この甘苦い香りが包むなら、夢も捨てたものじゃないかもしれない。

体と体の間にあった薄いシーツをメロが取り払うと、少し汗ばむ背中にメロの胸が張り付いた。今ほどこの体が邪魔だと思ったことはない。どんなにきつく抱き合っても、やっぱり一人は一人でしかない。

メロの指がの長い髪を絡み取り、背中に舌が滑るとぞくりと毛がよだつような波に襲われる。メロが上手い具合に刺激するものだから、ぎゅと手を握って堪えてもおのずと息が漏れていく。
そんな、淀んだ不確かな空気を、確かな機械音が割り込んで夢を解いた。プルルル、プルルル、・・・と隣の部屋からコール音が鳴りはじめたのを聞き、現実に引き戻されたはふと力を抜いて目を開けて、少し体を起こす。するとメロはの顔を掴んでくい、と自分の方を向かせ、目の前で不服そうに眉を寄せた。

「俺とどっちが大事だよ」

近すぎてよく見えないメロが低く呟いた。の口から答えが出る前にメロはその口を塞いでしまって、それはさっきまでのような愛しげな柔らかさではなくて。まだ隣から呼んでいる誰かの音を聞きながら、目を閉じた。

こんな時間にかかってくるなんて、きっと急ぎの電話だ。うちにかかってくるのはほとんどが仕事関係だから、出なければならないんだろう。

どっちが大事か、なんて、難しい。でもこの、今のメロがいる今のこの世界で、今のが、一体どうしてメロ以外を選ぶことが出来ただろう。たとえこの先世界が朽ちて神が滅んだところで、寸分たりともこの手は離したくない。

この世が永遠でないことくらい知っている。
あまりに世界は短いことくらい知っていた。
今メロを離せばもう二度と触れられないこと、は分かっていた。

泡のような時間だった。
キラキラ輝いて、幾色にも煌いて、召されるように昇っていく。

今のこの現実を夢と見間違っても、きっと神様だって私を責めることなんて出来なかったよ。





安らぎと偽りの抒情詩05