安らぎと偽りの抒情詩




家に帰るとメロがいる。そんな生活が、1週間ほど続いた。
まるでおままごとのような、昔に戻ったみたいだった。

「ただいま」

施設を出てからはずっと一人だったから、家に帰ってただいまなんて言う生活は懐かしい。でもメロは絶対におかえり、とは言ってくれなくて、でもそれがメロだったはずだ。玄関を開けてすぐのリビングにはメロの姿が見えなくて、隣の寝室を覗くと窓辺にメロが立っていた。振り返ってを見ると小さく「おお」とだけ言って、持っていた携帯電話をさり気にポケットに押し込んだ。

「お腹空いた?」
「ああ」
「ごはんにしよっか」

メロがここにいる。目の前で喋って、遠慮がちに笑って、そっと触れて。だからは、そんなメロ以外は見ない。暗い部屋の隅で考え込んでるメロも、電話口で荒っぽく喋るメロも、見ないことにした。カウントダウンはしたくなかった。


「ん?」
「これからちょっと出てくる」
「そう」

ごはんを食べてるうちに外はすっかり日が落ちて、夜がやってきた。お腹を満たしてカチャンと皿の上にスプーンを放って、少し口を篭らせるように話す。

「・・・場所とか、聞かないのか?」
「うん」
「出てく人間なんてどうでもいいってか」
「私メロに何も期待してないから」

さらっと言ってやるとメロは少しだけ目を大きくして、そんなメロの前でニコリと笑ってやった。メロはふと、寂しそうに笑う。
そうやって、寂しさを胸に刺してればいいんだわ。安心して見送ってなんてあげない。泣いて引き止めたりもしない。メロがしたいようにすればいいんだ。それでここに戻ってくるなら、そのときは最上級の笑顔で迎えられる。

「じゃ行ってくる」
「あ、待ってメロ」

薄い上着に袖を通すメロを呼び止めて、は振り返ったメロの上着のポケットにゴソッと、手を入れた。

「なんだ?」
「貸すよ。私の大事なもの」
「・・・懐中時計?」

はいつも金色の懐中時計を持っていた。幼い頃からの思い出のものらしく、施設にいる頃からずっと持っていた。でもは自分のポケットからその懐中時計を取り出して見せるから、それとは違うらしい。

「じゃあなんだよ」
「いーから、いってらっしゃい」

ポケットの中を確かめようとするメロを玄関から押し出し、手を振りながらはドアを閉めた。なんなんだ?とメロは頭上にハテナを浮かべながら、マンションを出ていく。

外はちらほら星が出ていて、でも月は出ていない暗い夜。そんな夜空の下を歩き出したメロはポケットに手を入れ、手に当たったものを電灯の下で取り出してみた。ちゃら、と手から毀れるチェーンの音と、掌にしっかりと収まった銀の十字架。

・・・十字架

ふとマンションに振り返るメロは、3階の角の窓にを見た。
・・・きっとあの雨の日も、あんな風に寂しく心配そうな目で自分を見送っていたのだろう。十字架が、ちゃんと帰ってこいと言っているような気がした。間違っても、過ちを犯すことのないよう、祈ってるように見えた。電灯の下から歩き出すメロは十字架のついたチェーンを首から提げて、暗闇に溶けていった。


何度こうして去り行く背中を見れば、不安に押しつぶされそうなこの思いに慣れるのだろう。いつも勝手に出て行って、でもああして必ず振り返るメロを、引き止めたくて引き止めたくて、ただ口を閉ざす。

メロに十字架なんて、ひどく似合わない。きっと嫌がる。
でもそれでいい。
重くて気が滅入りながら、思い返してくれればいい。返してくれれば、もっといい。

メロがいなくなったいつもよりずっと冷たく広く感じる部屋の中で、何度も何度も泣き止もうと努力した。


けれどやっぱり、それから何日経ってもメロは帰っては来なかった。


・・・毎日が忙しいことを嬉しく思った。寝る暇もないほど頭と体を動かして、疲れきって気がつけば寝てしまっているほどの憔悴が救いだった。そうすれば少しは、メロが頭の真ん中からいなくなってくれる。心に平穏が訪れる。

なのに時々、携帯電話が鳴って、声だけがの元に帰ってくる。

つらすぎるよ。
酷すぎるよ。

強い太陽が弱まって、世界が少しずつ色を褪せていって、そうして季節が移り変わっても、刺さるほど、眩しくはね返る金色を見ていた季節にひとり、置いてきぼり。

元気かくらい聞いてくれたらいいのに。気にして、気が病んで、堪らず確かめにきてくれたらいいのに。大丈夫だと勝手に思うなら風邪だってひいてやるし怪我だってしてやるのに。

メロなんていなかった、と、何度言い聞かせたことか。全部夢だ、幻だ。誰かそういうことにして。卑しいほどに体に残る感触と温度を消して。部屋中に広がるあの匂いを追い出して。

「ヤダなぁ、また嫌な人間になってく」

自分で自分をせせら笑うのが精一杯だった。忘れようとしたって消えやしないのはこの2年、嫌というほど実感してきたんだ。メロがずっと側にいるはずがないこと分かってた。

分かってた
分かってた
分かってた

「っ・・・」

ただこんなに苦しいとは思わなかっただけだ。

この世は心にシンクロするようにだんだんと寒くなっていく。
メロは声だけ寄こして、ロザリオはまだ返してくれない。
雨が降ってないことだけが、精一杯の私を慰めた。





安らぎと偽りの抒情詩06