みせかけのメリークリスマス




びゅ、と刺すような冷たい風が強く吹き抜ける。
その日の空は白けて重く、雪でも降りそうな寒さだった。

「翼さーん、クリスマスパーティー来ないんすかー?」

多くの生徒が押し寄せる昇降口で呼ばれて振り向くと、思ったとおりそこにはサッカー部の後輩たちがいた。

「あれ、あのパーティーってクリスマスを一緒に過ごす女もいないヤローたちの集まりじゃなかったっけ?」
「うわイタ!そーっすよねー、翼さんには縁のない集まりっすよねー」
「や、いつもみんな楽しそうで羨ましいんだぜ?結局一度も行けなかったケド」
「うっわ!翼さんもねー、1回くらい寒いクリスマスを体験すべきっすよ!」
「そりゃあ是非体験してみたいもんだね」

後輩たちのブーイングに笑いを噛む翼は、後ろ髪を揺らし手を振ると下駄箱のほうへ歩いった。

「バカ、目の前の光景見てもの言えっつーの。さん一緒じゃん」
「あ、ほんとだ。長いよなー翼さんとさん」
「中学ん時かららしーよ」
「まじで?そりゃ寒いクリスマスなんて縁ないよなぁ。でも翼さんスペイン行っちゃうしさー、誘ってみたかったんだよ」
「まーなー」

もうすぐ短い冬休みに入るだけあって、昇降口は多くの生徒で溢れていた。目の前のガラス戸は外の風を一身に受けてガタガタと震えるように揺れ、その向こうで吹き荒れる風は木々の葉を一枚残らず吹き飛ばして、ただでさえ低い気温をさらに落として今年一番の冷え込みを運んでくる。

「風強いな。雪降ってんじゃない?あれ」
「お昼くらいから降ってたよ。降ってたっていうか舞ってる感じだったけど」
「マジ?気づかなかった」

厚く防寒した生徒たちが校舎と外との境目であるドアをくぐるたびに刺すような寒さが差し込んでくる。コートを首までしめてマフラーを巻きなおすけど、きっとあの寒さはそれすらも簡単に突き抜けてくるだろう。風で重くなったドアを翼が押し開けると隙間から風は襲いくるように吹き付けて、あまりの寒さに全身が萎縮して目を瞑った。

「うわ、さむっ。先に出ろよ、風でドア閉まる」
「ん」
「マフラー結んどきな、飛ばされるよ。この時期に風邪なんか引いたらバカだからな」
「うん」

ドアを支える翼の腕の下をくぐると寒さに直面した体はぎゅと全身の毛穴を締め付けた。解けて飛んでいきそうだったマフラーを巻きなおすと翼が後ろでぎゅと結び、風で乱れたの髪を撫ぜて直す。空中では細かな雪が舞い飛んでもうどこから降っているのか分からない。そんな中へ、翼はにコートのフードを被せ風が吹き込む前に立ち校門へと歩いていった。

「今日塾何時?」
「んー、5時半」
「俺お前んちに自転車置きっぱなしだよな。ついでに乗せてってやるよ」
「やった」

二人の姿は、自然と多くの生徒たちの目を集めていた。この学校へ入学してくる以前から一緒にいることは当たり前だった二人だけど、中学時代同様、それ以上に、高校でもその容姿から人気を馳せていた翼の隣はただでさえ目立つ。それは一時期はやっかみを受けるものではあったけど、数ヶ月、数年と時間が経つにつれ、二人が当たり前のように一緒にいる光景は当人たちだけでなく、誰もが認めざるを得ない事実となっていた。

翼がを想い、が翼を想い、大事にしていたことは誰の目にも分かった。それは若い二人にとって、時間が経つにつれ薄れゆくはずのものだったけれど、二人は薄れるどころか、その感情をより深く強いものにしていった。

想う気持ちに確証があったわけではない。信じる心に疑問がなかったわけではない。でも二人には分かっていたから、いつかはひとつだった道がふたつに分かれ、その先の向こう側を見据えるために離れる時が来ることを分かっていたから、二人は互いに、疑うよりも責めるよりも、信じることを選んだ。

ごく単純でささやかな恋心だった。
ただそれだけを大事にしていた。



バスを降りて歩き出すと、天から風が渦巻くような音が降ってきて、見上げた空の中心を飛行機雲が飛んでいくのを見た。冷気が上から押し寄せる。弱いながらも太陽光が差している。制服の上に厚手のコートを着てはいるが、前を開けていても平気なくらい、少し寒さが和らいだその日。

「・・・はー、こっちはえらいあったかいなぁ」
「こっちはって、そんな変わんねーだろ」
「京都の冬はたまらんでー、夏は暑いくせに冬はやたら冷え込むんや」
「へー」

うっすらと青い空を見上げて歩く足音たちは、乾いた空気の中で重なって響いた。その音はささやかなのに話し声より大きく聞こえ、同じテンポで鳴り続ける。過去このメンツで一緒に歩いていた時は足音なんて気にも止めたことなかったのに、会話は尽きることなく溢れるように流れ出ていたというのに、今はやっとぽつりぽつりと直樹の口から出てくるだけだった。

口から漏れる息でもわりと白が生まれる。何か話そうと口を開くんだけど、どうしても言葉は形にならなくて、直樹も五助も六助も、柾輝も、深い空っぽな息が零れるだけ。

「柾輝、のやつはもう大丈夫なんかいな」
「ああ、きのうの夜目覚まして、意識もはっきりしてるから大丈夫だろうって」
「そぉか、そりゃあいつにとっちゃ唯一の救いやな」

ず、とすすり上げた鼻水は寒さのせいとマフラーの下で誤魔化したけど、腫れた熱い瞼の下からどうしようもなく滲み出てくる涙はどうとも誤魔化せずにぐいと不躾に拭った。

「あかん、あかんわ。無理やろ、あいつが死んで、なんも考えられんわ」
「・・・」

直樹の言葉は耳に刺さっていつまでも頭に残った。口にしたらそれがどうしようもない現実となって襲ってくるから誰も口に出せなかった。でも、ついさっきまでいた場所の匂いが服に染み付いて、周囲から絶えず聞こえていた人々の泣きじゃくる声がいつまでも響いているようで、目に見える現実全てが、受け入れろと、押し迫ってくる。

翼が死んだ。

5日前、その日は風が強く、日が暮れるとさらに冷え込んで雪がちらつき地面は凍っていた。翼は暗い夜道を自転車で走っていて、視界の悪い交差点で起きた車同士の事故に巻き込まれ重症を負った。すぐ病院に運ばれたけど意識が戻ることはなく、連絡がきて親族や友人、チームメイトが駆けつけたときにはもう、翼は白く綺麗な顔で、静かに眠っていた。

誰も信じられなかった。手の込んだ悪戯だと、またあいつが影で笑って楽しんでいるんだと、自分たちは騙されているんだと、信じて疑わなかった。あまりに綺麗な顔で、ただ眠っているだけに見えたから。

でも現実は事実だけを思い知らせた。
自転車の後ろに乗せていた彼女、が、重症を負いながらも命を取り留めていたことで、まさか翼が彼女を傷つけることなんてあるわけがないから、これは現実なんだと、思い知らされたのだ。

、翼のことは知ってんの?」
「さぁ」
「いきなり事故におうて、またいきなりそないなこと言われたかて絶対信じられんやろなぁ。あいつにしてみりゃ、自分だけ生き残ったようなもんやし」
「そんな言い方すんなよ。翼だったら絶対、だけでも生きててくれてよかったって思ってるよ」
「・・・ああ、そうだな」

乾いた冬の空気に、足音はやけに響いた。空で風が渦巻いて、鼻を通る空気は突き刺すように冷たくて、手がかじかんで。

空だけ、薄い水色が綺麗に映えていた。


病院についた4人はが入院している病室を訪れた。ついさっき空に溶けて消えた翼を見送ってきたところで、誰も、どんな顔も出来ないけど、この扉の向こうにいる彼女を思うともっとどんな顔をすればいいのか分からなかった。ドアを開けるのも躊躇って譲り合う中で、一番後ろで静かだった柾輝が取っ手に手を伸ばしガラリとドアを開ける。

柾輝たちにとってもは特別な感情はないにしろ、大事な存在だった。いつも一緒だった翼がいつからか自分たちの輪から抜け出て別の場所に居つくようになり、そこにいたのが彼女だった。最初は幼くも翼をとられたような気分になったけど、翼が見たこともない顔で彼女を見るから、彼女を想っているのが嫌というほど伝わってきたから、彼女は認めざるを得ない存在となり、いつしか無くてはならない人になっていた。自分たちの支柱だった翼の、大事な支柱だったから。

今日は寒いけどいい青空が見えていたから、病室は暖かく光に満ちていた。部屋の奥のベッドを囲む白いカーテンの、その向こう側に少しだけ見えている小さな背中も、窓から差す弱い太陽を浴び水色の空を見ていた。



自分でも驚くほど神妙な声が出た。過去こんな声で彼女を呼んだことがあっただろうか。こんな声を出したことすらないのだからあるわけが無い。これは優しさから来ているのか。それとも同情からか。

そんな声を聞き取って振り返った小さな頭はまだ痛々しい包帯を巻いていて、ゆれる髪の下から覗いた真っ黒な目は想像していたよりもずっとはっきり自分たちを捉えた。

「みんな、来てくれたの?」

ぽろりと零すように笑顔を見せたのその表情は、外から差す陽光となんら変わらぬ明るさだった。

「ああ、大丈夫か?」
「うん、検査次第ですぐ退院できるって」
「そっか、良かったな」

にこり笑うはあまりに無邪気で、誰もが、はまだ知らないんだと思った。どう言えば、誰が言えば、彼女にとって最善であろうか。誰も真髄は口に出来ず、ただ取り繕うように笑顔を乗せて先延ばしにするしか出来なかった。

「京都からわざわざ来たの?大げさだなぁ」
「そりゃ来るて、お前のためなら地球の裏からでも飛んで来るわ」
「よく言うよ、私より翼に会いたかったんでしょ」

軽く発せられるその名前に、どきりと胸が痛んで頬が強張った。

「あれ、そういえば翼は?」
「・・・ああ、あのな、・・・」
「ん?」

まるで疑いのない目。
この目を曇らせてしまうのは、他の何より心苦しいけど、
状況を説明出来るほど自分たちの胸も整理がついていないのだけど、

「翼は・・・」

言わなければ。

「・・・あいつは、」
「会わなかった?すれ違っちゃったのかな」
「・・・え?」

どこ言っちゃったんだろう、とはベッドから身を乗り出して窓の外を見下ろした。

、翼は・・、もうおらんねんで」
「なんで?どこ行っちゃったの?」
「どこって言うか、だから、・・・」
「だってナオキたちが来るのが窓から見えたから、迎えに行ってくるって出てったんだよ?」
「え?だれが?」
「だから翼が」
「は・・・?」

の口走ることが分からなくて、誰もがを見つめた。
その曇りの無い目と、今までと変わらない笑顔。
無垢で、純粋で、かわいらしくて、・・・でも何故か、

「どこ行っちゃったのかな、まさか帰っちゃったんじゃないよね」
・・・」
「トイレかな。あ、売店かも。さっきあたしチョコ食べたいって言ったから買いにいっちゃったかな。翼そういうの絶対聞き逃さないし」
「・・・」

何故か今は、腹の奥底からひやりと冷める、寒気を感じた。