生まれた時からどこか……何かが違っていた。
 周囲にいる従者達のような透き通る金色の髪も花模様の瞳も真っ白な肌も、自分とは違う。はっきりと何が違うと自覚は出来なかったが「違う」ということは分かっていた。でも毎日自分を取り囲む大人達はみんな声を揃えて言った。綺麗な黒髪ね。穢れのないまっすぐな黒い瞳。愛らしい顔立ちだわ。……だから気にならなかった。みんなが褒めてくれるから他と違っても気にならなかった。少女にとって目に見えているものがただ一つの真実であったし、それが世界のすべてだった。

「ハンナ、なぜお外にいっちゃだめなの?」
「お外は危険な場所よ。おうちの中が一番安全なの」
「でもみんな外を歩いてるわ」
「貴方は特別なの。他の誰よりもね」

 父や母等という概念はなく、生まれた時から乳母や屋敷に仕える多くの従者が少女を育てた。物心ついた頃から言葉に書き物に、ピアノにバイオリンに、座り方、歩き方まで躾は厳しかったが、それが日常でそれ以外に何もなく、少女に疑問はなかった。広く大きな屋敷から一歩も外に出られないことだけが不満ではあったが、言いつけを破ってまで外の世界を求めるような自由な心は育まれていなかった。我儘を言えば、悪戯をすれば、言いつけを守らなければ、一日中でも暗い納屋に閉じ込められる。掠り傷程度にも罰を受けることは一切なかったが、その躾は少女の心をよほど怯えさせた。

 少女はまっすぐ育っていった。秀麗に、穢れなく、一寸のささくれも無く。
 それは光の方に延びていく大輪の花のようでもあった。少女はいつも窓の外の空を覗いていた。朝はどこからやってきて夜はどこからやってくるのか。太陽はどこから昇りどこへと沈んでいくのか。毎日毎日同じ動きを繰り返す少女には、ただそこにある四角い空が手に取れる唯一の変化だった。

「ハンナ、お空はどこまで続いているの?」
「どこまでもどこまでも続いているわ。ここからではこれだけしか見えないけど、あの屋根の向こうにも、壁の向こうにも、空はどこまでも続いているの」

 疑問はすべて乳母が解消してくれたし、本を読めばこの世に季節や寒暖があることは理解したが、それは情報であって実感ではなかった。そうであることにすら少女に気づく余地はない。それが少女の生きている世界であったから。厚手のコートを着るような寒さを体感したことはない。働く従者達のように汗を拭ったこともない。少女の世界は三重の壁よりも遥に小さかった。

「壁の外には巨人がいるんでしょう?」
「そうよ。とても恐ろしいの。いい子にしていないと壁の外から巨人がやってきて食べられてしまうわ」
「巨人と旦那様とどっちが怖い?」
「旦那様は怖くなんてないわ。お優しい方よ」
「じゃあ神様と旦那様はどっちが優しい?」
「そうねぇ……」

 乳母は少女にとって母そのものだった。優しさも慈愛も言葉も教養もすべて乳母に教わった。他の従者達は身の回りの世話をしてくれてもどこか遠巻きで、壊れ物でも扱うかのように気遣っている空気を拭えなかったから、少女にとって安心して触れられ温度を感じられる人は乳母だけだった。
 その乳母も含め、周りの大人達の誰もが従い絶対的な力と地位を持っていたのが屋敷の主人であったが少女にとっては身近な存在ではなく、時々やってきては成長や躾け具合を見て去っていくだけの不思議な存在だった。目の前にいながら、乳母が良く聞かせる物語の神や巨人らの存在と大差なかった。

 毎日は平穏の繰り返しだった。陽が昇る頃に目覚めひとりで食事を取り、鮮やかなドレスを着て髪を丁寧に梳き整え、本を読み文字の勉強をして音楽を習い、またひとりで食事を済ませ日が沈んだ頃に眠りにつく。狂いのない生活。危険など無い屋敷。与えられたものを与えられただけ吸収し、求められるものを求められるだけ発揮する。同じ毎日の繰り返し。昨日と同じ今日。今日と同じ明日。

「ハンナはどこ?」
「何の御用です?」
「ハンナよ。どこにいるの?」
「ハンナは今日は……留守にしております。私が代わりに伺いますよ」
「ううん、ハンナがいいの。ハンナはどこにいるの?」
「ですから、ハンナはいません。さぁ、お勉強の続きをなさいませ」

 その日常が僅かに狂ったのは、ある冬空の午後だった。
 読みかけの本を抱えながら、今朝から一度も見ていない乳母を求め少女は屋敷の中を歩き回るが、どこにもその姿が見当たらない。誰に聞いても同じ答え。今日はいない。明くる日に聞いても同じ答え。今日はいない。さらに明けても同じ答え。今日はいない。今日はいない。今日はいない。
 少女は泣いた。突然いなくなった乳母をねだって昼も夜も泣いた。それでもハンナは来てくれない。誰もまともに取り合ってもくれない。帰ってくる答えはいつも同じ。今日はいない。

 乳母がいなくなって5日が経った頃、本を読み続けるしかない少女は続きの新しい本を手にとった。苦難に直面しながらも希望を持って強く生きる少年少女の冒険譚。ハンナはこの物語が好きだった。こんな風に強くたくましく、いつでも笑みを持って生きなさいといつも言っていた。もう何度読み返したか分からない本を、少女は空虚な面持ちで本棚から引き抜いた。

 するとその本の中からポトリと落ちてきた、白い封筒。
 少女は起毛の絨毯に落ちたその封筒を手に取り表の文字を読んだ。見慣れた文字で書かれた少女の名前。それは見間違うことのない、乳母の文字で、少女はすぐに封筒を開けた。
 中には手紙と、青い石のついたペンダントが入っていた。
 訝しげに少女は手紙を開き目を通すも、その内容は意味の分からないものだった。

 ―貴方は東洋人という今では珍しい貴重な存在。旦那様はそれを売り物にし、何人もの東洋人が犠牲となった。貴方を生んだ母もその犠牲となり、無理に子どもを産まされた。そして生まれたのが貴方。貴方が10歳になる時、今の貴方の生活はすべて終わり、貴方は売られることになる。

 ……少女には何度読み返しても意味は分からなかった。
 ただ馴染みある乳母の字体が悲しんでいるように震え歪んでいたことが少女に何か得体のしれない不安と恐怖を覚えさせた。理解は出来ない。けど今実際に乳母はどこにもいない。誰に聞いても答えは同じ、今日はいない。少女にとって乳母はただ一つの真実だった。ただ一つの愛であった。だから何を言っているのか理解は出来なくても、信じるには十分だった。

 ―私の命を持ってしても、貴方を救うことは出来ないでしょう。
 逃げなさい。どこかうんと遠くへ。
 この小さな世界から出て、たくさんの人に出会いなさい。そしてそのすべての人に笑いかけなさい。
 この狭い壁の中に、貴方の安住の地は遠いかもしれない。
 それでも必ず、出会える日が来ると信じなさい。
 貴方を愛し、助けてくれる人がいれば、貴方の世界はあの空のようにどこまでも広がっていくから。

 信じなさい。愛しなさい。生き続けなさい。
 貴方にはその力があると信じています。
 喜びも悲しみも、生きてこそ。貴方の背中には自由への翼がある。
 どうか幸せになって。生きて。生きて。生きて。

 ……僅か10歳の心にもその言葉は強く響いた。
 生きているなんて実感したことのなかった少女の心に光が射し、命が宿った。
 青く光る石の付いたペンダントは、少女を生んだ母から預かっていたものだと書かれていた。その先の見えない深い青は煌めきと淀みの両方を混ぜ合わせているようで、だけど不思議と強く惹きつけられた。

 ……だからと言って少女に何が出来るわけもなかった。
 屋敷の中しか知らないたった10歳の少女は、逃げろと言われても玄関の扉ひとつ開けることが出来ない。鍵の開け方すら知らない。いつも周りで世話を焼いてくれていた従者達は玄関に近づけばすぐに寄ってくる。その時少女は実感した。見守られていたのではない。見張られていたのだと。すべての笑顔が仮面に見えた。感情など無い。貼りつけられた一辺倒の笑顔だったのだ。

 少女が隠し持っていた手紙は従者に見つかり、それは屋敷の主人にも伝わった。
 しょうがない。面倒を起こされても敵わん、日取りを早めるか。
 少女がずっと抱いていた主人への恐怖がなんなのか、今になってはっきりと分かった。
 その目は、人を見る目ではなかった。乳母のように命のある目ではなかった。
 少女は溜まらず怖くなってタンスの奥へと逃げ込んだが、何の効果も無くすぐに引きずり出された。

「イヤ……イヤ!」
「そう騒いでくれるな。煩い子どもは好まれない」
「イヤ! 行きたくない、行きたくない!」
「可哀想になぁ……何も知らない方が幸せだったのに」
「ヤダ! イヤ、イヤー!」

 意味も分からずただ恐怖だけを感じ泣き叫ぶ少女はその後真っ暗な納屋に閉じ込められ、一寸の光も無い世界でガタガタと手足を痙攣させた。それは数日続き、喚き叫んだ声も涙も枯れ果て、やがて両手を強く握り締めるしかなくなった。手紙は取り上げられたがペンダントだけは絶対に離さなかった。もうそれだけしか握り締めるものがなかった。
 ある朝少女はようやく納屋から出され、従者達の手により洗い清められた。そのまま抱きかかえられ、少女は初めて屋敷の外に出た。車に乗せられ延々走り、昼間なのに暗い穴に入っていき光もひと気も薄い所へ運ばれていった。車から出た少女は今度は檻の中に入れられ、それはまるで窓辺に吊るされていた鳥籠を中から見ているような光景だった。前も後ろも、右も左も、縦に冷たく硬い格子が走っている。その中で少女は居場所も定まらず狭い場所をぐるぐると彷徨った。

 何も見えないのに周囲から人の気配だけは這うように迫ってくる。
 四方からのざわめきが強くなると少女は不安と恐怖で座りこみ、すると突然目を開けていられないほどの光が真上から当てられた。

「―それでは今夜の至高の一品……。純正の東洋人、10歳の少女です」

 眩しくて何も見えない。暗闇に纏わり続けた目は少しの光も凶器だった。
 光に包まれていても周囲のどよめきが闇と同じ恐怖を感じた。

「父母は間違いなく東洋人。髪も瞳も一点の曇りもない漆黒、当然のことながら穢れもございません。現在でこれほど整った東洋人はまずお目にかかれません。躾も教養も申し分なし。品質はかのバッツドルフ家が保証いたします。10年手塩にかけ育ててこられた家に敬意を表し、破格ではありますが開始額は一億でございます」

 少しずつ慣れ始め薄眼を開けてみた景色に、少女は息を飲んだ。
 縦に走る格子の向こうには暗がりの中に不気味に仮面が多数並んでいた。
 そのどれもがこちらを見ている。笑い顔、泣き顔、怒り顔。奇妙な面達が皆一様に檻を取り囲みこちらを凝視していた。ゾッと背筋を凍りつかせた。立ち上がる力などあるはずもなかった。数字が飛び交い、値が上がり、怒号のような声が応酬する。その中央で目を見開き少女は頭の奥の奥で思った。

 この生き物達は……ナニ?

 桁が上がると再び場内がどよめきで揺らぎ、そんな中で突然ガシャン! とガラスが割れる音がして、同時に少女に降り注いでいた光が消えた。

「なんだ、何ごとだ!?」

 数か所のガス灯でギリギリ視界が保たれていた場内の、明かりがひとつ、またひとつと消えていく。ガシャン、と明かりがコンクリートの地面に落ちて割れ火花が散る。次々と降ってくるガス灯に仮面の人間達は逃げ始め、あっという間に場内は騒然と混乱した。

 何が起きているのか分からない少女は座りこんだまま呆然と目を見開いていた。
 するとまた突然に体が何かに引っ張られ、確かに感じていた硬い床から離れ体ごと空中に浮き上がり、その時少女はようやく悲鳴で声を取り戻した。体はそのまま高く高く浮き上がり、やがて行き着いた梁の上に少女は離され慌ててしがみついた。

「どーすんだよリヴァイ、東洋人なんて捌けねーぞ。アシつくじゃねーか」
「いいから行け、脱出だ」
「よし逃げるぞ、商品傷つけんなよ!」

 下では悲鳴と怒号が飛び交い騒然としているのに、それを遥か下に見下ろすそこでは小さな声たちが冷静にその場を離れようとしていた。また暗闇になり少女は何も見えず、ただ掴めるものを掴んで震えるしかなかった。

「……そこにしがみついてても何も起きねーぞ」
「……」
「鳥籠からは出してやった。あとは勝手にしろ。誰も助けちゃくれない。お前がお前として生まれてきた以上、一生それは纏わりつく。ここで死ぬも、奴らに飼われるのもいいだろう。好きな方を選べ」

 すんと冷えた空気を壊さない冷たい声。
 少女はうまく動かない腕に必死に力を込めて身体を起こし、声の方を見た。
 暗くて何も見えないが、そこに誰かいる。
 そしてその誰かは梁の上を走りいなくなってしまった。

「……」

 何か言おうとしたが、少女の声はまだ引きつり音として成り立たなかった。
 呼び止められない。助けも求められない。どうすればいいか分からない。
 すると少女は、手の中のペンダントを思い出した。

 ”生きて”―。

 少女は小さな手でペンダントを握り締め、その手をついて細い梁の上をゆっくりと体を引きずり進みだした。軽やかに駆けていく小さな足音を頼りに暗い中を這っていく。手探りで前を探し、ほんの少しずつしか進まない体をずるずると引きずる。足音は遠ざかっていく。追い付けない。追い付くはずがない。体力も気力も元々無いに等しい上に、もう心は限界などとうに超えていた。
 涙がこぼれ、少女はぐいと涙を拭う。すると離れていく足音が少し先で一度止まった。少女は目を凝らし、遠くに見えている影を見つけてまた体を引きずり動かした。足音が進み、止まる。少女は這い続ける。その繰り返しだった。

 手に痛みを感じる。感じたことのない痛み。
 服は埃や煤にまみれ汚れていく。感じたことのない匂い。
 それでも少女は離れていく影を追いかけ体を引きずった。
 暗闇が次第に解けだし明かり見えた。ずっと先の方に天から一本の光が降りていた。
 追いかけていた影はその光の下で消えた。少女は引きずっていた体を何とか立たせ覚束ない足取りで光の方へと一歩ずつ歩いていくと、その光の元には梯子がありそれが天まで続いていた。少女は梯子を掴み、一段昇る。ドレスの裾が足に引っ掛かり、少女は一度下りてドレスを脱ぎ捨てまた一段上を掴み、昇った。自分の体を支えたことも無い細腕は高さが上がるごとにブルブルと震えたが、少女は光の先だけを見上げ一段ずつ昇り続けた。

 光が目の中に飛び込んでくると、そこは外だった。
 少女は黒い瞳をパチパチと瞬きし、穴の中から外へ出た。
 石畳の裏路地、コンクリートの壁、上空に見える細長い空。
 少女はその空を見上げながら、空が続いている先へと歩き出した。
 いつもなら四角いだけの空が、細長く続いている。
 その空を見上げながら歩いていくと、やがて両隣の建物がなくなり空は四角くなくなった。

「……」

 空は四角くなかった。形なんてない。どこまでも続いている。
 本当に、乳母の言った通り、空はどこまでもどこまでも続いていた。
 そこには風が吹いていた。ひやりと冷たい空風だった。
 乾いた葉がカサカサと転がり、裸の木が風に揺れていた。
 外だった。いつも絵画のように飾られていた外の景色の中に、少女は入りこんだ。
 眩しかった。眩しくて眩しくて、黒い瞳から涙が溢れ出た。

「いたぞ、アレじゃないか!?」
「いた、あそこだ! 捕まえろ!!」

 ひと気のなかった路地に荒々しい足音が混ざり込んできて、少女は空から目を離しビクリと辺りを見渡した。遠くから黒い巨人が迫ってくる。少女は動きたかったがもう手にも足にも力は幾分も残っておらず、動かした足が足に絡まり石畳の地面に倒れた。足音が迫ってくる。黒い手が延びてくる。捕まえられる。恐怖がやってくる。逃げても逃げても伸びてくるあの闇の手が、掴もうと延びてくる。

「イヤ……イヤ!」

 少女が蹲り叫ぶと、それは天から光のように現れた。

「ギャアーッ!」
「なっ……うわぁあ!!」

 先程、深い闇の中を照らしたあの光のように。
 延びてくる手を切り落とし、少女の前に降り立った背中―。
 血をボタボタと地面に零しながら泣き叫ぶ声達を余所目に振り返り、少女を見下ろした鋭い眼光。

 少女ははっきりと見た。果てのない空をバックに立ちはだかるその姿。
 その背に確かに翼を見た。
 大きな空を羽ばたく、自由への翼。

 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne