夢を見た。何を見たかは覚えていない。けどその色ははっきりと覚えている。
眩しくて、くらくらと眩暈を感じるほどの青だった。
眩しくて眩しくて閉じた瞼に力を込めて、そっと開いた。
「……」
視界はぼんやりと映りが悪く、濁っていて目の前のものが何なのかも分からなかった。そこに空はない。明かりのついたランプが天井にぶら下がっていて、木の天井を丸くぼんやり照らしている。
「お、目が覚めたか」
かけられた声を言葉として認識できなかったが、少女は人の声に驚き咄嗟に体を起こした。すぐ右側に近づいてきた誰かに怯えおののき逃げようとすると、寝かされていたベッドから落ちそうになりバランスを崩したところでガシッと支え受け止められた。うしろにも誰かいた。少女は自分の肩を掴んでいる背後の人を振り向き見上げる。すぐそこに立つ男が静かな目で自分を見下ろしていた。
……動揺と混乱の頭でも少女はその目に気づいた。
気を失う一瞬前にその目を見た。
「大丈夫だ、大丈夫だ。心配するな。誰もお前を傷つけんから」
最初に声をかけただろう、ベッドの向こうから両の掌を向けて無害であることを主張する年輩の男が優しい声で少女を安心させようとした。頭に白い布の帽子を被った白衣の男は首から聴診器を提げている。その姿もまた少女は見覚えがあった。その男に覚えはないが、その格好は見たことがある。医者の格好だ。
「お前さん、名前はなんていうんだ?」
「……」
「喋れるんだろう? 声を出せるか?」
「……」
「うん……茶でも飲むか。待ってなさい」
優しい手で少女はベッドの上に引っ張り戻され、白衣の男は部屋を出ていった。騒ぐ心臓の音が頭の中で反響し続けている。少女は再び背後をゆっくりと覗き見るが、落ちかけた背中を支えた男は無言のまま目を逸らし腕を組んで隅の台に腰掛けた。
大人はみんな怖い。捕まえようと迫ってくる手の恐怖が拭えず小さな手はいつまでも震えていた。すると少女は握り締める手の中にペンダントが無いことに気づき両手を開いた。自分の周りも、ベッドの上のどこにもない。
「これか?」
背後で低い声が生まれ少女はビクリと肩を揺らす。
怯えたぎこちない目で振り向くと、台に腰掛ける男がこちらに左腕を伸ばし、その先には青い石のついたペンダントが握られていて少女は急ぎそれに飛び付いた。
「誰も取らねぇよ。ただのガラス玉だ」
「……」
少女の小さな手の中にペンダントが戻った。
浅く呼吸を繰り返し、いまだ胸を圧迫する苦しさは晴れないけど、ようやく安堵の息を吐けた。
そして再び、前の男に目を向ける。
その声……やはりあの闇の中で聞いた声。光の方へ導いたあの影。
「飼われてた方が楽だったのにな。お前みたいなガキが生き抜ける程世界は甘くない」
「……」
男は台から腰を離し歩きだす。
ベッドの前を通り過ぎ、部屋の出口の方へ。
「あ……りが、とぅ……」
少女が弱々しい擦れた声で言葉を形作ると、扉口の手前で男は歩を止めた。
そして静かに冷えた細い眼を奥の少女に向ける。
「テメェで生きる方を選ぶだけの根性がお前にはあったってことだ。なら精々足掻け。自由なんてものはそう楽なもんじゃねーがな、誰にも左右されたくなけりゃテメェの足で歩け。お前の宿命以上の価値を身につけろ。運命なんぞに潰されないだけの価値をな」
「……」
男はそれだけ言うと扉口を抜け去っていった。
「もう行くのかリヴァイ。メシ食ってかんか」
戻ってきた白衣の男の声がするが、それに対する返答はなく玄関の閉まる音がした。ヤレヤレと部屋に入ってきた白衣の男が少女の元まで来ると少女はペンダントを隠し再びベッドの隅に身を寄せる。
「先生、誰なんですか今のは」
「やつらは王都の地下街をねぐらにしてるゴロツキ共だ。あんまり関わっちゃいかん。特にあのリヴァイは何を考えているのかよく分からんからな。迂闊に信用するとうっかり足元すくわれるわ」
ベッドの脇に椅子を引っ張り出し腰掛ける白衣の男のうしろからまた別の男が大きな盆を持って入ってきた。背の高い赤髪の青年は少女のベッド脇までくるとニコリと優しく目を細め、台の上に盆を置くとシチューの入った皿とパン、スプーンと湯気の立つカップがカシャンと音をたてた。青年はお茶の入ったカップを少女に差し出すが少女は手を出さずに淀んで、すると青年は少女の手を取りカップを持たせた。触れた手は温かかった。
「さて、お前はこれからどうしたい。行きたいところはあるか?」
立ち上る湯気が柔らかく少女の頬を撫ぜるが、少女はカップを見つめたまま言葉に詰まる。自分には何もない。行きたい場所も帰る場所も。
「うん……。じゃあ、ここに住むか。ここは診療所だが、私とこのレイズのふたりだけだ。どうだ?」
「……」
少女が青年に目を上げると、レイズはまた柔らかく笑いかけた。
その笑みは屋敷の従者達のような貼りつけた仮面には見えなかった。
目の前の白衣の男もそう。優しい語り口は人の温度がした。ハンナのような。
白衣の男はウォルトといった。王都の南側に位置するこの町で医者をしている。ウォルトは自分の被っていた白帽を少女の頭に被せた。少女には幾分大きすぎる白い布帽子。
「この世界は、お前には生き辛い世界かもしれん」
「……」
―この狭い壁の中に、貴方の安住の地は遠いかもしれない。
「だがそれは誰もが同じ。誰もがそれでも強く生きねばならんのだ。生きてこそ道は出来る。お前に意思があるなら、そこに道は出来る。さぁ、どうする」
「……、」
―それでも必ず、出会える日が来ると信じなさい。
貴方の背中には自由への翼がある。
信じなさい。愛しなさい。生き続けなさい。
どうか幸せになって。
「……生きる……」
―生きて。生きて。生きて。
……そうして少女は新しい人生、新しい家と家族、新しい名前を貰った。
。そう名付けられた。
は診療所を兼ねたウォルトの家で暮らし始め、少しずつ元の明るさを取り戻していった。生活は一変し、それに慣れるのはそう簡単ではなかった。が10年間繰り返した屋敷での暮らしは思っていた以上に普通とはかけ離れていた。
「、どうして一緒にごはん食べないの? こっちおいで」
「でも……」
「でも?」
「食事は、汚い行為だから……人前でしてはいけないって……」
「……。それは違うよ。食事は生きるためにとても大切なことだ。それは栄養のあるものを食べるということだけじゃない。おいしくいただくということだ」
「おいしく……?」
「皆で食べる。笑って食べる。楽しく食べる。そうすると食事はもっとおいしくなるんだ。僕はと一緒にごはんが食べたいよ。は家族だからね。だから一緒に食べよう。少しずつでいいから」
「……うん……」
兄のように温かく接し優しさと許しを与えてくれるレイズは、に深い安心感と元の明るい笑顔を取り戻させた。
「、包帯を取っておくれ」
「ハイ」
「、次の患者さんを呼んできてくれ」
「ハイ」
一緒に生活をするうちにはウォルトのうしろについて診療所の手伝いもするようになった。最初は物を渡したり道具を片づけたりする程度だったが、は何でも聞きたがりやりたがるためにウォルトの医術をどんどん吸収していった。
「先生、薬は10日分でいい?」
「ああいいよ」
「レイズ、それ私にやらせて」
「出来るのか?」
「うん。もう覚えた」
「すごいな」
家の中の書物は医学書で溢れていたし、目の前に見本となるウォルトもレイズもいたからの知識と技術は瞬く間に向上していった。それはにとって生きることそのもの、人生そのものとなっていった。
「レイズ……壁の向こうに人が行ってる……」
「え? 当然だろ。街があるんだし」
「街?」
「ああ。このウォール・シーナの外にはたくさん街や村があって、その周りにはウォール・ローゼがあって、その向こうにもまた街があって、それをウォール・マリアが囲んでいる。知らなかったのか?」
「え? 壁の向こうにまた壁……? じゃあ巨人って……」
「それはもっと、ウォール・マリアの外だ。そこはもう人が行っちゃいけない領域だよ」
「……私、巨人っておとぎ話だと思ってた」
「はは。まぁそう思っても不思議はないんじゃないかな。特に王都じゃ三重の壁に守られてもう誰も巨人なんて見たことがないしね。壁が作られて100年、平和なものだよ。わざわざ巨人のいる壁の外に行こうなんて奇特な人達は調査兵団くらいさ」
「調査兵団?」
診療に出るレイズについても街に出ることが増えると、は黒い髪を隠すため白い布を被り東洋人独特の顔立ちを隠すために大きめのマスクをつけて街を歩いた。その姿は医者でなければかなり目につくものだったが、レイズに続いても加わった診療所は街でも地位を高め評判になっていった為に怪しむ者はさほどいなかった。
「調査兵団は壁の外に出て巨人の実態を調査しているそうだ。勇気ある英雄って言われてるけど、毎回たくさんの人が亡くなってるらしいよ。僕はあまり共感出来ないね」
「巨人の実態調査? 巨人に会いに行ってるの?」
「去年、2番通りのボルマンさんの家の二男が亡くなったって聞いた。奥様は酷く悲しんでいたよ。家出同然で調査兵団に入団して、顔も合わさずに亡くなったそうだ。そんな不幸なことはないよ。それでいていまだに何も巨人について解明できていないんだから、報われないよ」
「じゃあ、どうして壁の外に行くの?」
「大義名分の為というが……人が何百人も死んでいるのに、人類の為も何もないよ。目の前の人も守れないのに人類なんて大きなものを守れるとは僕は思わない」
「……」
この世界が直面している状況をは何も知らない。
この街に何が溢れ、人々が何を思い、どんな思念が渦巻いているのか。
あんなに大きく見えていた屋敷はたったひとつの家でしかなく、街に出ればこんなにも大勢の人とたくさんの家家が並んでいた。高く立ちはだかっていたウォール・シーナは一番内側の壁で、その外側にはさらに多くの街と人、さらに壁までがあるという。なんて大きな。なんて広大な。息の仕方も忘れるくらい、世界はこんなに大きなものだったなんて。
わざわざ壁の外に行くなんて愚かな行為だとせせら笑う王都の住人は少なくなかった。壁の中にいれば巨人といえど人類を攻撃出来はしないのだ。壁が出来て100年以上、もはや巨人を見たことのある人間もそういない。世界は安全になった。この世は何の諍いも不幸もない、豊かな世界になったのだ。
誰もがそう思っていた。
しかし845年……その常識は脆く、あまりに呆気なく崩れた。
超大型巨人が先端の壁、ウォール・マリアを破壊し巨人が再び人類に襲いかかった。
最先端の街・シガンシナ区が壊滅し、すぐにウォール・マリア内地へも巨人は侵入し人間を襲撃、捕食し、多くの命が亡くなった。逃げ惑う人達はウォール・ローゼ内へと逃げ込み、最も内側の街にも大勢人が押し寄せ街は混乱に陥った。人同士の争いが頻発し、食料難は暴動を引き起こし内地は混沌とした。
そしてその事態を収拾すべく、846年、ウォール・マリア奪還作戦が敢行された。
一般人も交えた多くの兵を投入し、ウォール・マリア内地を取り戻そうと巨人に戦いを挑んだのだ。しかしそれも、二重の壁の中に溢れすぎた人の数を制御する為の口減らしだったと言われている。多くは元々ウォール・マリアの内地に住んでいた人々を使って巨人に対抗し、そしてそのほとんどが巨人のエサとなり帰らぬ人となったが、結局人類は敗北しウォール・マリアを奪還することは夢と散った。
連日連夜、大量の死人と怪我人が増えていった。
その治療に内地の医者も多く駆り出され、ウォルトとレイズ、そして立派に医術を身につけていたもまたその戦いに巻き込まれていくこととなった。何人も何人も怪我を負った兵士が、一般人が、運び込まれてくる。兵団の治療場もすぐにいっぱいになった。
「、もっと急げ、そんな丁寧にやってたら次の患者が死ぬぞ」
「はい!」
「消毒液が足りないぞ! 包帯ももっと大量に持って来い!」
「なにぼさっとしてんだ! こっちも手伝え!」
「おいこっちも助けてくれよ! 血が止まらないんだよ!」
ひとつの身体にどれだけの血液が入っているのかというくらいに辺りは一面血の海となっていた。千切れた腕から骨と血管が飛び出し、噴出する血が白衣を真っ赤に染めていく。次の患者へと移動するたびバシャバシャと水の中を歩いているような音がする。
「おいお前、何してんだよこっちを助けてくれよ!」
「待ってください、こちらの方も……」
「コイツを見て分からないのか! 死にかけてるんだぞ!?」
「でも、……」
「お前医者の癖に見捨てるつもりか! 兵士は死んでもいいと言うのか!?」
「そんなことは……」
痛みにもがく患者に掴みかかられ目の前で人が息絶える。
腕を失くし、足を失くし、熱に犯されうーうーと何人もの呻き声が呪文のように脳を突く。
ドロドロと手を伝う赤い血。どこもかしこも赤ばかりで違いが見分けられない。
ビクンと突然に痙攣を起こし肌を掻きむしって人が死ぬ。
痛みと苦しみに耐えかねた兵士が自ら命を断つ。
まるで地獄だった。血が流れ続ける地獄池。
「早くしろ! こいつを助けろ!」
「分かってます、ちょっとどいて……」
「こっちに来てくれ、死んじまうだろ!」
「何やってんだ、こっちが先だよ! 助けてくれよ!!」
「今、行きますから……」
浴びせられる怒声と畳みかける罵声、頭に反響する呻き声と突き刺さる叫び声。
もわっと血の匂いが鼻をつき臓腑に不快が広がる。
手が真っ赤……血の中を泳いでいるよう。肌にまで染み込むよう。
もう何をすればいいのか。何から手をつけ、誰から手をつけ、何を考えればいいのか―。
「―……」
頭の中が爆発しそうで、目の前が真っ赤に染まりは頭を押さえた。
気が狂いそうだった。爆発しそうだった。叫びだしそうだった。逃げ出したかった。
―その時、バシャン! ……と頭から大量の水をかけられた。
「……え」
血染めのマスクが流れ落ち、頭の先から水の冷たさが伝っていった。
周りにいた誰もが一瞬静まり返り、ポタポタと血を含んだ水滴が流れていった。
「頭を冷やせ、馬鹿野郎」
「……」
冷たく静かな低い声が、耳に、脳に届く。真っ赤だった視界に色が戻った。
その目で正面を見ると、空になった水桶を放り投げる、兵士がひとり。
こんな地獄のような惨状の中でも静けさを保った眼。……その目を見て、は何か、何かを感じた。
「こいつはもう駄目だ、外へ連れていけ。そいつもだ」
「なにを言ってんだお前……」
「見極めろ。時間が無いんだ。全員なんて助けられるわけないだろう。こいつらは神でも何でもない、ただの医者なんだ」
「……」
ただの、医者……
まさに水を打ったように静けさが流れる。
けれどもすぐに周囲の兵士と医者達は動きを取り戻し治療を再開した。
「悪かったな」
「え……」
目の前の兵士は歩き出しながら、ポツリと言葉を残した。
その謝罪がどういう意味を成しているのかには分からなかったが、その背中に調査兵団の……両翼が折り重なったマークを見て、何か……光を見たような気がした。
「、どうした!?」
遠くからレイズが駆け寄ってくるとは去っていった兵士の背中から目を離し、タオルで顔の水気と血を拭われ新しいマスクをつけられた。
「大丈夫か、少し休め」
「ううん……大丈夫」
「じゃあ、手を洗って来い」
「うん……」
は外へと連れて行かれる途中、もうすでに遠くにいるあの兵士を見た。
何故だか胸が高鳴っていた。それはこの混沌とした治療場に漂う悲壮感とは違う……闇ではない、影ではない、それは何故か……温度を感じさせた。
「リヴァイ! 集合だ!」
「ああ」
治療場を出る寸前、別の兵士に投げかけられた声に先の兵士は応えた。
はその時ようやく、光の意味を知った。
”リヴァイ”
思い出した。もう何年も前のことだけど、光の速さでそれは戻ってきた。
あの時、天から降り注ぐ光のように降ってきた背中。
闇の手を切り落とし、背中に翼を見た、あの背中。
その名は忘れない。
それは確かに、に射した光だったから。自由だったから。未来だったから。
彼だったから。