生まれた時からどこか……何かが違っていた。
 はっきりと何が違うと自覚は出来なかったが「違う」ということは分かっていた。少女にとって目に見えているものがただ一つの真実であったし、それが世界のすべてだった。

「傷口に直接? そんなの自殺行為だぞ」
「死のうとした……ってことか?」
「馬鹿野郎! がそんなことするわけないだろ、こいつは医者だぞ!」
「早くどうにかしてくれよ先生! 薬は? 薬はもう出来てるんだろ?」
「まだ実験中だ。成果が出るまでにはまだ時間が」
「そんなこと言ってる場合かよ、このままじゃ死んじまうだろ!?」

 馬車は医研に到着し、はすぐに治療室へと運び込まれた。寒気で震える体は熱を上げ、うなされるはやがて意識を失う。傷口から入りこんだ病原菌は右腕を浸食し広がり続け、力を失う手からペンダントが零れ落ちた。

 カツンと床に堕ちたペンダントをリヴァイの右手が拾った。
 熱に犯されるその手ではもう何を掴む力も無い。希望も自由も光すらも。
 ……けれどもリヴァイは見たのだ。病原菌を植え付けた腕を包んでいた白衣。

「薬を試せ」
「駄目だ、まだ人で試していない、副作用でも引き起こしたら……」
「こいつが治るということは他の何人もが治るということだ。こいつはお前達を信じたんだ」

 他の人間に伝染しないよう。これ以上、悲しみを増やさないよう、うなされても隠し続けた。
 何人もの死を乗り越え、命に縋り死に抗い、闘い続ける者達を信じ、走り続けた。

「こいつを医者にしてやれ」

 死など、最も遠い場所になければいけないのだ。
 この青い石にはそう吹き込まれている。

「……これで、はちゃんと治るのか?」
「まだ分からん。熱が引くまでは安心できん。斑点が薄れてきている、効果は出ている。後は生命力次第だ」
「そんな」

 薬は投与された。それは病原菌の増殖を抑え、やがて駆逐していった。
 けれどもまだ引かない高熱は残り僅かな体力を奪い続けている。
 熱にうなされ呼吸が荒れ、体が傷口から朽ちていくよう。

「がんばれ、死ぬな!」

 ベッド脇から身を乗り出し、ガイが苦しむに叫ぶ。

「そうだ、戻って来い!」
「お前が死んだら俺達、誰に感謝すりゃいいんだよ!」
「帰って来い! !」

 ベッドを囲む兵達は皆声を上げ、意識のないまま苦しむに叫んだ。
 戻って来い。戻って来い。
 これまで何度もそう願い、失ってきた命をいくつも見てきたけど、叫び続けた。
 叫び叫び呼び続け、それは無い右腕にもヒビの入った脚にも痛く響き、夜は更けていった―。


 夢を見た。何を見たかは覚えていない。けどその色ははっきりと覚えている。
 眩しくて、くらくらと眩暈を感じるほどの青だった。
 眩しくて眩しくて閉じた瞼に力を込めて、そっと開いた。

「……」

 ゆっくりと開いた視界は薄暗くて、霞んだどこかの天井が見えた。
 あんなに眩しかったはずなのに。あんなに大きな空だったのに。

「起きたか」

 次第に意識が覚め、ここは……と思った途端、低い声が囁いた。何と言ったかも分からなかったが、その声は分かった。その方に目を傾けると、ぼんやりと光を持ち始める窓際に人影を見た。

「リヴァイさん……」

 きちんと声にならない空気が喉から漏れて、起き上がろうとしたが頭の中がぐらりと揺れ、鉛のように重い体は持ち上げられなかった。朦朧とする意識ごと両手で頭を押さえると、組んでいた腕を解くリヴァイは窓から背を離しベッドへ歩み寄った。

「リヴァイさん……、私……」
「お前の勝ちだ」
「……?」

 離した手の下から目を上げると、リヴァイはの顔の上に手を差し出し、その指先から青い泪型の石を垂らした。それを見ては飛んでいた記憶を思い出し、ペンダントに手を伸ばした。がそれを手に取るとリヴァイは背を向け窓辺に戻りシャッとカーテンを引いた。うっすらと滲んでいた青い光が部屋の中を少し照らすと、はすぐ傍に伏せっている誰かの頭に気付いた。ゆっくりと体を起こし、自分が寝ているベッドを囲み眠り落ちている調査兵達を見た。

「ん……寝ちまった……、あっ、!」
「な、なにッ!?」

 夜中ずっとを呼び続けた兵士達は、薬が効き熱も引いて落ちついていったに安心すると眠りに落ちてしまった。一人が目を覚まし声を上げると他の兵士達も次々目を覚まし、ベッドの上で起き上がっているを再び囲んだ。

、無事か? もう苦しくないか?」
「お前、無茶するなよ! 死んじまうかと思っただろ!」

 捕まり閉じ込められ、傷を負った腕に病原菌をなすりつけた所までは思い出せるが、その後のことは何も思い出せないはこれがどんな状況か分からず目を丸くした。どうして療養棟で安静を言い渡されているはずの兵士達が自分を取り囲んでいるのか。どうしてみんな、声を枯らしているのか。
 青白い部屋の中で、包帯の白だけが浮かび上がって見えた。体を起こすことも困難な程内臓に怪我を負っているのに。片足を失い歩くこともままならないのに。戦うことが出来なくなって、壁外へも行けなくなって、調査兵としての誇りを奪われ、絶望に立たされていた彼ら。なのに。

「腕は無くても人探しは出来るんだよな」
「そうそう、片足でもお前一人くらい担げるぜ。っていっても俺達なんもしてねーけどな!」
「俺達を助けてくれるお前を助ける。これだって、立派な俺達の仕事だろ」
「皆さん……」

 は呟いて、その声があまりに素直に通ったものだから、ハッと自分の口に手を当てた。マスクをつけていないことに気がつき咄嗟に俯いた。

「お前は俺達にとって医者だ。それ以外の、何でもねぇよ」
「……」

 いつでも支え信じ合い、ふざけ笑い合っていた笑顔がそこにある。
 明るく出迎え、何でも笑い飛ばす強い彼らが、まだそこにあった。
 隠し続けた内側が曝け出されてしまっても。

「すみません……、皆さんに、こんなご迷惑を……」

 けれどもマスクの無い顔に慣れていないは怯え目を移ろわせる。
 そんな俯くの目を上げさせるように、頭や肩に大きな手がいくつも延びてきた。

「だから言っただろ、仲間は助け合うものなんだって!」

 まだ夜は明けきっていないのに、光があたりを包みこんだ。
 まだ顔も心も向き合えないのに、誰の目も逸らされることはなかった。

「……あ、……」

 いつでも大きく笑い飛ばす彼らの強さが、壁の向こうから上がってくる朝陽のように射しこんで漆黒の髪を照らし、黒い瞳を覆う波が誰の笑顔も虹色に滲ませて、言いたいのに……頭の中はその言葉でいっぱいなのに……どうしても込み上げる涙が胸を詰まらせて、震える赤い小さな口からその言葉を発することが、出来なかった。

 ありがとう。たくさん言いたいのに。きちんと言わなきゃいけないのに。
 絶えず溢れる涙が邪魔をして、それをまたみんなが笑って頭を撫ぜて、袖を押しつけ拭って慰めるものだから、まるで迷い子が帰るべき場所を見つけたように、ポロポロ、ポロポロ、ペンダントを握る手に零れ続けた。


 ―この狭い壁の中に、貴方の安住の地は遠いかもしれない。
 それでも必ず、出会える日が来ると信じなさい。
 貴方を愛し、助けてくれる人がいれば、貴方の世界はあの空のようにどこまでも広がっていくから。


 一ヶ月後。
 療養を終え元の生活に戻ったは、壁外調査を目前に控えた調査兵団の本部を訪れていた。エルヴィンの決定により実行部隊の全兵士は壁外調査前に検診を受けることとなり、朝から大勢の兵士が療養棟に集まっていた。

「本当に、申し訳ありませんでした。皆様に迷惑をかけてしまって……」
「それぞれが自主的に動いたことだ。職務中以外の時間にまで口出すつもりはないよ」

 検診の手伝いに来たは療養棟の一室を借り大勢の兵士を診ていたが、その部屋を突然にエルヴィンが訪れ他の兵士達は一斉に引いていった。一ヶ月前に起こった「調査兵が王都を荒らし回る」という小さな事件は憲兵団から苦言を呈されエルヴィンの耳にも入っていた。

「あの件は残念だが、今後も君には力を借りるだろう。よろしく頼む、
「はい。エルヴィン団長」

 検診を終えエルヴィンが立ち上がると、も慌てて立ち上がりエルヴィンが差し出した手に手を重ねた。

 エルヴィンが退室すると、道を空け敬礼する兵士達が代わりに部屋へと押し寄せた。これまで怪我を負い治療を受けた兵にしか知られていなかったも、検診が義務付けられたことで普段は療養棟を訪れない多くの兵にまでその名と存在は広まったようで、他の部屋に比べ大勢の兵が集まっていることにエルヴィンはふと笑んだ。

「うわ、何この人だかり。こんなに時間かかるの?」

 歩き出そうとしたエルヴィンの向かいから、長蛇の列を覗くハンジが歩み寄ってきた。その背にはミケと、さらにその後ろにはリヴァイの姿も見える。

「列が出来てるのは奥の部屋だけだ。が担当しているから男共が押し寄せている」
「へぇー。まさかエルヴィンもこの列に並んだわけ?」
「彼女と話がしたかったからな。フラれたが」
「何それ問題発言! エルヴィンもああいう子が好みなんだって、リヴァイ」
「いいじゃないか、かわいらしくて。なぁリヴァイ」
「いちいち俺に振るな」

 かの事件はリヴァイが全責任を負い三ヶ月の減給処分という形で収拾がついたが、それ以来一部ではいいからかいの種となっており、その方がリヴァイを悩ませた。

「で、彼女を引きこむ件は断られたわけ?」
「ああ。やはりどうしても目的の為に命をも投げ打つ調査兵団の志には従えなかったと」
「まぁ医者なら当然の見解だね」
「だが共感できずとも、これまで通り調査の際には来るそうだ。この現場に身を置きながら抗う選択をする、彼女もなかなかに苦しい生き方をする子だ」
「医者じゃなかったら調査兵団に入ってたかもね。そんな匂いがする」
「だが彼女は医者だ。有志の医師を集めウォルト先生を筆頭に境無き医療団なるものを立ち上げるそうだ。彼女も伝染病の一件で思う所があったのだろう。医療班に入れば兵専属となってしまうからな。格差も隔たりも無い医療こそが理想なのだそうだ」
「それもまた大変な道のりだ。ほんと、大変な方に首を突っ込む子だね、彼女は」

 そうハンジはリヴァイに向くが、リヴァイは歩き出し開いている部屋へと入っていった。

「あとミケ、ガイの正式な退団が決定した」
「そうか」
「今後はウォルト先生の元で学ぶそうだ。それもの勧めらしい。まさに、聖女だな」

 午後の陽光が射しこむ窓辺でエルヴィンは振り返る。
 廊下の奥の騒がしい人だかりの中に、変わらず丁寧に検診をしているだろうが容易に想像ついた。

 世界を変える為に、たった一人の力で出来ることなどたかが知れている。
 だけどその切っ先は確実に、たった一人の意思から始まっている。
 一部の才覚により飛躍的に生存率が向上した調査兵団も、その基は一人ひとりの誇り高き信念で確立されている。
 人類の為、世界の為。そんな実感できないほど大きな野望も、元を辿ればごくごく自然な人としての欲求にすぎない。ただ、知らないことを知りたいだけ。見たことの無いものを見たいだけ。聞いたことの無い音を聞きたいだけ。食べたことの無いものを食べたいだけ。触れたことの無いものに触れたいだけ。心がワクワクと躍動する興奮を感じたいだけ。

 ただそれだけ。その為に、調査兵団は壁の外の、広い広い世界へと赴く。
 例えそこが人間の領域で無かろうと。そこには地獄しか広がっていなくとも。
 人は、求め歩き続ける生き物だから。

「第32回壁外調査、全員進めぇーッ!!」
「おおーッ!!」

 壁外調査の日、は本部ではなく、実行部隊が帰ってくるトロスト区の門前で待機することを提案した。怪我を負った兵士を一刻も早く治療するため。ギリギリ繋ぎとめ戻ってきた命を救うため。人が絶対的に敵わないのは巨人よりも、時間だから。
 調査兵団の壁外調査へ協力しようとする医者は僅かだがいた。おそらく誰もが己の無力さに涙するだろう。必ず誰もが巨人がいる世界の現実に絶望するだろう。だけど真っ赤に染まった手は止めない。血の波間を歩こうと足は止めない。継続こそが力になる。

「どうか、ご武運を」

 沸き立つ熱気と蹄の音が閉まった門の向こう側に消え、は両手を組み、壁の向こうへ祈りを捧げた。その腕には腕章がついていた。調査兵団の自由への意思を尊ぶ片翼と、その背に戒めと慈悲の象徴の十字。医療団としてのマーク。

 ……それでもどうしたって、人は死ぬ。巨人の圧倒的な力を前に、志半ば。
 昨日まで笑い合っていた仲間が、屍としても戻ってこない。
 捕まり、食われ、叩きつけられ、踏み潰され……。
 どうしてこの世界はこんなにも無情なのだろう。
 どうしてこの世界はこんなにも残酷なのだろう。

 3年後、その恐怖は調査兵団だけでなくこの世界に住むすべての人を襲った。
 850年、巨人の再来。最南端の街トロスト区の門が破壊され、5年の沈黙を破り世界は再び巨人の侵略を許し、戦いを余儀なくされた多くの兵の命が失われた。そうして世界はまた、無情に残酷になるのだろうと誰しもに絶望を与えた。

 けれども……どんな無慈悲に見える世界にも必ず光は射す。
 微かだが、不確かだが、人類の希望となる可能性を秘めた少年。
 巨人化する能力を持った第104期訓練兵、エレン・イェーガーの出現。

「……私を、その少年の主治医にですか?」
「危険でないとは断言できないから断ってくれても構わない。是非君にというのはリヴァイの一存だからな。君以上の適任はいないとリヴァイが判断した。君は調査兵団ではないが、君のことは絶対的に信頼している。リヴァイも、私も」
「リヴァイさんは、今……?」
「リヴァイは今ここにはいない。数名の兵と共にその少年を連れある場所に身を置いている。君が行ってくれるなら馬車を出す」
「……」

 トロスト区が襲撃され、初めて巨人の手から街を奪還した数日後、は調査兵団に呼び出されエルヴィンから巨人化する少年の体調管理を依頼された。受け取った資料はエルヴィンが前置きした通りまるで詳細に欠け、兵団の意向ももちろん分からない。

 実際に巨人を目にした今、これまでのいつ以上に、恐怖に襲われた。
 巨人と対面する、巨人に食われる、巨人と戦う。その実態を今さらようやく理解した。
 彼らはあんなものがいる所に赴いていたのかと。あんな危機に立ち向かっていたのかと。
 彼は……いつもこんな極地に立っていたのかと。

「行きます……私に出来ることなら」

 人が巨人化するという意味も、巨人の実態も何ひとつ知れない現状。
 だからこそ、どんな局面にも耐えうる絶対的な力が必要だった。信頼できる仲間が必要だった。

「こんにちは。エレン?」
「あ……はい」

 僻地に建つ古城で会った少年は、ごくごく普通の男の子に見えた。
 若く、清廉で、表情にまだ幼さの残る優しくまっすぐな。人類の希望と未来を託された少年。
 そのエレンを連れての壁外調査。いつも通りのはずだった。いつも通り、行って、帰ってくるだけの。

「エレン……」

 いつもの調査より早くに戻ってきた調査兵団は、エレンを連れた主要部隊だけがの待つ古城へと戻ってきた。門前どころかカラネス区へ赴くことすら出来ず、ブルブル振動する手を握りただ盲目的に信じて信じて、いつも通り、不安も心配も無駄だったと笑える時を、一人祈り待っていたの元へ帰ってきた、エレンとリヴァイ。
 帰ってきたことに一時の安心はしたが……エレンの表情はそんなの思いを吹き飛ばすほど青ざめ、涙で目を腫らしていた。一人で歩けないほどに疲弊したエレンをミカサが椅子に座らせ、リヴァイがハンジにエレンを任せ一時部屋を出ていく。

「エレン、怪我はないの……?」
「ありませんよ……。怪我なんかしたって、すぐ治っちゃうんだから……」

 一体壁外で何があったのか。はそんなことを聞く立場に無い。ただ呆然と力を失うエレンを休ませるだけ。誰の空気も痛く冷えて、悪い予感しかさせなかった。それに……いくらミカサとはいえ、新兵の彼女がここまで付き添っていながら……、他の特別作戦班の班員達が付き添わない……なんてことが、あるだろうか……。



 エレンをベッドに休ませた後、ハンジがを部屋の外へと連れ出した。

「リヴァイの所に行ってあげて」
「え……?」
「おそらく怪我をしてる。歩いて帰ってきたからそんなに重症じゃないだろうけどね。何せ彼は我慢の塊だから」

 表情を引きつらせたを和ませようとしたのか、元々の性格からか、ハンジは多少の冗談を織り交ぜたがはすぐさま地下の階段を駆け上がりリヴァイの部屋へと向かった。けどそこに姿はなく、再び階段を下りて食堂に使っていた部屋を開ける。そこにも姿がない。近くの部屋をすべて回り、そうして入口近くの、が先刻までずっと震え佇んでいた診療室でようやくその姿を見つけた。上着とブーツを脱いでいるリヴァイは水を張った桶に裾をめくった左足をつけ、椅子に座りジッと石畳の床を見つめていた。

「リヴァイさん……」

 駆け寄りリヴァイの傍らにしゃがみ、見せてくださいと足に手をつくもリヴァイは動こうとしない。近くで見上げたその表情は、が見たことも無いほど凍てついて、ピリ……と空気が弾け飛ぶほどあらゆる感情が入り混じり渦巻いていた。しばらくして両ひざについていた肘を離しリヴァイはザバッと足を桶から出す。足首が赤く腫れ熱を持ち始めていて、はそっと触れながら異常を調べた。

「大事には、至って無いようです。骨も折れてはいないようですし……安静にしていれば、すぐに治ります」

 は少しでも、普段通りを心がけようとした。
 リヴァイの治療など滅多にすることではない。ただの捻挫だろうと、リヴァイにはこれまでで最も重い怪我かもしれない。

「……そうだな」

 リヴァイがようやく声を発した。表情はいまだ堅いが、はそれに少し安堵した。
 けれどもリヴァイは立ち上がると突然足元の水桶をその左足で蹴り上げはビクリと身をすくませた。水を撒き散らしながら一直線に壁に飛んでいった水桶は衝撃でバラバラに壊れ、それに構うことも無くリヴァイは今度は座っていた椅子も蹴り壊した。

「リヴァイさん、やめてくださいっ」

 簡易ベッドも、棚も台も、手当たりしだい周囲のものすべて蹴り壊した。の制止も聞かず、歩くことは厭わなかったといえ赤く腫れ痛んだ左足で。折れた木の先端が肌を裂き鮮血が飛び散る。それすら厭わず鉄の台でさえ蹴り飛ばし、何度も何度も執拗に、左足を。

「リヴァイさんっ……」

 痛めつけられる足に耐えられず、はリヴァイの左足を抱き止めた。
 おそらくそんな力など撥ね退けられないはずはなかったが……リヴァイは足を止めた。
 破壊音と石畳に反響する衝撃音が鳴り響いていた診療室はシンと静まり、は抱き止めたリヴァイの左足から力が無くなっていくのをドクドクと激しい胸の中で感じた。

「骨が折れるほど叩きつけられる痛みは……こんなものじゃないんだろう」
「……」
「喰われるのも、握り潰されるのも、踏みつけられるのも」
「リヴァイさん……」

 怒りとも悲しみとも言えぬリヴァイの表情。
 一体、どんな感情が渦巻けば、何に直面すれば、こんな何百もの感情が混濁したような表情が現れるのか。

 リヴァイはの手から離れ、どさりと壊れたベッドに腰を下ろした。
 背けられた感情は何も分からない。分かった所で、何ひとつ、かける言葉など思いつくはずが無い。彼が見て体験したことは、人が一生のうちにそう何度も遭うはずの無い、本当の終わり。それを、彼はこれまで、何度、何度、強いられてきただろう。

 いまだ怯え小さく震える指先で、はリヴァイにどうすることも出来ず、手元の倒れた台を起こした。辺りの壊れた破片を拾い、割れたガラスを集め、元通りであろうと、普段通りであろうと。彼に、散らかった部屋など似合わない。荒れ果てた部屋にいて欲しくない。

「……

 ボソリと、風の音と間違うくらいに小さな声が発され、でも確かにそれを聞き取ったはリヴァイに振り向いた。見ると、リヴァイは自分の後ろ首に手を回し、金具を外し襟元から青い泪型の石を取りだすとこちらへ差し出した。旅立つ前にから取ったペンダント。戻ったら返すと、珍しく彼が約束などをした、の青い石。
 はリヴァイの傍に寄り、リヴァイが差し出す石の下に手を差し出した。けれどもリヴァイはペンダントを手放さず、紐の両端を手に取るとこちらを向きの後ろ首に両手を回した。石が元の場所に戻ってくる。……けれどもリヴァイは手を回したまま動かなくなり、カチリと金具が止まる音もいつまでもしなかった。近すぎて表情も、心も見えない。見えないけど……感じた。彼から怒りも恨みも、毛羽立ったあらゆる感情が解けて消えて行くのを。

 その時、は思い出さねばいけなかったように、思い出した。
 いつかのリヴァイの言葉。

 誰かが食われた瞬間は巨人への憎しみしかない。
 その憎しみはやがて自分に向かう。
 それも過ぎると、そいつらと共にした時間が蘇る。



 耳元で生む声が、あまりに弱く、すぐそばに彼がいなければ到底彼とは結び付かず、はじわりと瞳に涙を溢れさせた。

「泣け」
「……」

 ポトリ、涙が落ち彼のシャツに染み付くのが早かったか。
 彼の声が耳に届くのが早かったか。

「お前が泣け、……」

 笑うことも、涙を流すことも、壊死してしまったような体で。
 貴方は、泣けない人間にはなるなと言ったの。
 誰しもに与えられたはずのものを奪われ、誰しもが手に出来ないものを植えつけられ。
 それでも貴方はそうして人を想い、見えない所に傷を負うの。

 リヴァイはペンダントを留め、寄せていた頭を離し、溺れるの黒い瞳を見た。黒いまつげにぶら下がる涙は頬に落ちる前にマスクに吸い取られ、リヴァイはマスクを剥がしの顔を見ると、頬に手を寄せ掌に涙を染み込ませた。乾いた肌を潤すように。ささくれを癒すように。悲しみを溶け込ませるように。

「リヴァイさん……」

 時は戻っても待ってもくれず、この人をまた明日へと連れて行こうとするけど。
 人の涙でしか心を潤せないこの人を、抱きしめるくらいの時間は与えて欲しい。
 瞳に彩りを。掌に温度を。心臓に命を。存在に意味を。

 いつか……明けない夜に閉じ込められる日は必ずやってくる。
 けど今はまだ光が射すから。明日は来るから。希望が、どうしたってあるから。
 走る足があるから、進み続けなきゃいけない。

 旅立つ貴方を、私はまた見送るのだろう。引き止めることも叶わない手を振って。
 そうして戻ってくる貴方を抱き締められるように、いつでも両手を広げている。
 私に空を見せてくれた人。飛び方を教えてくれた人。
 日々貴方を信じ、祈り、そうやって一生を終えてもいい。
 日々貴方を想い、慕い、そうやって一生が終わればいい。

 だから彼には夜は来ないで。
 未だ知らぬ夜に彼を閉じ込めないで。
 傷ついても、崩れても、壊れても。私が治すから。
 また、私に帰して。
 

未知らぬ夜に

Unknown nocturne