850年、寒さが後を引く春。
 調査兵団本部の訓練場では激しい訓練に精を出す兵士達が汗を弾き、その向かいに建つ療養棟には事前検診を待つ兵士達が棟の外にまで列を成す。壁外調査を明後日に控え、朝から実行部隊全兵の検診が行われていた。

「はいはい、一所に並ばないで、いつまでも終わらないでしょ!」
「待てってグロリア、俺はここがいいんだよ」
「ダメよ、陽が暮れちゃうわ。アナタはあっち、アナタは向こうよ!」

 奥の診療室から伸びる長い列が活きの良い女の声で解消されていく。
 目的を持って長い列にも並んでいた兵士達はぶつくさと文句を言うも、背中を押してくる女の勢いに成すすべなく他の診療室へ並ばされた。

「まったくどいつもこいつも、ここじゃなきゃ嫌だなんて子どもじゃないんだから」
「はは、の所はいつもこんな調子だ」
「並んで待ったってちょっと検診受けて終わりでしょ。ソレの何が嬉しいの? 女口説きたけりゃもっと強引にいきなさいよ。早く終わってくれないとこっちまで片付かないわ」

 班員室に戻り大きくため息をつく女兵士・グロリアは、ドサッとイスに座ると高い位置に縛った長い髪を馬の尾のように揺らし、シャツの中で大きく膨らむ胸を付きだし背もたれに身を預けた。彼女の空気にも容姿にも不慣れな周囲の班員達はそれから目を逸らしながら、どうにも気になってチラチラと覗く。兵士の道を選ぶ女なら女性らしい素振りや対応などは打ち消すのが大半だが、調査兵団の中でも彼女は異色なタイプだった。

「何も連中は口説きたいわけじゃないさ。ここのやつらにとって彼女は”聖女”だからな。まぁ中には本気で口説きたいヤツもいるかもしれんが」
「聖女ねぇ。ただ若い女の医者が珍しいだけじゃないの」
「そんな言い方するな、彼女はあれで一つ星の医者だぞ。エルヴィン団長にも、リヴァイ兵長にも信頼されてる優秀な医者だ」

 リヴァイ兵長にも?
 カップにお茶を淹れながら、グロリアはその名に反応した。団長はともかく、何故リヴァイまで。実力者ぞろいの実行部隊、その兵士長として多くの部下を預かる身として、医師達は当然関わりの深い存在ではあるだろうが、あの人がまだ経験の浅い未熟な医師を信頼するなど、あるだろうか。

「……あの子、リヴァイ兵長とそういう関係なわけ?」
「え? いや、そういう意味で言ったんじゃないが……」
「ウソが下手ね。つまりそういうことでしょ。オオカミの群れに自ら飛び込んでくる無垢なウサギをみんなヨダレ垂らして見てるけど、凶暴な親分のお手つきとあれば誰も手は出せずに周りをグルグル歩き回るだけ」
「お手つきというのは具合が悪いが……」

 言葉を濁しながら、けれどもあながち的外れでも無いような顔色。
 グロリアは訝しげだった。顔をはっきりと見たことはないが、まるで新兵のように幼く感じる。王都のお嬢様という名目を好む男は多くいるだろうが、体つきに至ってはとても手を出したくなるような魅力は見受けられない。

「趣味が変わったわね」
「なに?」

 なんでもない。グロリアはカップを置き、散らばる検診表を整理しだした。


 陽が傾いていくにつれ療養棟を行き来する兵士の数は減っていき、太陽が壁近くに落ちていく頃にはどの診療室も検診を終えた。それでも最後まで奥の部屋だけは兵士が残っており、各部屋を回って検診表を集めなければならないグロリアは部屋の外で最後の兵士の検診が終わるのを待っていた。検診などものの数分で終わるものなのに、もうここで何十分待たされているだろう。何やら話している声が微かに聞こえる。いつまでも喋ってんじゃないわよと、検診表の回収が終わらなければ仕事が終わらないグロリアは懐中時計の針を睨んだ。

 そこへゴツゴツと床板を踏み締める複数のブーツの音が響き、グロリアは音のほうを見た。廊下の先から歩いてくるのは兵士長のリヴァイ。それに続いて兵服を汚した数名の部下たちが控えている。暗がりの廊下を近づいてくるリヴァイが窓辺にいるグロリアに目を留める。グロリアは苛立ちの表情も忘れ背筋を伸ばした。

「お疲れ様です」

 敬礼の形を取りながら、グロリアは傍まで来たリヴァイをまっすぐ見る。
 ああと返答するリヴァイはそのまま通り過ぎ、突き当たりの水場で手の汚れを洗い落とした。

「何してんだグロリア。お前は検診じゃないよな」
「久しぶりエルド。あなたたちまだ検診受けてなかったの?」
「俺たち第三訓練場にいたからな、戻ってくるのに時間かかっちまった。まだ先生たちいるか?」
「ええ、他の部屋は空いてるからそっちに行って」

 扉が開いている診療室に誘導され、エルドを始めぺトラやオルオは他の部屋へ散っていった。それを見届け、グロリアはうしろを振り返る。濡れた手と顔を拭き、マントとジャケットを脱ぐとスカーフを外して首元までを拭う。汗や汚れを嫌う性分は以前より変わりないようだった。

「お久しぶりです、リヴァイ兵長」

 拭ったタオルを水桶に沈めるリヴァイがゆっくりと振り返る。
 何の気配も伺えない眼も。常に堅く引き締まっている口唇も。シャツの中に隠れる隆々とした体躯も。

「といっても、兵長と呼ぶのは初めてですね」
「ここで何してる」
「私、このたび医療班に異動になりました。検診表集めないと戻れないんですけど、ここだけいつまでも終わらなくて。ここ待ってると陽が暮れちゃうから、他に先生探してきますよ」

 綺麗に微笑むふっくらとした口唇が夕陽に照らされ光り艶めく。
 リヴァイがまっすぐに向き見つめてくる目とは相対せずにいると、傍の扉が開き一人の兵士と、白衣とマスクを纏ったが小さく笑い合いながら出てきた。

「アレ、戻ったらまた持ってくるよ」
「はい。遠征お気をつけて」

 ジャケットに袖を通しながら笑顔で去っていく兵士。検診を待つ兵の中には、グロリアが何度促してもこの部屋の前で待つ者が数名いた。今の兵士もそう。何度他に回れと言っても頑として動かず、あんな穏やかな顔など見せなかった。
 兵士を見送ったは、グロリアと、奥にいるリヴァイに気付く。
 リヴァイはすぐに目に留まったが、はグロリアに覚えがなかった。

「リヴァイ兵長、検診終えられたんですか?」
「まだだ」

 水台に置いていたマントとジャケットを掴み、リヴァイはに寄っていく。診療室へ入るリヴァイを見届け、はグロリアに向き直した。

「検診をお待ちですか?」
「いいえ、医療班に異動になったグロリアよ。検診表を集めなきゃいけないの。あとここだけなのよ」
「まぁ、ごめんなさいお待たせしてしまって。すぐお持ちします」

 そうは慌てて中へ戻っていく。
 ”まぁ”? 兵団の中ではまず聞かない言葉使い。
 お上品な女とは関わりの少ない調査兵団の男共が群がる理由も合点がいった。

「すみませんお待たせしてしまって。リヴァイ兵長の検診表は私が直接提出しに行きます」

 グロリアは検診表を持って出てきたから紙の束を受け取るが、その量は他の部屋とそう変わりない。こなしている人数は他と変わりないのに時間だけかかっているのは、手際が悪いのか無駄話のせいか。とても一つ星を得るような医師には見えない、ただの王都のお嬢様。けれども手際の悪さも無駄話も好まないだろうリヴァイが、急かすどころか奥の椅子に腰かけ静かに待っている。班員も他の兵士も直接的な表現は避けていたが、女の鼻には十分にその関係性は嗅ぎ取れグロリアはの前から立ち去った。

「お綺麗な方、ビックリしました。外で会ったら兵士だとは気付かないかも」
「兵士にはまるで褒め言葉じゃねーな」
「親しくしてらっしゃる方なんですか?」
「あ?」
「何やらお話してらしたから。他の方たちと違って、リヴァイさんにあまり恐縮してませんでしたし」
「……」

 リヴァイの前に座り、話しながらは聴診器を耳にかける。
 傍に寄ってくるを見ながら、リヴァイはそのマスクをくいと引き下げた。

「気にしてんな」
「ヤダ、してませんよ」
「嫉妬くらいしろ」
「どっち?」

 クスクス笑いながら、触れてくるリヴァイの手を外させ聴診器を寄せる。
 それでも髪に頬に大きな手をあてがってくるからいつまでも心音は聞けなかった。
 邪魔しないでと手を下げさせれば、今度は膝をコソコソと撫ぜてくる。
 その手が膝から腿へ、足の内側へとさすり寄ってくるものだから、もうとはリヴァイから離れ採血の用意をした。

「あ、そうだ。リヴァイさん、私しばらく北のセンターへ行ってきます。あちらの先生から呼ばれて」
「いつだ」
「明後日の調査が終わったら出発します。ガイと一緒に。何日になるか分からないんですけど、来月までには戻ると思います」

 注射筒に針を装着し戻るは台を引きよせリヴァイの左腕を乗せる。管で血流を止め消毒し針を寄せ、皮膚を突き抜け赤い血を筒の中に受け止め、血が溜まると管を外し針を抜いた所に綿を当てる。

「なら尚更今しとかねぇとな」
「あ! ……」

 リヴァイがを無理に引き寄せるから、血を押さえていた綿がポロリと外れ落ちた。

「もうリヴァイさん、血が……」
「こんな小さな穴から大した量出ねぇよ」
「ちゃんと消毒しないと、バイキンでも入ったら……もう駄目だったら」

 注射痕を案じ見ようとしても、強いリヴァイの手が掴み口を寄せてくる。
 リヴァイの左腕からつと赤く血が垂れるのが見えて、はリヴァイの口を押し離した。

「お前、これでもし俺が明後日死んでみろ。後悔するのはお前だぞ」
「それ前にも言いました。もう騙されません」
「騙してねーだろ、生きて帰ったのは結果論だ。次は分からねぇよ」

 そんなこと。リヴァイはいつもきちんと先頭に立ち壁の外から帰ってくる。
 ……そうと、当然のことのように分かっているのに。信じているのに。
 大空ほどの信頼よりも、一滴の雨粒ほどの不安が勝る。

「ほら」

 目先でリヴァイの指先が口唇を誘う。

「ズルイ……」

 分かっていながら。信じていながら。騙されていると知りながら。
 じっと待つ口唇に、寄っていくのはいつだって私の方。

 

未知らぬ夜に

Merry X'mas & Happy Birthday 2014